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「よう、少年」

 個人経営のタバコ屋、そこの主人である老婆は僕が来店するとだ第一声は決まってそうだ。

「やあ、ばっちゃん」

 住宅街の中の細い路地にぽつんと存在しているこのタバコ屋を利用し始めてもう三年ぐらいになるだろうか。

 なぜ、わざわざ通り道でもないこのタバコ屋を利用しているかと言うと、一人暮らしで高齢なばっちゃんが生きているかの確認。というのは理由の一つではあるけれど、本当の理由はよくサンプルだといってタバコを無料でくれるからだ。そして、もう一つ、まだ普通には購入できないときでも、ここでは売ってくれたから、その恩。

「いつもの」

 そう言って受け皿に小銭を置く。

「ほいよ」

 そう言ってハードパッケージのタバコを投げてよこす。

 いつも買うときは一箱ペースだ。ヘビーではないので一日に吸う本数は多くても五本ほどだ。一箱あれば三、四日はことたりる。

 タバコと受け取るとそのまま店を出ようとする。特に世間話などはしない。

「ああそうだ」ばっちゃんのその言葉に僕は振り返る。「これも持ってきな」

 何処からか取り出した青色のパッケージのそれを山なりに放り投げた。

 外野手よろしく左手でキャッチすると「サンキュ」と言い残して今度こそ家を出た。



 大学での講義中、暇なのでもらったタバコのパッケージをしげしげと眺めた。

 普通の二十本入りのタバコのパッケージとは違いかなり細いし小さい。バージニア・デュオのように十本入りだろうか。フィルムを破いて中を覗くと案の定。十本しか入っていなかった。

 最近のサンプルはそんなものだろうか。

 いや、しかし、サンプルと言えど、パッケージのデザインが青を基調にして、模様やロゴマークなど一切なく、ありふれた字体でただ『Cigale』と書かれているだけだ。その他、賞味期限もなければ、ニコチン、タールの量すらも記載がない。

 怪しい、怪しすぎる。

 フィルムに覆われていなければ間違いなく捨てていただろう。

 講義が終わり、昼休み。

 昼食を終えた後は、炭酸飲料を片手に喫煙場所へ向かう、これが毎日のルーティンだ。

 喫煙所は人通りの少ない工学部の工場の裏に設置されている。嫌煙ブームのせいで構内に七個所もあった喫煙場所はここ一か所に縮小されてしまった。

 しかし、意を唱える学生は少なく、文句を言ってるのは専ら職員や教授陣だ。

 まったく、最近の若者はビールは飲まない、タバコは吸わない。いや、タバコは確かに吸わないに越したことがないが、こうやって一緒に過ごすことでコミュニケーションが生まれ――、なんて愚痴やら説教やらを一緒になる教授陣からはよくうける。

 幸運なことに今日は誰もいない。備え付けのベンチに座り、いつものタバコと青色の怪しいタバコ、どちらにしようか一瞬迷う。

 わずかな好奇心が勝り、青色の方から一本取り出し口にくわえた。

 愛用のジッポで火をつけ、深く息を吸い込む。少し甘い香りが鼻に抜ける。ニコチンの量は0.7mgぐらいだろうと僕の肺が判断した。

 味は嫌いじゃない。

「……あれ」

 突如、眠気に似た感覚に襲われ、視界が霞がかる。

 なんだこれ、食事の後の眠気か? いや違う。

 視界は若干ぼやけるが正常だ、意識もしっかりしている、それでも、頭の中のスクリーンでは視界とは違う映像を映す。意識が、思考がそちらに引き込まれる。思い出す、そう、遠い記憶を回想する感覚に。


瞳に映らない映像。

そこは、部屋? 椅子に座り、机に向かっている。机上には教科書や参考書、蛍光ペン、勉強道具の数々がまき散らされている。

 視界が暗む、両手で顔を覆ったのだ。

――いや、もう嫌、学校なんて行きたくない。勉強もしたくない。ペンの握りすぎて手の甲が痛い。こんなこと覚えてどうするの? 何の役に立つって言うの? 

