【陽菜視点】 嫌な予感
充実している。今の私の想いを表すならそれが一番だと思う。信じ合える親友が居て、大好きな恋人が居て、そんな私を咎めない両親が居る。学校じゃちょっと浮いているけれど、それも気にならないくらいに、まーちゃんの存在は大きいものだ。登校する時は、たとえ講義が無くてもまーちゃんは付き合ってくれるし、私もそうしている。私が時間を持て余す時でも、まーちゃんは先生に隠れてメッセージを送ってくれる。尽きない話題、尽きない笑顔。未だかつて、こんなに幸せだと思えた時は一度も無かった。今が一番楽しい、そんな気がする。
「なーににやけちゃってるのよ、この浮かれ者~」
「やんっ」
不意に、頬にひんやりとした感触。思わず出た声に、彼女はどこか悪意を感じる不敵な微笑みを浮かべる。両頬に添えられたのは彼女の両手。暖房は掛けてあってもあまり効いていない講義室に、一時間も居るなら誰でもなるものだ。ちょっと睨んでみても、彼女は動じず、その下心がよく窺える表情を崩すことなく対面席に座った。ここは学食だ。
「カレにはもーっと艶めかしいものを……あっ、ちょっと、ごめん、ごめんってば。冗談だから」
予想通りの言葉に呆れて離れてやろうとしたけれど、それは彼女に腕を掴まれることで阻止された。流し目で視線を送ってみると、あの姿勢で謝罪の意を示された。仕方が無いので席に戻ると、まーちゃんは瞳を輝かせながら身を乗り出して、こう訊いてきた。
「どこまで行った? イかされた?」
「ホントに怒るよ?」
下世話な話は正直得意では無い。答えた声は、割とドスが利いていたと自分でも思う。さすがにそれには怯んだのか、まーちゃんは申し訳なさそうにしながら、腰を落ち着かせた。
「でも気になるんだよなぁ。あんなにイイ男、そうそう捕まえられるものじゃないし、何よりカレ、自分のものになったら独占欲強くなりそうだし」
「……今までとほとんど変わらないよ。変わったのは……呼び方と、ちょっといじわるになったとこかな」
「Sっ気持ちかぁ。そういう人もいいなぁ……。ツンデレ、的な?」
どうも最近のまーちゃんは恋に恋しているように見える。私と彼の話を詮索するし、やれこういう人がタイプだの、やれ結婚するならこんな人だの、そんな話ばっかりだ。少し理想に溺れている節は見えるが、それ以外はいつも通りなので特に気にしてはいないけれど。
「……でも、ホントのところ、どこまで進んだの?」
「えっ」
急に真面目な声色になって、実際を見透かされたような気分になってドキッとした。興味本位というよりは、どこか心配しているようにも窺えるその視線に、急に恥ずかしさが込み上げて口が上手く動かない。
「……まぁ奥手だもんね、陽菜って。大方キスくらいでしょ」
図星でした。恥ずかしさはいっそう増し、耳まで赤い気がする。なんだかムキになってしまい、変に声を上ずらせながら抗議をしていた。
「だ、大体、まだ付き合って二週間くらいだし……そ、その、そういうのはもっとお互いを理解してからするものでしょっ。そ、そんなにすぐじゃ……は、破廉恥な女って思われるじゃない。そんなの嫌よっ」
「男の人って、えっちな女の子大歓迎みたいだよ?」
「えっ、そ、そうなの?」
そんな話聞いたことも無い。いや、そもそもほとんど周りを遮断していたせいで世間様の見解はまるで解らない。ていうか男の影も見えないまーちゃんが何故そんなことを言えるのだろうか。まさか、そういうことだったりするのかな。
「その顔はあたしが節操のない女だと疑っているなぁ? おバカ」
突然のバカ呼ばわりに少しムッときた。疑ってもおかしくない状況にしたのは、他でも無いまーちゃん自身だというのにとんだ心外だ。気持ちを隠さず表情に出していたら、まーちゃんは事情をちゃんと説明してくれた。
「あたしだって知らないよ、実際のとこは。今のも、昔の知り合いで子持ちのおバカさんの言葉を受け売りにしただけだし。その子がそういう人だったからねー……。ま、とにかく、あたしは陽菜にすら負けた行き遅れ。あー、誰か拾ってくれないかなぁ」
