自宅にて
帰宅すると、空腹をより刺激する香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。
リビングへ入ると、キッチンから香る匂いはより鮮明になる。勝手にお腹が鳴ってしまう。
「あら秀哉さん、お帰りなさい」
カウンターキッチンでせわしなく動き回り、調理を進めている結城 星ちゃんは、俺の弟の恋人。長く美麗で艶やかな黒髪を束ねたポニーテールがパタパタと揺れる姿が実に愛らしい。普段下ろしている姿を多く見るので、俺にとっては少し新鮮だ。
「純也は?」
「部屋でレポート浸け。休めばって言ったのに、また無理してるわ。もう……」
先ほどまで明るかった表情に少し影が生じた星ちゃんは、小さく溜息を吐いた。
夕飯が仕上がるまで、まだ時間が掛かりそうだ。俺は荷物を自分の部屋に放り、手洗いをしに洗面所へ入った。
「あ、兄さん。お帰り」
そこにいた先客は、弟の妹尾 純也。星ちゃんの言う通り休んでいないのか、だいぶ顔が真っ青だ。
「そんなに不健康な顔してると、愛想尽かされるぞ。あんな美人をもらっておいて、それは情けないぞ?」
冗談半分で言ったのだが、この若造にそれは堪えたのか、余計に青ざめた顔になる。そして足早に洗面所を出ると、リビングに入っていった。
「僕が白い顔してたの、嫌だった……?」
「は? よくわかんないけど、あたしはあんたがどういう顔色でも傍にいるつもりよ?」
「星……大好き」
「今更何よ?」
聞こえてくる会話はとてつもなくむず痒く、どこか腹立つ。言うんじゃなかった。
手を洗いうがいを終えて戻ると、二人は別世界に飛び立っていた。当然距離は近ければ、理由もなくニヤニヤしてる。
「あんたもほんと心配性ね。もう何年一緒に居ると思ってるのよ」
「それでもなんか、気になっちゃって……うん、焼き加減バッチリ」
目の前であーんをしているリア充を見るのはもう慣れたものだが、今日は何だかとってもムカつく。
星ちゃんが練習中だと言っていた焼き魚は、皮はパリッと、身はふんわりと仕上がっており、とても美味しい。和のテイストで統一された食卓は、どれも彩りが良く、箸は勝手に進んでいった。料理上手な弟の指導を受けて、お嬢様だった上にやや常識から外れていた彼女は良い成長を遂げていると感じた。
「ごちそうさま」
俺の言葉は二人に届いておらず、相変わらず別世界の住民だ。俺はそっと席を立ち、後片付けを済ませて部屋に戻った。
しばらく、件の説明会のイメージを書き起こしていると、部屋の扉がノックされた。入ってきたのは純也だった。
「どうした、純也?」
「うん。この間まで帰りが遅めだったのに、最近は普段通りの時間に帰ってきているなって思って」
彼はそういうと、俺のベッドに座る。確かに二人に事故のことは話していないが、どうやら心配させていたようだ。
「あぁ……ちょっとな。……話さないままでいるのも、気が重いな」
純也に三週間前に起きたことを洗いざらい話した。
「……それは、不幸だったね」
純也はそう言うと、逆に謝ってきた。話しにくいことを喋らせたことに、気持ちが治まらなかったようだ。
「でも、その人も元気そうで良かったよ。そろそろ追い込みの時期になるっていうのに、大変だったね……」
同情の眼差しでそう言った純也の頭を軽く撫でると、彼は驚いたのと気恥ずかしさからか、硬直していた。
「同情はいらねーよ」
『純也ぁー? ちょっと来てーっ』
リビングの方から、弟への呼び出しがかかる。
「そんなことより、向こうで嫁が呼んでるぞ」
そう言ってからかってやると、純也は笑って聞き流し、そのまま部屋を出ていった。相変わらず仲睦まじい二人だ。
俺にそういう人が出来たとしても、あいつらのように長く続けていける自信はない。過去のトラウマは、どうも頭から離れないものだ。
(……彼女は、今も苦しい思いでいるのだろうか)
頭を過ったのは、あの暴力的な男と薄幸な女性。元の生活に戻った以上、彼女の苦しみもまた大きいものとなっている、そんな気がする。
しかし、連絡先など知らないし、それを俺がどうにかしてあげられるとは思えない。彼女らのことを考えるのはやめて、俺は今一度パソコンと向かい合った。