――私が、私がやりたいことは……。

 映像と共に感情が流れ込んでくる。

 暗く、深い負の感情が。


 酩酊状態から覚める。

 手にした煙草は既にフィルターの手前まで灰になっていた。

 脇の下、背中から嫌な汗が噴き出る。

 何だ、今の映像、感情、記憶は? 遠い昔の記憶? 違う。ただの妄想? 違う。そんな曖昧なものではない、はっきりとした、確かな記憶。

 自分以外の、誰かの記憶。 

 ポケットから青色のパッケージを取り出し怪訝な目で見る。これの、せいなのか?

 試しにいつもタバコを続けさまに吸ってみた。もちろん、なんともなかった。

「やあ、武本君」

「あ、どもっす」

 よく此処で会う顔なじみの教授が現れた。

「すまんが一本くれんか、きらしてしまってね」

 持ってないのに、よくここに来たな。貰い煙草する気まんまんではないか。なんてことは口が裂けてもいえず、笑顔を浮かべて快諾する。

「いいっすよ」

 そのとき、悪魔がささやき、こいつにあの怪しい青いタバコをくれてやれと言ったが。何か問題が起こっては面倒だと誘惑を断ち切り普通のタバコを渡した。



 その日の夜、例の青いタバコの前で僕は迷っていた。これを捨てるべきか否か。何か怪しい、麻薬的な物質が入っているとしか考えられない。そうでなければあんな、酩酊状態にはならない。酩酊、とはまた違った状態かもしれないが、ともかく、普通じゃないことに変わりはない。

 しかし、鳴り響くアラートとせめぎ合っている好奇心もあった。

 あの感覚、あれが誰か他人の、僕以外の記憶、感情だとするならば、それを共有する感覚。それは、その見知らぬ誰かを、その瞬間だけは完璧に理解できている。決して全ては分かち合えない他人という存在と一つに慣れる。あの感覚は、どこか心地よいものだった。

 あの感覚をもう一度。

 そんな麻薬みたいな症状を自覚しながらも例のタバコに火をつけた。

 ああ、昼間のときと同じだ。

 五感は現在の状況を感じていても、頭のスクリーンでは違う映像を映し、違う音を聞き、違う匂いを嗅ぐ。それは現実じゃない記憶の中のもの。


――もういや。

 またも、始めにそんな感情が流れ込んでくる。

――苦しい。毎日、毎日、毎日が辛い。後一年、今年だけ。それだけ我慢すればこの苦しみは終わる? その前に狂ってしまいそう。そもそも、もし失敗したら……。

 終わらない自問自答。思考はネガティブな方へ沈んでいくばかりで浮上する兆しは見えない。

 考えることを止められない。一旦忘れてリフレッシュなんてことができるほど器用ではない。回避できない未来のそれは重くプレッシャーとなってのしかかり、思考がそれに支配される。

――酷い顔。

 手鏡を持って顔を覗きこむ。

 反射する光は、少女の顔を映し出した。目の下の隈、カサカサの唇、憂いた表情が折角の端正な顔立ちの魅力を半減させていた。

 そこでタバコが尽きる。



 これは僕が作り出した妄想でも、この怪しいタバコが作り出す幻想でもない。そんな、根拠のない確証があった。

 この現象、空想、何と呼ぼうか。とりあえず記憶、としよう。それ以外にこの現象を適切な言葉では表せられない。

 この記憶、青い怪しいパッケージのタバコによるものなのはほぼ確定なのだが、いわゆる麻薬物質的なものから来る幻想ではない。大麻も合法ドラッグもやったことがないので必ずしもそうとは言えないのだが、明らかにこの記憶は異質なものだ。

 この、妙な現象、記憶。誰の記憶だ? もちろん、僕のものではない。勉強机の様子など僕が使っていたものとはまるきり違うし、最後に見た鏡越しのあの少女の顔に見覚えなどない。この記憶、感情は彼女のものと考えるのが妥当だろう。

 では彼女は誰だ? 

