下
すぐさまに記憶、の記憶をたどる。
ホームに流れていて放送、その駅名を忘れぬよう何度も唱える。すぐにスマートフォンを取り出す、が充電が切れていた。
「くそっ」
スマートフォンを放り投げパソコンを立ち上げる。それまでの数十秒をまだか、まだかとディスプレイを睨みつける。
パソコンが立ち上がるとブラウザを開きすぐに検索をかける。
「……すぐそこじゃないか」
何処かで聞いたことのある名前だと思ったら、大学の最寄り駅だった。普段自転車通学の僕にはなじみの無い場所だ。ましてやローカル線なので遠出するときすら使わない。
パソコンの電源も部屋の電気のそのままで部屋を飛び出る。愛車のクロスバイク、GIANTを駆らせて駅へと向かう。
学校へは大体十分、そこから駅は歩いて三分ぐらいの距離にある。
十分もかからず駅に着く。
噴き出す汗を拭いながら入場券を購入しホームに入る。
通勤、通学ラッシュも終わった平日のこの時間は片手で数えるほどしか人がいない。ホームをうろうろして記憶の中の景色と目に映る景色を照らし合わせる。
「ここだ」
三番ホーム、向かいのホームにある自販機、電光掲示板。全てがマッチする。
ラッシュ時とはうってかわっての静謐な空気。誰も飛び込みはしていないようだ。
疲れ切った体で駅を出る。五本目のときは、もう全てを終えることを決意した感じだった。
今思い出してもぞっとする。自殺を決意するまでの思考プロセスが鮮明に理解できた。自殺、それはもはや病気だ。死に至る病、それは絶望。それを知ってしまった、それを受け入れてしまったがために人は死を受け入れる。
生きるという、本能に反した行動。知恵の木の実を口にした弊害だろうか。
とりあえず、彼女はまだ生きている。そのことに安心した僕は近くの喫煙所で一服することにした。
「あっ」
煙を吸い込むまで気づかなかった。いつものだと思って口にしたそれは、あの『Cigale』だった。
――結局、また繰り返す。
線を越えることのできなかった少女はいつも通り電車に揺られる。
死ぬことが怖くない、わけじゃない。だけど、生きたいわけでもない。生きる理由がない、死ぬ理由もない。だけど今は辛くて、辛くてしかたない。解放されるには線を越えるしかないのか。他には何も思い浮かばない。というより考えたくもない。
――死にたい。
死にたい。
現在においてこの言葉には複雑な意味を孕んでいる気がする。純粋に死にたいと思っている者は少数派だろう。思うにその言葉はリストカットに似ている。自殺の方法で手首を切るという方法はドラマなどでよく見受けられる。飛び降り、首つりに並んでメジャーな方法だ。実際に死ぬつもりはないが手首を横に切って擬似的な自殺体験をする。不謹慎かつ背徳感満載のその行為はストレスを軽減させる。そして、自分は今とても傷付いている、とても苦しんでいると、悲劇のヒロインを演じることで、自分を慰めているんだ。
死にたい、なんて言葉も同じ。実際に死ぬ気なんてない。だけど消えてなくなりたい、今の自分を嫌悪する。だけど、どうしようもない。死にたくないけど生きたくない、二律版反するその感情が生み出す言葉。
だけど、きっと理屈じゃない。
それを口にした本人だってきっと分かってる。ただのかりそめの言葉だって。心のどこかじゃ望んでる。苦しい、苦しい今のこの状況が好転することを。きっとどこかで期待している、未来は捨てたもんじゃないって。
希望なしじゃ生きていけない、なんてよく言ったものだ。
もし希望をなくしたら、あとに残るものは絶望か?
