コドクな夜の散歩者
ソルは月あかりの、いがいな明るさをしりました。街灯のとぎれた、堤の上のデコボコ道。もり上がったまん中と、くぼんだりょうわきの水たまりをさけて、カンオンは消したまま、彼は歩いていました。
カンオンの消費時間は、つかい方にもよりますが、数日間はもつようです。エネルギー不足になると、みずから最寄りのピットにいき、あさい凹みにはまってエネルギーチャージします。宿主は、べつのカンオンとの引き継ぎ時において、ほぼ気づきくことはありません。形に差さがないからではなく、空気と変わらないからでした。
個々《ここ》のカンオンは、それ自体の個別性も、帰属性もなく、だれかが財産として所有する権利もありません。もったところで、その生きた価値は半減するでしょう。「所有は情報の分断」を意味し、人々はそれを、もっとも恐れるからです。
足首にふたんのかかる石ころ道を、大きな石をさけ、歩みつづけています。川幅がずいぶん、せばまってきました。左右にも、おなじような堤が見えます。目を落とすと、細くなった黒い底には、水のながれが感じられません。ソルは目の前の川が、まだターマ川のままなか、それとも支流に入っているのか、わかりませんでした。もうとっくに、べつの川なのかもしれません。
黒い柱が、ゆく手にあらわれました。人一人分のスペースを、柱を中心にフェンスでまるくかこみ、その上に二回り大きなカンオンがうかんでいます。エリゼ近辺ではあまり見かけない、カンオンの中継基地でした。彼はその横を、すたすた歩いてすぎました。
ちょうど、鉄橋の踏切にさしかかると同時。
「グググググゥーッ」
小さく、うめくようにサオが下り――
「カンカンカンカン!」
赤い目玉のウィンクと、耳もとの恫喝が始まりました。
しばらく、なんの音さたもまないまま、またされます。
地響きと金属のこすれる音が聞こえてくると、見ていたのと反対方向から、光がやってきました。
にげられないソルは、ひらきなおって、真正面からにらみつけます。
目に刺さるような、白い蛍光灯にさらされた車内。まどガラスをまくらに、ねるおじさん。まえのめりで吊革によりかかり、目をつむってイヤホンで音楽を聞く、スーツすがたのおねえさん。ドアにもたれかかって、まどの外のマンガをよむリーマン(カンオンが、プライベートモードで画像を照射していました)。立ったまま笑顔の、おにいさん、おねえさんグループ。ゲームしてるか、ねたふりの個べつのわかい人。電車の中は、ソルから見て大人の男女が、そこそこ、つめこまれていました。
あわのような不安が、わきおこり、消えました。
乗客それぞれの、カンオンの有無は確認できませんが、あちら側には日常がありました。一人一人に、どんな重荷があろうとも、梶井基次郎のいう「桜の樹の下で、村人みんなと酒を呑む権利」が。
列車がとおりすぎました。顔のまぢかをサオがかすめ、歩き出します。線路をわたりきると、まくら木が、ほのかにニオイました。
民家のひしめくブロックに入りました。
エリゼ周辺にはない、ワンコインの自販機が光っています。マイナーなお茶、チェリオーレ、エナジー系っぽいもの、空白、大手に吸収合併された、加糖練乳入りアックスコーヒー。デタラメな時計表示と、横にながれるニュース。リプレイするコマーシャル動画。
「ボンッ」
ボイラーの点火音とともに、石油のやけるニオイ。ボディソープのニオイも、くわわりました。
みょうにそっけなく、リフォームされた一戸建て。つるされた模造紙みたいなカーテン。車道にハミ出すほど止められた、たくさんの軽自動車。生活感があるようでない、そんなたたずまいが、しばらくつづきます。
とりつくしまもない、防犯意識高めの新築。足がかりのない、せまい裏庭のジャリの更地。そこへ設置した、陶器の犬とライト。公道を外れても反応する、赤外線感知ライト。ジャリ止めの白いコンクリートの上には、ペットボトルのネコよけ。ノッペリとした裏壁に、小さな格子窓。側面の壁には、もうしわけていどにしか開ない出窓。
異彩をはなつ、瓦屋根と門構えの古い家。開いた門に旗がかけられています。黒と白のだんだんに、先端の金の玉。白い布地が、だらりとたれ下がっていました。
ベランダが棟つづきの、なんというか業務用? みたいな設計の家もあります。その、はしからはしまで、横いっぱいの洗濯物。三つある一階の長窓は、均等な大きさで、それぞれ上にシャッターがついていました。
