サン・ヤーボリの白い船
美術館からの帰り道、バスはなぜか行きとちがった、とおまわりのコースをたどりました。カンダタ川をへてスモウ川へ、そこからしばらく南へ下ると、ほのかに潮が香ります。ソルはここらあたりにくると、いつもそわそわ、しはじめました。
ごちゃついた市井のすき間から、切通しのようにかいま見える、ぼやけた白い槍の帆先。あけられない窓は、網戸ごしみたいに、紗のボカシがかかっています。かえりぎわに一時だけ見下ろせる、船溜まりの光と影 。海へと融ける、かすれた桟橋のライン。カーブの終わりに首をのこしながら、やっと見つけた開けた海。
その朦朧とした静謐な絵は、さしずめ、南欧のヴィルヘルム・ハンマースホイ(デンマークの画家)といったところでしょうか。
夏休み前、さいごの週末。鳥のことはすっかり忘れたのか、ソルは今、とぼしい記憶とカンオンをたよりに、その風景へむかうさいちゅうでした。
そこの名前も、区画番号も、彼は知りませんでした。はっきりしているのは、美術館ちかくの緑の池を起点に、南西にあるということだけです。マップ上の道をスクロールでたどり、思いつくかぎりのキーワードで、情報をしぼりこむと「サン・ヤーボリ・ポート」とでました。白い船でうまった画像を見たソルは、どうやらそれっぽいぞ、と思いました。
てぢかなトーキン・メトロからのりこみ、カンオンにみちびかれるまま、電車をのりかえてゆきます。目的地もよりのアシャークシャ駅につくと、エスカレーターで地上に出ました。
しめきったバスの中よりも、いっそうこく磯のかニオイがします。巨大なビルが、恐怖心をあおるように、彼にのしかかってきました。
歩きだすと、ゆく手をとおせんぼするように、ビルが立ちはだかりました。大小さまざまな形のビルぐんの壁が、ダラダラとつづきます。歩いても歩いても、水辺の開放域にぬけられません。ナビ上では、となり合わせなのに、歩けば歩くほど、とおざかってゆくようでした。えんえん、カンオンに、回りこみをさせられます。
やっと、切れ目から明るい光がさすと、潮風が「どっと」ながれこんできました。
半透明なフェンスが、左右見とおすかぎり、高くはられています。ちょうど真正面に立つと、透明にかわりました。テニスラケットのガットのような、見た目と感触。わしづかみして、顔をななめによせ、かた目のぶんだけ穴にあわせました。
ぼんやり、むすうの白いヨットが、かさなって見えます。目の焦点が合うと、船はあきらかに、ちかづきすぎていました。嵐にそなえるための時化つなぎのようですが、ちょっとでも風がふいたら、ぶつかりそう。不均整なクモの巣が、港内をビッシリ、はりめぐらしていました。
まばゆい純白の船体が、一つ一つ微妙にゆれています。もっとよく目をこらすと、船はキズだらけでした。切れ切れの船の波間に、水面が煌き、あたりはしんとしていました。人影はなく、閑散としていて、港ごと閉鎖されているようでした。
サン・ヤーボリは船のたまり場でした。つかわれなくなった船、故障した船、船検(車検みたいなもの)の切れた船などが、まとめておかれていました。
その中のほとんどが、ヨットの形をした浚渫船でした。環境モニュメントとして運航されている一部をのぞき、河川浄化の役目を終えた船が、それぞれの接岸施設に係留されていました。それらのほとんどは、放置されたままでした。乱立するビルぐんの中で、ここだけぽっかりあいた、都会の真空のようでした。
フェンスぎわを歩くソル。はしからはしまで歩いても、防波堤から下りられそうなところはありません。クララン・ポート・オーソリティの、管理施設入口へのスロープも、チェーンで封鎖されていました。