そうやって、答えの無い何かを考えるのが一番心に悪いのかもしれない。太宰、芥川、川端、彼らはどのようにして線を越えたのだろうか。高名な小説家たちはその頭にどんな怪物を飼っていたのか、凡人には計り知れない。
今日の夕食は何を食べよう、あの漫画の続きはどうなるのだろう。それぐらいでいいじゃないか。考え過ぎは心に毒だ。
七本目。
――はあ……。
彼女はため息共にペンを置き、カッターを取り出す。袖をまくり、痛々しい自らの腕の傷痕に嫌悪感を示す。
――いったいいつまで。
そのとき、彼女の頭の中で何かが振り切った。
カッターを元に戻し、立ちあがった。本棚の前に立ち、教科書、参考書が敷き詰められた中から申し訳なさそうに端にあった漫画を手にとった。
ベッドに寝転がり、楽しそうに読み耽る。
五冊ほど読み終えたところで眠気が襲う。彼女は抗うことはせずそのまま目を閉じる。
――もう、いいんだ。
昨夜は不安で一睡もできなかった。
なんなんだ、昨夜のあの記憶は。なんの意味を孕んでいる?
途中でやめたリストカット、急に読みだした古い漫画、どこか満たされた感情。
ああ、そうか。
満たされたんじゃない、解放されたんだ。何から? 生から、生きることから。達観に似た、悟りに似た何かに支配されてしまった。
狂ってなんかいない。正常なまま狂ったふりをしている。
急いで七本目の『Cigale』に火をつけ、勢いよく煙を吸い込む。
――
――
何も見えない。何も聴こえない。
ただ感じるのは、ふわふわとした解放感、自由を体現したような感覚だけが脳内をふらつく。
これは危険だ。
アラートが鳴り響く。
同時に目覚ましのアラートも鳴り響く。時計が指す時刻は以前彼女の記憶で見たテレビ右はじの時刻と一緒だった。
寝間着のまま、財布だけを手に家を飛び出る。
寝てないせいか、三口ぐらいでタバコを一気に吸ったせいか動悸が激しい、頭が割れるように痛い。
それでもペダルを漕ぐ足は休めない。さらに吐き気も加わるが、込み上げてきたものを無理やり飲み込む。
駅に付き自転車を乗り捨てるように倒し、駅構内へすすむ。
そこで、あまりの人の多さに軽く絶望した。前回来たときとは比べ物にならない。そういえば、彼女の記憶でもこんな感じだった。
急いで入場券を購入しホームに入る。ざっと周りを見渡すが彼女らしき人物はいない。そのとき、間もなく三番ホームに電車が参ります、とアナウンスが流れ、三番ホームという単語にいち早く反応し、そこへ向かう階段を駆け降りた。
「どこだっ」
いないなら、いないでいい。
しかし、保障の無い可能性に賭けるほど余裕もない。
青いリボン、ただそれだけを必死に探す。
何度も人にぶつかり、冷たい視線と舌うちを浴びながらも、首と眼球の運動は止めなかった。
そして、とうとう、視界の端に青を捉えた。
すぐに毛様体筋で水晶体を緩めピントを合わせる。
青、青いリボン。それをつけた少女。彼女だった。記憶の中では何度か見たその姿だった。名前も知らない少女のもとへ急いで駆け寄る。同時に後ろから電車が迫る音がした。
彼女は一番端の乗り場にいた。その彼女が一瞬こちらを見た。だけど視線は合わない。彼女が見ていたのは迫りくる鉄の塊だ。
彼女は薄く笑っていた。
その微笑に背筋が寒くなった。
つりそうな両足をひっしに交互に前に突き出す。心臓はこれまでで最高のビートを刻んでいるだろう。息をするたびに肺と喉が焼けるように痛む。タバコ、止めようかな。
もう、彼女は目の前だ。電車もまた然り。
彼女は周りの人々よりフライングして上体を前に進める。その右足はあっさりと線を越えた。すぐに、続いて左足が地を蹴る。もう、その左足が踏む場所は残されていない。重心は既に移動し、自力ではもう戻ることは出来ない。
叫び悪手も声が出ない。