 僕に縁のあるものか?

 年のころはまだ十代だろう。妹はいないし、従兄、はこと、親戚の者にその年ごとの娘がいた記憶もない。

 わかっていることは少女の顔と、彼女が深い絶望を抱えているということだけ。それだけの情報じゃどうしようもない。第一に、彼女は、僕が見た彼女の記憶はリアルタイムのものなのか。記憶、というからには過去のものなのか、はたまた未来か。

 情報を得るには、あのタバコに手を伸ばすしか、ないんだよな。

 翌朝、三本目の『Cigale』を吸った。



 鳴り響く目覚ましを叩くように止める。

 のそのそ、とベッドから起き上がりカーテンを開ける。外は快晴、清々しい天気だ。

――はあ……。

 一日の始まりとしては悪くないように思えるが、彼女の口から折れたのは重い、重いため息だった。一日の始まりを呪うかのように少女の目つきは虚ろだった。

 のろのろと寝間着から制服に着替える。自室を出てダイニングへ向かう。冷蔵庫を開けて、そこからミルクをコップに注ぎ一気に飲み干す。リビングのソファーに座りテレビをつける。

 アナウンサーの話す天気やユースを聞き流し、家を出るまでのわずかな時間を潰す。

 テレビの画面右上のデジタル時計がもう家を出ろと訴える。ソファーと一体化したように重い体を何とか引きはがし立ち上がる。

 家を出て、重い足を引きずるようにしながらも歩みを進める。

 もはや思考はない。明日さえ見えない濁った霧が思考を、視界を奪っていた。



 記憶の世界から意識が戻る。

 朝一番にタバコを吸ったせいか少しくらくらする。しかし、そんなことは言ってられない。冷蔵庫から板チョコを取り出しそのまま齧る。脳に糖分を送りながら記憶を反芻する。 

 まず、ニュース。

 野球賭博の話、老人の運転する車がコンビニに突っ込んだ話。後は天気。パソコンを立ち上げて記憶で見たニュースを調べる。普段、新聞は読まない、テレビすらあまり見ない僕はどのニュースも初見だった。

 検索するとすぐにヒットした。どれもすぐ最近の出来事だ。天気はここ最近はずっと晴れだから当てにならない。日付、それさえ見ていればピンポイントで分かったのだが。そこまでは見えなかった。

 制服は紺色のブレザーにチェックのスカートというありふれたものだ。リボンが青と言う所以外、特徴らしい特徴はない。

 試しに、『リボン青 制服』と、検索してみるも、それで学校名が出てくるはずもなかった。

 結局、今回の収穫としては、例のタバコによる記憶がごく最近のものであること、そして、現実であるということが分かった。それだけでも大したものだ。

 その日一日、視界に入る制服を思わず目で追った。はた目から見たら怪しい奴だ。

 男子校だった僕は女子の制服など見慣れていない。わずかな違いなど見分けられるはずもなく、ブレザーなら全て同じに見える。一応リボンの色はチェックしているが、半分以上のものはつけていない、そして、色違い。学年によって色が違う、なんてこともありえるだろう。

 彼女を見つけたとしてどうなるのだろう。彼女が傷付き、精神的に不安定なのは明らかだが、それを助けたいと思うのは驕りだろうか。

 そんな事を考えながらの四本目。



 夜、彼女はまた机に向かっている。

 難解な数式を参考書を頼りに解いていく。

――いったい何のために? 