ソルはもう一度、フェンスに顔をおしつけ、港の景色をながめいります。さしむかいにならんだ船の帆が、おたがい反対にふくらんでいます。硬質なカーブをえがく飾り帆は、船体とおなじ素材で出来ていました。帆には「CCR」のデザインロゴと、マスコットのクラドンが描かれていました。
――クラドンとは、クラランの河川などに、ときおり遡上してくる竜のことです。近年、川の浄化完了と共に、なぜかめっきり、その姿を見かけなくなりました。そのすがたが発見されるたび、子らとメディアを中心に、フィーバーをまきおこしました。
クラドンには、民間の応援団体が、おもに三つありました。はじめは「クラちゃんを守る会」だけでしたが、公認非公認をめぐるあらそい、あつめられた年会費の使途不明問題などで分裂し「クラちゃんを見守る会」「くらちゃん・ふぁんくらぶ」へと、枝分かれしていきました。
ついさいきん、大手のカートゥーンコンテンツ会社が「クラドン」「くらちゃん」の名前とキャラクターを、かってに意匠登録してしまう事件? がおきました。今回の件をうけ、にわかに三団体は結束、いっせいに抗議をはじめました。それへ一般市民もくわわって、その会社に対する、不買運動へと発展しました。社会的非難をうけた会社側は、すぐさま申請を撤回ことなきをえる、というゴタゴタが、あったばかりでした――。
人気のない港内を、気ままにとびかう野鳥たち。カワウ、ハクセキレイ、アオサギ、ハシブトガラス、オオバン、イソシギにまじって、ユリカモメ、セグロカモメ、アジサシなどがいます。種類はさほど多くありませんが、ちょっとした鳥の楽園になっていました。よく見ると港は、あちこち鳥のフンだらけでした。特殊加工されたヨットの表面にも、前回の雨からのフンがたまっていました。
透明度の高い、この川のどこに、エサとなる小魚や、虫がいるのでしょう? 川のまん中には、中洲がありますが、自然にできたものか、人工のものか、よくわかりませんでした。アシにおおわれた小島にはヤナギが生え、こずえには巣がかかっていました。アオサギ、カワウなどが、営巣期にコロニーをつくったのでしょう。
のっぺりとつづくフェンス。その一部が細長く切られ、ドアになっているのに、ソルは気づきました。横に引く閂にチェーンがまかれ、錠前がガッチリかかっていました。これは見るからに、手でしかあきません。
キョロキョロするソル。あたりに人の気配はありません。彼はもう一度、管理センターの方へひきかえしました。
結界のコーン・チェーンをまたぎ、スロープを下り、玄関口に立ちます。暗いロビーのおくをのぞくと、赤いランプと、緑の非常口が見えました。いったん下がって、建物の全体に目を走らせます。りょうわきに葉っぱのない、ヒョロリとした、かれたような木が植わっていていました。見上げると、最上階から三階までの、非常階段が見えました。
彼は呻吟します。なぜか、せっぱつまっていました。どういうわけか、彼は行動を先おくりすることに、罪悪感を感じていました。たとえそれが、どんなに規範を逸脱した、手段であったとしてもです。
とうとうたえかねて、彼はフェンスに手をかけました。足先が入るかどうか、確認しています。つま先半分で、いっぱい、いっぱいでした。てっぺんまで5メートルくらい、といったところでしょうか。子の目には、もっとずっと高く、見えていることでしょう。意をけっし、ソルは、のぼりはじめました。
やく2メートル。このくらいは、よゆうよゆう。さて、ここから、しんちょうになります。やく3メートル。ここで決断しなければなりません。このまま頂上をめざすか、それとも、あきらめて後退するか。まよっていると、とちゅうで力つきるおそれがあります。
こういうときカンオン、は何の役にもたちません。手をそえられず、ただ情報を弄るだけの、空中にうかんだ神経のコブにすぎません。あくまで、透明な杖でしかないのです。
