不穏な気配
「テストプレイ?」
そう問いながら、座り込んだ俺の寝室のベッドの上で小首を傾げる陽菜。弟たちも公認だ。
二月を迎えて最初の月曜日、ここに来るまでにゲームは大体完成していて、テストプレイを通じての動作確認をした上で最終的な仕上げをして、今月末予定のリリースに繋げる。すでにテストプレイ希望のユーザーは締め切っているが、部長の計らいで各社員の身内で希望する者が居れば配信することになった。彼女にそれを交渉してみている最中だ。
「あぁ。是非、感想を欲しいんだ。もちろん多くのユーザーからお声をいただくが、より近い人から直接もらえる言葉は、質が良く新鮮で貴重だと考えているのがうちの会社なんだ」
どうだろうと問いかけ、彼女の頬をひと撫でする。すると陽菜はくすぐったそうにしながら、差し出した左腕に両手を添え、手のひらへ頬ずりをする。その姿は、さながら甘える子猫のようだ。ゆっくり頬を離すと、考えるように声を漏らす彼女。そして微笑みながら頷いてくれた。
「まーちゃん、そういうの好きそうだけど」
「訊いてみるか」
スマホを取り出し、仁科さんへメッセージを送る。ほとんど間髪入れず、面白そうと返信が返ってきたので、用意すると返信し、アプリを閉じた。
「星ちゃんたちにはこの話、持ち掛けたの?」
「うん。二人にも配信するよ」
そっか、と頷いた陽菜はすっと立ち上がって大きく伸びをする。以前にも感じたことだが、やはり彼女はしなやかで美しい体のラインを持った、女性らしい身体つきなんだなと再認識させられた。
「私の顔に、何か?」
こちらに不思議そうな視線を送ってきた陽菜がそう問いかけてきたので、何でもないとはぐらかした。まさかむっつりな思考を巡らせていたとは、口が裂けても言えない。
「そういえば、ここって仄かに煙草の匂いするけど、実際吸っているところってあんまり見たことないかも」
特に気に留めなかった陽菜が別の話を持ち掛けてくる。見せたことは無いはずなのでその疑問もおかしくは無いと思った。
「煙草の得意不得意がわからない人の前では吸わないようにしているんだ。体を悪くされても困るし」
陽菜は煙草は平気か、と訊いてみる。陽菜は小さく首を横に振った。
「でも、こうやって吸ってる人の部屋に居ることは嫌じゃないし……好きな人が吸ってる姿は、かっこいいと思うな」
やや恍惚の眼差しが注がれる。嬉しいことを言ってくれるなと思いながら、その言葉を受け止める。そう言われたなら吸ってみるかと思い煙草の箱に手を伸ばしたが、どうしてか気が乗らない。途中で止めた腕をゆっくりと下ろした。
「吸わないの? いいよ、吸っても」
そう言ってくれたが断り、彼女を手招きする。女性としては背が高い方の部類に入ると思われる陽菜だが、俺からしてみればちっちゃい子なので、ぬいぐるみのように抱きかかえることが出来た。そっと彼女の肩から腕を回し、抱き締めると、戸惑いながらも陽菜はその腕を柔らかく包み込んでくれた。
「煙草よりもっと落ち着く安定剤が俺にはあるから」
耳元で少し低めの声色でそう言ってみると、見る見る内に顔を真っ赤にする陽菜。こういう反応見たさに、遊び心でこういうことをしたくなってしまう。
「秀哉さん、そろそろご飯……」
それに気を取られすぎて外界の様子を気にしていなかった。星ちゃんがおそらくノックをしてからドアを開いたのだろうが、この様子を見るとしばらく硬直してしまっていた。
「……ごゆっくりぃ~」
そしてゆっくりとドアが閉められていく。その後まもなく純也に駆け寄る星ちゃんの声が聞こえた。二人同時に顔を見合わせると、お互い耳まで熱いのが見て取れた。
「……きょ、今日はこの辺りにしておくか」
「そ、そうですね……」
半ば逃げるように外へ出る。陽菜が敬語だったとかそんなことは些細な問題に過ぎなかった。陽菜を送ると告げてきたが返答が無かった辺り、あちらもあちらで別世界へ飛び立って行っているのだろう。
車内では終始気恥ずかしさの影響で会話がぎこちなかった。陽菜を自宅まで送ると、俺は車外に出て、催促された抱擁に応え、手を振って見送る。彼女の姿がマンションの入口へと消えていったのを確認して運転席へ戻ろうとした時、一瞬何か、鋭い視線のようなものを感じ取った。
「……誰か、いるのか?」
夜の闇も更け始めた20時頃。マンションの通路はもちろん窓にも明かりが多く灯されているが、ここに人通りはまず無い。辺りにあるものと言えば広い駐車場と、車線の無い一本の車道を挟んで向かい側にある小さな公園くらい。夕方であればここに住む小学生が居てもおかしくないが、この時間に居ることはほとんどないだろう。ならば今の視線は杞憂なのか。思い込みだったのだろうか。
「……気のせいか」
運転席に戻り、エンジンを掛ける。ハンドブレーキを解いて、シフトをドライブに合わせてブレーキから足を離そうとした時。突然、スマホに着信が入った。
「非通知……」
非通知には苦い思い出しかない。出るのが苦だったので無視して車を発進させた。最近行き来が増えてきて、ここと自宅を結ぶ道路では必ず一度は信号に引っかかるのだが、奇妙なことにノンストップで通過できた。自宅の駐車場に車を停めてスマホを見ると、留守電が一件。どこか薄気味悪い気持ちに覆われながらそれを聞いた。結論を言うならば、肝が一気に冷え切った。
