気にかけてくれる同僚
「妹尾くん、妹尾くん」
翌日のオフィスで昨日殴り書きした案件を纏めていると、吾妻がひょっこりと顔を出してきた。
「邪魔」
「ひどい!」
件の説明会の話は、今日の朝礼で社内全体に知れ渡った。急遽チームデスクが作成され、非常に日当たりのいい席に移動した俺の思考は捗っており、正直このまま一人で纏めて、その後に二人へ通達したいのだが、この小娘はそれを許さんとばかりに腕を引っ張ってくる。
「何だよ」
そうぶっきらぼうに言うと、吾妻は細い腕を俺に見せる。その白く滑らかな肌に巻かれたベルトの細い腕時計は、12時を示していた。
「妹尾くんってば夢中でデスクワークしてるから、正直声かけるか迷ったんだけど。やっぱいつまでもそのモチベが続くわけないし、一息入れてほしいなって」
差し込む日差しに負けないくらいの輝いた笑顔で吾妻は言った。冷静になってみれば、俺は始業から4時間近く、煙草も吸わずトイレにも行かずキーボードを叩いている。確かに少しやりすぎた感じはあった。
「わりぃ、全然気にしてなかったわ。サンキュー」
席を立ち、伸びをする。気付いたことで、なんだかやたらと背中が痛く感じられた。
満足そうな微笑みでそれを見ていた吾妻は、俺の腕を引っ張ってオフィスを抜け出した。
「近くにテラス席が気持ちいいお店があるの。イタリアンなんだけど、コーヒーも紅茶も美味しいんだ。フレッシュジュースだってあるんだよ? 行くっきゃないって!」
「だからって引っ張るなよ」
そうは言っても、この破天荒娘は気にせず進んでいく。こうなると目的地に着くまで離してくれないのが彼女なので、俺は流れに身を任せることにした。
レストランに着くと、話していた通り吾妻はテラス席を取り、メニューを開いて熱心におすすめや特徴を説明してくれた。結局どれがいいのかわからなかったので彼女に任せると、頼んでまもなく、オシャレなカップに入ったコーヒーが目の前に置かれた。
「息抜きには持って来い、ってね」
彼女自身はミルクティーを頼んだようで、砂糖を控えめに溶かして口にしている。
「張り切ってるのね、この企画に」
スーツの襟元を直しながら吾妻は言う。俺は煙草をふかしながら口を開いた。
「乗り掛かった船を途中で降りたりするのは性に合わないんだよ。あちらさんにも期待されているみたいだし、やるだけやってやろうってな」
コーヒーを一口含むと、挽き立ての代物なのか香ばしく、落ち着くアロマが鼻に抜ける。深いコクと苦みを感じると、その後にほのかな酸味が広がる。すっきりした味わいに思わず溜息が出た。
「んふふ。うちらは、リーダーが妹尾くんなら喜んでチームに入るのを、ブチョーさんはよ~くご存じだったみたいだね。こういうの、妹尾くんなら最適だし」
「買い被りすんなよ」
そう茶化すと、やはり吾妻は笑顔で首を振ってきた。態度で伝えられ、俺は少し戸惑った。
常に声で何かを訴えかけてくる吾妻がそれだと、本気度がいつも以上ということになるんだ。
「……うちはね、今年のこの企画のリーダーが妹尾くんで、本当に良かったって思ってるよ?」
何だかいつもと、今日は様子が違う。そう聞いてみると、吾妻は頬を染めてそっぽを向いた。
「と、とにかく、時間もあんまりないんだし、頑張ろっか。パスタまだかなぁ~?」
どこかよそよそしい気もするが、彼女のことだからまたすぐに切り替えてくるだろうと、俺はそれ以上は聞かずにいた。
「お待たせしました、大あさりとイカのボンゴレと、ほうれん草と厚切りベーコンのカルボナーラです」
運ばれてきたパスタは彩りも綺麗で、食欲をそそってきた。さっきまで気にもしていなかった空腹が、一気に襲い掛かってくる。
「いただきま~す」
それに合わせて合掌し、パスタをフォークに巻き付けていく。何か視線を感じて吾妻を見ると、彼女はジト目で俺を睨んでいた。
「いただきます言わないと、食べちゃダメだよ」
習慣にないんだと言ってみるが、それでも彼女は許すつもりはないようで、ただじっと俺の様子を窺っている。さすがにこのままでは食べれるものも食べられない。
「……い、いただきます」
久々にこの言葉を言った気がして、何だか気恥ずかしい思いだった。
吾妻は満足そうな笑みで良しと頷くと、ようやく自分のパスタに手を付け始めた。このカルボナーラ、甘めのクリームと厚く切ったベーコンの塩気が絶妙にマッチングし、非常に食が進んでいく。
「そういえば妹尾くんは、どうしてここを選んだの?」
少しの間の沈黙を破り、吾妻が訊いてくる。
「元々こういう所で働きたいって思ってたんだけど、どこもイマイチ、ピンと来なかったんだ。そんな中偶然ここの説明会があった企業フェスに行く機会があってな。そこで、今の部長が語っているのを見たんだ。俺と歳が近いあの人がここまで楽しそうに話しているなら、ここはきっと面白い場所なのかもって思って、ここを受けた」
「意外! 理由がうちとおんなじじゃん!」
少し大袈裟にも見える驚き方だが、その表情は本物のようなので言及はしない。
吾妻が自身の理由を話してくれたが、確かに同じものだった。やはり、説明をする講師の世代も印象にかかわってくるものなんだと、改めて実感する。
「今回は、その役割がうちらなんだよね……ちょっと不安かも」
吾妻が珍しく弱音を吐く。俺は思わず、パスタを絡めていた指が止まる。
「そんなに驚かないでよ」
「すまん。おまえが珍しいことを言ったからつい」
考えるより先に行動するタイプの彼女だからこそ、その驚きは測り知れないものだ。
「うちだって不安になるよ。説明とか苦手だし」
「らしくないこと言ってんじゃねーよ。おまえにやってもらうことは、おまえだから出来ることなんだから」
そう言うと、吾妻はいつもの笑顔に戻った。ミルクティーを一口啜ると、頬を軽く叩いて気合を入れた
「ネガティブモードは終わり! 妹尾くんにそう言われちゃったら、暗い顔なんて出来ないや。そうだね、うちはうちのやり方で今まで乗り切ってたんだから、気にすることじゃない!」
そう言うと彼女はパスタを、日本人らしく一気に啜って食べていく。その姿に、何となく笑みが零れた。
「よーし、午後も気合い入れて! ファイッ、オーッ!」
急に立ち上がって手を空にかざす吾妻だが、その口元には小さくパスタのソースが付いていた。
「口、付いてる」
「やだ恥ずかしい……」
指摘すると彼女は縮こまって席に座り、真っ赤な顔で口元を拭く。俺はその姿を見ないようにそっぽを向き、残ったコーヒーを飲んだ。ちなみに会計は、没頭していたところを我に返してもらった上に良い店を教えてくれた礼も兼ねて、全額俺が持った。