足がガクガクしてきました。つま先はいたいし、こわばった指はつめたいし。とまっている方がつかれる気がして、彼はまた、のぼりはじめました。
やく4メートル。つかんだり、はなしたりしているうち、指の感覚がなくなってきました。ここから一番上まで「もうムリっぽい」と、うっかり下を見てしまいました。
下半身の力が「ヒュッ」と、ぬけ落ち、間髪入れず力をこめ直しました。
なつかしき地面。なぜ、あそこじゃなく、ここにいるのか? ここじゃなくってもいいのに、どこだっていいはずなのに、なんでわざわざ、こんなところにいるのか? 自分で来ておいて、理不尽でしかたありません。
止まっていても風だけで、ユラユラゆれている気がします。フェンス全面が波打ち、ゆるい根本から、たおれてしまいそう。
「なんでもっと、ちゃんと作らないんだよ」
「ばかばか、死ねよ、ばぁーか」
ぬすっとたけだけしく、なにかに八つ当たりしました。
とにかく、上にいけば休めます。とうめん、力つきての墜落はまぬがれます。一歩一歩の歩幅をさらにせばめ、かくじつに、ちゃくじつに、のぼってゆきます。
かた手がてっぺんをつかみ、さらに、もうかた方。りょう手でグンと、体を持ち上げ、おなかを乗せました。またがって、ふせたままの姿勢をいじします。フェンスを両面わしづかみにして、頬をてっぺんの横柱に乗せました。
ぶわぁー、と耳に風があたるたび、ゆらぐてっぺん。むしろ、頂上の方がゆれるのです。上へつきさえすれば、一息つけると思っていたのに、ちっとも安心できません。顔のむきを変えて、風を大人しくさせます。体が冷めた分だけ、不安がつのりました。
ゆれる地面。本来それは、不動なはず。自分がバランスをとっていなければ、フェンスがたおれてしまいそうな、へんな錯覚にとらわれます。むかい合わせのつま先と、にぎりしめた棟、かたまったまま、しばらくじっとしていました。
しばらく休むと、不安をおしのけ上体をおこしました。
いきづまるほど胸をそらすと、広がる青いドーム。へこんでいるのか、ふくらんでいるのか、わからない蒼穹。底なしの青さ。その深淵めがけ、逆さに落ちていきそう。
白い雲は、異次元の要塞。目をこらせば、千々《ちぢ》にちぎれ消えうせる。全体では決壊しない水のダムは、形をたもったまま、東へと移動していきます。
白線を引かず運航する、白抜きの小骨。ドームの塗装を剥がす、鳶の影。その黒だけは、みょうにちかい。
巨大なものは恐ろしく、人を没落させる。目を平に落とすと、街灯の列。一本につき一羽づつのカラス。頭の上で羽を休める、黒い足。
今どきの子のソルは、やおらカンオンで、ショートゲームをはじめました。このタイミングで、最高得点をねらえそうになったので、やめました。ねっちゅうしすぎて落っこちたら、バカみたいですからね。うつぶせになって、また休憩に入りました。
おりかえしの下りは、あっという間。しんちょうをきしたはずなのに、まったく、おぼえていませんでした。
立っていることになれぬまま、目の前にもう、階段がありました。さいわい、茶黒くさびた手すりがついていました。せまいコンクリートの段は、垂直に落ちるような急勾配。一段一段、ひざをカクカクさせながら下りていきました。
桟橋はフンだらけでした。よけようがないので、しかたなく、ふんづけていきます。係船柱、もやい綱、アンカー、帆綱、策具、ドラム缶などにも、白いフンがつもり固まっていました。
ギチギチで止められた船。助走をつけなくても、となりへ飛びうつれそう。山もりのロープの下からのぞく、板を目ざとく見つけ、ひっぱり出しました。日にさらされた板の先っぽを、プルプルせながら舷側にかけます。ゴムのようにしならせ、のぼっていきました。