それを聞いて、どこかホッとする自分が居た。男性であれ女性であれ、そういった人が傍に居るのは少し考えるものだと思う。そういう点での安堵なのだろうと、結論付けた。またしても出会いを求めた発言をしているまーちゃんの言葉を受け流しながら、そういえばお腹が減ってきたなと考えていた。
「んあー、なんかもうお腹空いてきたー。陽菜ぁ、あたしここに居るから買ってきて~」
机に突っ伏せてわがままを言ってくるまーちゃんのお願いを受け入れる。好みは解っているので何も聞かずに売店へ向かう。彼女はたまごサンドとサラダで良いとして、自分はどうしようかと考えながら、購入するべく並び群がる学生たちに紛れている。そんな時、ふと聞き覚えのある声が耳に入った。それを聞いて真っ先に覚えたのは、不愉快さだった。
「まぁオレにかかればこれくらいのプログラムは楽勝だからさ。せっかくだし教えてやるよ。これ知ってると卒論捗るよ」
視線を向けないように俯き、スマホを触る。聞いただけで込み上げる嫌悪感に苛まれながら、その声が聞こえなくなるまで世界を遮断した。
「おい、前行けよ」
ふと掛けられた声。見知らぬ学生だったが、自分が列を途切れさせていたことに気付いて慌てて前を詰める。ようやく回ってきた自分の番。とりあえずまーちゃんの分を確保する。なんとなく視線を向けた先にあったのは、五目ご飯のおにぎりとBLTサンドイッチ。それを手に取り、緑茶とオレンジジュースも一緒に購入して足早に彼女のもとに向かった。しかしそこには先客が居た。
「あーごめん、そういうのやらないタチだから。これでもチキンなもので」
「なんだよ連れないな。面白いと思ったんだが……おっと、それじゃあな」
逃げるように去って行ったのはあの男。あそこまでしつこかったくせに、クリスマスの日以来急に静かになって安心していた。しかし今度はまーちゃんに何かしようとしているのかと思うと、憎悪が溢れてくる。まーちゃんは私を見つけると自分から寄ってきて、大丈夫かと優しく問い掛けてきた。
「……ここじゃ気分悪いよね。もう講義も無いし、今日は外で食べよっか」
小さく頷いた私の腕を引いて、まーちゃんは学食から抜け出た。
大学の敷地に、大きな広場がある。これはデジタルデザインを受講している生徒が主に使う、デッサンや写生を行う場所だが、休憩時には解放されている。ベンチに座り、買ったものをまーちゃんに差し出す。
「せっかく外だし、寒いからパックジュースは後で飲もっか」
そう言うとまーちゃんは、近くの自販機に足を運んでホットの飲料を購入してきた。渡されたレモネードを一口飲むと、深い溜息が自然と零れた。
「たっまご、たっまご~」
鼻歌を歌いながら、まーちゃんはサンドイッチの封を切る。そして思い出したように財布を開いて、購入した金額丁度を手渡してきた。両手を添えながら渡されたお金の重さを感じながら、私は、自分の手のひらの上に来た彼女の右手をゆっくりと握った。驚いたまーちゃんは私を見つめてくる。
「……何、言われたの?」
そう訊いただけでまーちゃんは、少し気まずそうな表情を見せる。しかし、嘘の窺えない真っ直ぐな声で、その質問に答えてくれた。
「ハッキングしてみないかって。ほら、あたしって……一応、IT関連は得意じゃない? 頭は悪いけどさ。それで訊かれたんだけど……陽菜に隠し事なんて出来ないし、ハッカーなんて何が良いのか解んない。だから断った」
胸を苦しめていたつっかえが晴れたような感覚。思わず、良かった、と呟いていた。
「ジメジメ終わり。お昼、お昼! あー、お腹ペコペコ~」
そう言いながら嬉しそうにサンドイッチを頬張るまーちゃんを見ていると、何故だか私も幸せな気分だ。おにぎりを口にしながら、まーちゃんが交わしてくる何気ない会話に相づちを打つ。でも何故だろう、この先に嫌な予感を感じずにはいられなかった。