扉が全開の、リサイクルゴミのプレハブ小屋。車の方向転換でへこんだ壁の前に、おかれっぱなしのアナログTV。カゴからあふれている、発泡酒のカン。そこからはっする、痛んだパンのような、あまったるいニオイ。ネコが食いやぶったレジ袋から、そこら中にちらばった、魚くさい発泡スチロールの破片。赤く染まったプラスチック容器から、鼻をつく漬物のニオイ。
一方通行の商店街を、車が逆走していきます。もう、22時をすぎていました。シャッターの下りた仕舞屋(店じまいした家)の二階からもれる、健康サプリメントのCMと、東亜のドラマの音声。タバコの自販機にはられた、女が表情をつくってアップのポスター。半世紀前の電気屋の、あせたダルメシアン。あっちこっちに空いた、ジャリの更地。
むこうから、あまくケミカルなニオイが、ただよってきます。道に面した三角の庭の、さわれてしまうほど、ちかい洗濯物。止めてある軽の左前輪が、公道をふんでいました。
民家が、とだえました。日中はムクドリでうるさいイチョウの木が、黒くしずまっています。あらたに化粧直しされた、公営団地の棟々《むねむね》が出現しました。シートのかかったままの棟は、夜中だからでしょうか、工事しているようには見えません。さくで囲った前庭は草だらけで、遊具はサビて固まったまま。この前までパンパンだったゴミ囲いは、封鎖されていました。
その駐車場に止められた、種々《しゅしゅ》の車たち。大きなグリルのワンボックスカー。国産の軽。幌で高さ増しされた宅配軽トラ。軽みたいなAクラス。スポーツタイプの、国産オープン2シーター。フェンスぎわに積み上げた古タイヤ。毎夜4時に始動し夕方帰宅する、白の冷蔵2tネルフ。
やにわに、甲虫みたいな音をたてたカブと、すれちがいます。むねにラインの入った雨ガッパをきていました。
等間隔で点らない防犯灯が、闇夜に切れ切れの谷間をつくっています。林のように生いしげった放置田をバックに、まぶしいくらいの光量で、変電所が浮かび上がっていました。
ささやき声で、ソルはたずねます。
「今、なんじ?」
「ここだけ、てらせ」
闇になれた目に、まずジワッと、おぼろげに点ります。その後だんだんと明るさをましてゆき、スポットにしぼられました。
年月をへた金網の穴が、あらわに照らされました。ソルはヒザをついて、にじりより、ため池に侵入します。
変電所の照明が、ななめに差しこみ、キラキラ反射する水面。立ち上がった彼の影が、長くのびていました。
よどんだドロの匂いがします。磯くさい、ヨットのたまり場とはちがった、淡水の水草と、ゴミとドロのブレンド。人工的なエアバックの香料ともちがった、ふなれな匂い。
カンオンの時計は、ソルの地域標準時と、UTC(協定世界時)、TAI(国際原子時)を表示しています。そのわきで広告がおどっていました。
今がチャンス! 今日いっぱいの特別セール。のこり時間がカウントダウンされ、羽ばたき機や、フィギュアの特価が、チカチカ点滅していました。
「うむ、そろそろ12時だな」
彼はカンオンと池のむこうを、チラチラこうごに見くらべ、気もそぞろにまちます。
「……」
「……」
「……」
「く、やっぱダメか!」
まだ10分前でしたが、ダメだった時の、心の予防線をはっていました。
11時52分。
「そろそろ変化がなくちゃ、おかしいよな?」
11時55分。
「なぁ、もういいかげん、なんかなきゃダメだろ」
たしかに今からだと、間に合いそうもありません。
12時00分。
「やっぱりな(笑)」
「ぜぇーったいなぁー、うまくなんて、いかないんだよなぁー」
「ぜぇーたい、なんだよなぁー」
「やーめた、やめた」
2時24分
まだ彼は、ねばっていました。時間つぶしに、もう何周ため池を回ったことか。歩きだし、また回りはじめます。
有刺鉄線にちかより、今まであえて手をださずにいた、凧に手をのばします。せのびしてムリヤリ引きはがすと、原形をとどめないほど、バランバランになりました。それをしげしげ、見入るフリをしています。
12時27分
ビニールのハギレとなった凧を、糸でグルグルまとめ、大きな手裏剣の要領で、金網の外になげました。
12時28分。
もとの位置にかえりました。たいして時間もたっていないのに、なにかするたび、時計を見かえします。
12時29分。
広告表示を消し、針と数字だけを、じっと見つめています。
どこかで、長距離トラックがうなりを上げ、交差点をすぎました。
12時37分50秒。
51、52、53、54、55、56、57、58、59、60、01、02、03、04、05、06、07、08、09、10、11、12、13、14、15、16、17、18、19、20、21、22……
きびすをかえして、ソルは立ちさりました。