飛びつくように伸ばした右手はなんとか彼女の肩をつかみ、重心をこちらに呼び戻した。
電車は停まり、人が降り、人が乗り、電車は進む。
僕らだけは時を停められたようにその場に固まっていた。
静寂が訪れると、彼女はへたへたと、崩れ落ちるように腰を下ろした。
「ああ、あぁ……」
座りこんだ彼女は静かに嗚咽を漏らす。
死の恐怖か、生きる憂鬱か、記憶越し以外で見る彼女の内面はわからない。
取りあえず、人目の付かない場所、すなわち喫煙所に僕等は移動した。
もう泣きやんだが、彼女の目は赤く、目元はぐしゃぐしゃだ。こんなとき、そっとハンカチなり、ティッシュなり差し出せば格好付くんだが、あいにく何も持ち合わせていない。
「あー、こんなときは、怒ればいいのかな、それとも謝ればいいのかな」
いつまでも押し黙っているわけにはいかず、目上としてこちらから切り出さねば。
「普通は、怒るんじゃないですか。謝るって、どうしてですか?」
彼女は自らハンカチを取り出して目元を拭う。話す言葉もしっかりしていることから、随分落ち着いたのだろう。
「自殺なんてことは、確かに世間一般的に言えば褒められた行為じゃないかもしれない。だけど、それしか手段がないとしたら、それを止める権利は誰にもないと思う。自ら死を臨むなんて、簡単にできることじゃない。えきる以上にエネルギーを使うかもしれない。それを勝手に止めてしまって、余計なお世話だとしたら申し訳ないなと」
その言葉に嘘はないけど、全てを語ったわけじゃない。
今までの僕は自殺なんてする奴の気なんて知れなかった。絶望のぜの字も理解していなかったと思う。だけど、彼女の記憶を通して様々な感情を知った。
「それは、優しい、のかな?」彼女は初めて普通の笑顔を見せた。「ねえ、まだ死にたいっていったら、また止めますか?」
「一応、止めるかな。安っぽい慰めをして、それでもまだ死にたいっていうなら、止めはしないかな。応援もしないけど」
そう言ったが、彼女の口調からもうそんな気などないことは明らかだった。
「その安っぽい慰めってやつを聴かせてもらっていいですか?」
少し考えて僕は、
「時には、立ち止まることも必要なんじゃない?」
なんと宣言通り安っぽい言葉を贈った。
「ははっ」
なんて笑ってくれた。白い目で見られるよりはいい。だけど次第に、笑い声は鼻声になり、両の瞳は涙でうるむ。
泣き顔を見られたくないためか、座り込みそっぽを向かれた。
泣けるならば、思いっきり泣いた方が良い。血を流すよりは健康的だ。
もう、彼女は大丈夫だろう。
安心したら無性にタバコが吸いたくなった。入れた記憶がないが幸運なことにポケットにタバコが入っていた。
「一本もらってもいいですか?」
こんなときだ、未成年だなんだと小言を言うつもりはない。しかし、ポケットに入っていたのは『Cigale』だった。まあ、いいか。
「どうぞ……」
残り一本になった『Cigale』を加える。
彼女の眼に火を刺しだす。口にくわえたタバコを火に近づけるが、もちろんそれだけじゃ火はつかない。
「吸うんだよ」
言われた通りに彼女は息を吸い込んだ。初めてにしてはうまく煙が肺まで達したらしく、激しくせき込んだ。しあkし、彼女はめげずにすぐに二口目を吸い込む。
僕も最後の『Cigale』にそっと火をつけた
――明日は、明日は。
明日は何をしようか、明日はどんな楽しいことが待ちうけているのか。幼い少女の毎日は明るく希望に満ちていた。
夏休みには家族三人で旅行に行き、冬休みには祖父母の家へ遊びに行く。普段の毎日も楽しく、仲のいい友達、面白い先生、ちょっと気になる男の子。
まだ小さい時分の彼女の記憶が断片的に映し出される。
淡く、明るい記憶が変色し始めたのは小学校も終わりの年を迎えたときだった。
――私立、公立?