 そんな思考が一瞬横切ってペンを握る手が止まる。しかし、すぐに思考をかき消し、頭の中を数式で埋め尽くす。

 考えるな、目の前の問題だけを考えろ。考えたって、それに答えはないのだから。

 自分に言い聞かせてペンを進めるも、

――もういや、こんな……。

 負の感情が少し溢れ、やがて堰を切ったように頭を埋め尽くす。そうなるともう駄目だ。勉強なんて手につかない。ペンを放り投げて机に突っ伏す。

 徐に、机の引き出しからカッターを取り出し、そして、服の左袖をまくる。

 腕の内側にはいくつかの線が刻まれていた。古くて薄くなったもの、そして新しいもの。目立たないようにするためか、それは肘の近くに多い。

――きもちわる。

 何の躊躇もなく、カッターを横に走らせ、新たな線を描く。すぐに線から赤がにじむ。彼女は床に垂れる前に舌でなめとる。

 背徳感や罪悪感、痛みや後悔。そんなものでしか負の感情を打ち消せなかった。

――大人になったら……。

 きっとこの消えない傷を後悔するのだろう、と明日の事さえ見えない自分が遠い未来の心配をしている事に気づいて笑う。

 流れる赤はすぐに止まり、赤黒い殻となる。



 今回は特に収穫はなかったな。場所も同じ、彼女の部屋だ。

 ただ、腕に走ったあの痛み、その記憶もはっきり覚えている。袖をまくって腕を見る。もちろん傷などないが、リアルな痛みの感覚に今にも傷が浮き上がってきそうだ。

 そして、痛みだけではない。あの血の味も覚えている。今、口の中に残るのはタバコの残り香ではなく、嫌な鉄の味。

 自傷行為、リストカット、十代、二十代の女性に多いというあれ。テレビなんかでよく取り上げられていたのでその行為自体は知っている。

 決して病気ではなく、ストレスが原因となるものが多い。自殺が目的ではなく自らを傷つけること自体が目的。

 僕が男だからなのか、ストレスをため込まない性格なのか、自傷行為そのものは知識としてあっても、そこに至る経緯、心理状態などはわからなかった。こんな僕でもいらいらすることはある、理不尽に何かを壊したくなることもある。かといって自分に刃を向けるということが以前は理解できなかった。

 だけど今は、彼女の記憶を通して少しは理解できる。その感情は一言では表せない、とても複合的な感情だ。

 中毒みたいなものなのだ。僕自身、ニコチン中毒というほどでもないが、どうしようもなくタバコを吸いたい瞬間というものが、確かにある。非喫煙者にタバコのおいしさを伝えられないのと同じように、自傷行為も当人にしかわからない理由がある。

 どちらも社会的にあまり良い目では見られないところは同じか。

 まあ、しかし、彼女はまだ大丈夫だろう。タバコは吸っていても覚醒剤などには手を出していないように、彼女の腕の線は全部横だった。ここでいう大丈夫は、縦ではない、つまり、死ぬ気まではないということだ。

 朝、五本目。



――今日を生きることに意味はあるのだろうか?

――昨日と今日は何が違う、何が得られた。興味の無い知識を詰め込んだだけだ。明日もきっと同じ。この繰り返しに意味はあるの?

――意味は、あるよ。勉強して、いい点数とって、いい大学に行って、いいとこに就職して……、それが私の望みだっけ、それが幸せってやつだっけ、そうすることが正しい? それに何か意味があるのかな。

――あれ、生きることに意味はあるの?

 駅のホーム、電車を待つ彼女の思考は安っぽい哲学を語る。

 通勤、通学のためホームは老若男女問わず人でごった返している。ランドセルを背負った小学生、慣れない制服の中学生、高校生、大学生、スーツのサラリーマン。そこはかとなく、年齢が上がるにつれてその表情が無くなっているように思う。

 まだ、何も分からない小学生い上がったぐらいのときは、時の流れが遅く大人になることないって思ってた。彼らは自分達と違う種類の人間で、自分達はずっとこのまま守られて生きてゆけると思っていた。目に映る全てが美しかった。未来は希望にあふれていた。

 知識を得る度に穢れてゆく。齢を重ねるごとに気付いてゆく。

 曖昧だった世界の輪郭は次第にはっきりしていき、ピントの合った視界は本当の姿を映す。醜いものばかりが目に入り、美しいものはフィクションだと知った。

――この先生きて、希望なんてあるのかな。

――どうせ、いずれ……。

 眼下に引かれた線を少し早く踏み越えるだけで全て終わる。それを踏みとどまらせているものは何だ。子供、家族、恋、友人。

――あ、ないや。


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