デッキに上がってあらためて見まわすと、壮観ですが単調な景色に、ちょっとがっかりしました。白い船体に、企業名のロゴやマーク、マスコットなどの塗装がはられたもの。カートゥーンのキャラクターでいっぱいの痛船。そしてなによりも醜悪な、絶対善の啓蒙をかかげた船。
いちおう助走をつけて、つぎの船へジャンプ。体操マットが、ズレル感じで着地。ガチャガチャうるさいメッセージの林を、さまようソル。
そこだけ陥没したような、景色が目にとまります。無地の一艘が、白く光っていました。
ちかよって確認します。キズはありましたが、まっさらでした。どうしてこれだけ、なにも書かれていないのでしょうか。おそらく完成間近に、河川浄化が終了し、その存在理由を失くしたものと思われます。
「いいね、これ」
「あ、画、保存ね」
カンオンを見ずいいました。
「これってもしかして、あけられない?」
なんの気なしに、いいました。
「シュッ、コン」
ビンのフタを、あけたような音。
「え、マジで?」
「おいおい、あいたよ(笑)」
ロックの外れたドアのすきまから、そーっと、中をうかがいます。カラッポの細長い空間が、見えただけでした。ドアノブの位置には大きいレバーがあり、四角にも小さいレバーが四つありました。とりあえず、大きなレバーを引くと、全開しました。びっくりするくらいカンタン。
「あーあ、あいちゃったよ」
「オレ、しらねぇー」
簡素な船橋に、ぽつんと小さな舵がありました。ゆかにビスで止めた柱に、もうしわけていどの舵輪と、それに、とってつけたみたいなフェンダーミラー型の、モニター画面。後ろの壁と一体になっている、ベンチシートなどがありました。もともと乗船用ではないので、ひどく殺風景でした。ゆかに四角く切れこみが入ってます。カンオンでは開かず、手動でしか開かないようです。とくべつな道具でもいるのか、指が入らないので、あきらめました。
ほかに、とくに見るものはないようです。小さなモニター回りで、いじれそうな突起類はなく、なぜか表面に、うっすらホコリがつもっていました。
「手もちブタさだなー」
りょう手を頭にまわして、
「エンジンでも、かけてみてよ」
なんとなしに、つぶやきました。
「カッツン、シュルシュルシュルシュル……
「わ、やばいって」
「とめろよ!」
「はやく止めろ!」
「シュウウゥゥゥーン」
しずまりました。
「あっぶねぇ、あせったー」
モニターはまっ黒ですが、赤と緑のランプだけ、点滅しています。
「なんだよ、まだ生きてんじゃん!」
「はよ、けせけせ」
なかなか、きえてくれません。おわりの処理をするのに、時間がかかっています。
チカチカがやみました。ソルは不安になってきました。ここにいるの、やばくない?
いちおうカンオンをプライベート・モードにしてはいましたが、まじないていどです。あわてふためく中、ふと、あるアイディアがうかびました。それは、だいたんなものでしたが、おもいでのラクガキのノリで、カンオンに、たのみました。どうせ、うまくいきっこないし、いかない方がいいくらいでした。
船を出ると、あわただしくドアをしめます。
「シュッ、カツツッン」
ドアがロックされました。
「やばい、やばい」
息をはずませ、船から船へ、とびこえてゆきます。板をガタガタさせ、桟橋に降り立ちました。走り出してすぐ引きかえし、板をもとあったロープの下に、力ずくでつっこみました。
「やばい、やばい」
「ギシギシ」板敷をハデにならし「チャップンチャップン」波を立てて、桟橋を後にしました。
問題はあのフェンスでした。選択のよちなく、とびっつくと、ガシャガシャ、いっきにかけ上がります。おなじ距離でも二度目の道は、みじかく感じるものです。来るときとちがって、三分の一ほどの時間と労力しか、感じませんでした。
階段を上がって上の道にもどると、バクバクキョドリながら、顔をまっすぐ前をむけて、はや歩きで立ちさりました。