毎晩両親が話し合っていた。ときには怒鳴り合いになることもあった。家族間で不穏な空気が流れ始め、会話が減った。
成績はそれほど悪いわけではなかったけれど、母親が執拗に勉強を強いるようになった。結果が思わしくないと塾にも通わせられた。父親は黙って悲しそうに見ているだけだった。
私立中学に合格し母親は喜んだ。父親も微かに笑ってくれた。
仲の良い友達とは離れてしまったけれど、すぐに新しい環境になじんだ。部活も初めて、楽しい毎日が戻ってきた。
しかし、成績が落ちると部活は辞めさせられ塾通いが再開した。友達とも疎遠になりいつしか独りになっていた。
進学校に合格。
喜んでいるのは母親だけだった。
少女の助けを求めるような視線は父親には届かなかった。
高校へ入学し、初日にして教師の口から受験という単語が飛び出てうんざりした。
部活には入らなかった。
青春なんてものはフィクションの産物になった。
そして、徐々に心が死んでいった。
「タバコのせいですかね、昔の事を思い出しました。いい方は悪いですけど、走馬灯のように」
彼女の言葉から、同じ記憶を見ていたらしい。彼女は自身の記憶だからあの違和感を覚えずに済んだのだろうか。
「自分で掘った穴を自分で埋める。なんて拷問方法をどこかのロシア人が言っていたけど、今の勉強って言うシステムと似てるよな。知識はあって越したことはない、けど何の役に立つのか分からない知識をひたすら詰め込まれることは拷問に等しい」
「……けど、これってゼイタク病ですよね。勉強したくてもできない人もいるのに」
「舌を見たらきりがないさ。上を見てもきりがない。読み書きができなくても幸せに毎日を送っているかもしれないし、大金持ちでも絶望を抱えてるかもしれない。悩みなんて人それぞれで、尺度なんてない」
「すごいですね、そんな考え方ができるなんて」
「そんな大層なことじゃない」
下を見て優越感に浸るもいい、上を見て卑屈になるもいい、それが人間だ。ただ、幸せの定義なんてない。何をもって上下をつけるか、金か容姿か才能か。
彼女に限らず、世界を知らない若者が多いのだろう。世界と言っても旅をして周れって言ってるわけじゃない。映画だって小説だってフィクションだって何でもいい。物語に触れないと世界は見えてこない。
「そういえば、どうして助けてくれたんですか、じゃなくて、どうして気づいたんですか? 私が、その……、飛び込もうとしていることに。周りは誰も気づかなかったのに」
それは、難しい質問だ。
動揺を出さないように冷静に答える。
「君の体が、他より一瞬早く動くのが分かったからね」
「だけど、あなたは近くにいなかった。……駆け寄ってきた。だからあんなに息切れしていて……」
拙い嘘は早くも瓦解しそうだ。
考えろ、考えろ。
「じ、実はよく駅で君のこといいなあって見ててさ、今日こそはなんらかのアプローチをしかけようと近寄っていった所に君が飛び込みそうになったから思わず」
これでは、ストーカーではないか。しどろもどろな話し方も加えて余計怪しさが増してしまった。折角、いままでちょっといい話をしてきたのがこれで台無しだ。
だがしかし、本当の話を話したところで頭のおかしい奴と思われる。よしんば、信じてもらえたところで、自分の記憶を覗かれていたというのは気持ちのいいものではない。どっちにしろ、軽蔑は免れない。
「そ、そうだったんですか」
「……あれ」
彼女は顔を赤らめて恥ずかしそうにそっぽを向いた。予想を反した彼女の反応に拍子ぬける。
よくよく考えれば軽蔑されればそのまま別れて終わり。彼女は助かり、僕は目的(?)を果たし万々歳だったのだが。
「あの、私、告白されたの初めてで、こういうのってすぐ返事しなければいけないのでしょうか。あの、別に嫌ってわけではなくて、むしろ……。でも、私からしたら初対面なわけですし、まだ名前も知らないわけで……。だけど、あなたは命の恩人ですから、私の命はもうあなたの――」
俯いたまま彼女は次々と言葉を紡ぐ。
髪の隙間から覗く表情は赤く染まり、口元はだらしなく緩んでいる。
つい先ほどまで絶望を背負い、自ら死のうと考えていた人間がここまで変わるものかと、僕は少しあきれていた。
人間とは単純なものだ。
しかし、さて、どうしたものか。とりあえず、タバコが吸いたい。