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「……帰ろ」

 井戸の中から俺の横へと戻ってきた響子が言う。

 その顔は少し寂しそうな表情だった。

 井戸の上にまた木板を被せて帰ろうと歩き出す。

「……馬鹿なことしたのかな、私」

 小さな響子の呟きが。

 後悔しているのか。この井戸で願ったことを。幽霊になってしまったことを。

「なあ、響子……」

「……何、竜ちゃん?」

 ちょっとだけ沈んだ暗い音。

「その願いをキャンセルすることってできないのか。やっぱり幽霊になるの止めます。あの時に戻してくださいって」

 願い事態をなかったことにすれば、響子は幽霊にならず、もしかしたら今で生きているかもしれない。

「……ううん、多分それは無理」

「どうして?」

「私もさっき思い出して竜ちゃんに話していないことなんだけど、伝わってきた伝承では願いは一人に一回だけなの。……だから、私はこのまま」

「それじゃ、俺がお前の代わりに願おうか」

「いいよ、このままでも。竜ちゃんたちと一緒にいるの楽しいし」

 帰ろうとしていた体を反転させて、再度井戸へと近付く、さっき被せたばかりの板を外して、中を覗きこむ。

「本当にいいから。ねえ、もう帰ろうよ」

 背中に聞こえる響子の声を無視して、まるで鏡のような水面に声を落とす。

「響子の願いをなかったことにして下さい」

 ちょっとだけ軽い気持ちだった。

 もしそれが叶えば、後悔しているような表情の響子の顔も少しは晴れるかもしれない。

 だけど、もし叶ってしまったら、それは響子と別れることになる。

 でも、そんなことには多分ならないだろう。

 部外者の俺の願いなんか絶対に敵えてなんかくれないだろう。

 本音を言えば、俺もそのほうがいい。

 最初は付きまとまれて、鬱陶しい存在だったが、話すようになり、それから憑くようになって、まあまあ今の生活に満足している。

 そりゃ多少は気に食わない所もあるけど、それを許容できるくらいには気に入っている。

 何も変わらない。

 変化はない。

 響子は相変わらず、俺に憑いたまま。

「帰ろうぜ」

 そう言いながら井戸の中に落としていた視線を上げようとした瞬間、水面に何かが見えたような気がした。

 それは仏像のような気もしたし、微笑んでいる女の人の顔のような気もした。

「今の見たか」

 後ろのいるはずの響子に訊く。

「……竜ちゃん」

 響子の声がいつもよりも遠くに聞こえた。

 井戸の中におといていた視界を上に。

 ついさっきまでは全然風なんかなかったのに、急に強く吹き出す。

 強い風が周囲の竹、じゃなくて笹を激しく揺らす。

 瞬く間に空が暗くなっていく。

 どうなっているんだ?

 いや、それよりも響子だ。どうしていつもよりも声が遠くから聞こえたのか。

 響子の体が空に。

 幽霊だからこれまでもずっと俺の背後宙に浮いていたけど、それとは違う。

 俺に憑いていて、俺から離れられないはずなのに、響子の体が上へと遠ざかっていく。

「響子ー」

 叫びながら手を伸ばす。

 何が起きているのか全然把握できない。これ位しかできない。

「竜ちゃーん」」

 響子も必死に俺の方へと手を伸ばす。

 懸命に伸ばした手が響子の手を掴もうとした。

 俺の手が空を切る。

 幽霊に触れることなんかできないのに。これまでずっと触ることなんかできなかったのに。

 それなのにどうして響子の手が掴めると思ったんだ。

 馬鹿なのか、俺は。

 後悔している間にも響子の体がどんどんと空の上に。俺から離れていく。

「…………」

 必死に何かを叫んでいるようだが、その声は全然聞こえない。

 悲しそうな、寂しそうな顔をしているのはこんなにもハッキリと見えるのに。

 手を伸ばしたままで俺の響子に向かって声を出そうとした。

 声が出ない。

 それだけじゃない。体が急に重たくなっていくような気が。

 頭の中に靄がかかったような感じに。

 段々と意識が遠ざかっていくような感じに。

 駄目だ。意識をしっかり持て。

 じゃないと、響子がいってしまう。

 それなのに……。

 頭の中が暗くなっていく、視界も暗くなっていく、力も抜けていく。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 


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