『お前を許さない』
思わず驚いてスマホを投げてしまった。幸い助手席に着弾して何の異常もきたすことは無かったが、全く身に覚えの無い事柄に少し拾うことを躊躇ってしまう。それは男の声だが、嫌にドスを利かせているせいで判別すらまともに出来ない。得も言われぬ恐怖に囚われた俺は、急いで自宅へ入ると、純也たちが居るであろうリビングに向かった。やはり彼らはそこに居て、呑気に食べさせ合いをしている最中だったが、俺の異変に気付いて純也が駆け寄ってきた。
「兄さん、どうしたの? 顔色が良くない……」
「……悪い、今は説明出来ない。ただ……二人とも、少しの間、傍に居てくれないか?」
この状況を異常と見たのか、星ちゃんもすぐに駆け寄ってきて手のひらを握ってくれた。純也は肩も抱いてくれていて、非常に荒れ狂った心を正していくのに有効だった。だいぶ落ち着いてきて、二人に事情を説明しようとしたその時、またスマホが鳴った。純也に頼んでスマホを見てもらうと、またしても非通知の電話。純也は警戒して出ない方がいいと諭してくれたが、俺は敢えて出ると告げて、通話ボタンを押し、すぐにスピーカーに切り替える。心に覚悟を決めてゆっくり応答してみると、返事はすぐに来た。
『妹尾 秀哉……だな』
同じ声だ。だったらどうしたと少し強気に返してみると、小さく笑い声が聞こえる。これは、この電話越しの相手のものだと言うことはすぐに判った。
『……オレはお前を許さない。オレの女を盗んだお前を……。覚悟、しておくんだな』
そうして一方的に通話は切断された。事情は解らずとも不愉快さを覚えたのか、二人の表情が少し歪んでいる。事情を説明すると、星ちゃんはすぐに電話をする。純也は体勢を変えないまま、一緒になって何かあったのかを考えてくれたが、結論は見つからなかった。
「今、うちの解析班たちに今の電話の発信源を辿ってもらっているわ」
通話を終えた星ちゃんがそう言ってくれたが、俺には何を言っているのかさっぱり解らなかった。主に常識面の方で。
「あぁ……椿さんたちか」
「はぁ?」
椿、などと言う言葉は、人名にあることは知っているが俺はそんな人を知らない。思わず悪態付いた発言をしながら純也を見ていた。
「兄さんは知らなかったっけ。星のお家に居る、何でも出来るメイドさんたちだよ。そのリーダーが、椿さんっていう女性なんだ」
常人では考えもしないメイドなどと言う職業。聞いてすぐには信じられなかったが、よくよく考えたら、いろいろ規格外な財閥嬢の周りに何があってもおかしくないんじゃないかと思い納得がいった。確信的な納得ではなく、呆れ半分の納得ではあったが。
そんなことをしている間に結果が出たのか、星ちゃんがまた電話に出ている。通話を終えると、溜息混じりにこう告げてきた。
「ダメ。公衆電話だって」
最早FBIもびっくりな速度で解析されたこと、星ちゃんの近親者について、彼女の異常な環境を異常と欠片も思って無さそうな口ぶり。いろいろツッコミたいところはあるが、今はそれよりこの非通知電話の話の件だ。
星ちゃんに、公衆電話でも何でもいいからもう少し情報が無いかと訊いてみる。その答えは非常に重要な手掛かりになった。
「誰が発信したかはわからないけど……発信源の公衆電話は、この近辺のものだそうですよ」
そうなればこの近隣に拠点を置く誰かであることが判る。そして同時に、俺に渡っているこの件が、あの子にも影響を及ぼしかねないと思った俺は、陽菜に電話をかけようとした。しかしそれは、星ちゃんによって静止されてしまった。
「陽菜さんにはまだ伝えない方がいいわ」
「なんでだよ」
反抗的に訊ねてみる。返ってきた言葉に、俺は絶句した。
「余計な心配をかけることになるからよ。それにもし言ったとして、彼女に心当たりがあったとして、その後どうなるかくらい、わかるでしょ」
確かにそうだった。そうなれば彼女は――陽菜は、確実に一人で解決しようと試みだす。責任感が強く、俺を大事に想ってくれているからこそ、そうなりかねない。それで陽菜に何かが起きてしまっては、もう遅い。言い返す言葉を失った俺に、星ちゃんは厳しかった声色を柔らかくしてこう言った。
「今はまだ、実被害に遭っていない。ならば、私の頼れる使用人たちに任せて。大丈夫、決して悪い方向へは行かない。それは主の私が保証するから。だから秀哉さんはいつも通りでいい。いつも通りで居て、またさっきみたいなことが起きたらすぐに教えて。全力でサポートして、解決に導くから」
純也も星ちゃんも、強い確信を秘めた眼差しで俺を見つめてくる。今まで俺が守っていた二人だったが、いつの間にこんなに頼りになる存在になっていたのだろうか。そう思うと、どこか込み上げてくるものがあった。
「……わかった。頼んだよ、星ちゃん」
「もちろん」
不審な視線、謎の非通知、俺を憎む男の存在。どれもまだ漠然としすぎて繋がるものは無いが、一つだけ言えることがある。
――そんな子供じみたようなことをしてくる奴の、好きにさせるものか。絶対に屈しない。俺には強い味方がいるんだから。




