星空の大晦日
ひとたびドアを開けば賑やかな雑踏が聴覚を刺激する。雲一つない鮮やかな星空に祝福された今宵の大晦日。俺は、まさに今から外を行こうとする弟夫婦を見送っていた。
「まだ年明けには十分な時間あるぞ?」
そう問うと、星ちゃんは純也の腕に身体を絡ませて妖しく微笑み、答えてきた。
「私たち、これから伊勢に行くの」
時刻は21時。前述通りの人の横行による外の雑音に負けないくらいの大声で聞き返していた。思わず口を押さえはしたが、きっと丸聞こえだっただろうと思うと顔が熱い。純也が軽く微笑むと、補足を付け足してきた。
「ホントは去年の式年遷宮に合わせて行きたかったんだけど、やっぱり同じ考えの人はたくさんいるんじゃないかって話し合ったんだ。当日になっても、関西支社の人と連絡を取ってまで粘ったんだけど、結局ダメで。だから、今年こそは行こうかなって」
「いや、その発想はいいんだけど今からじゃもう間に合わないんじゃないか?」
否定的に返してみれば、星ちゃんはさも得意げにドヤ顔をして、声高々にこう宣言してきた。
「私を誰だと思っています? 自家用ヘリやプライベートジェットくらいなら持ってます」
そうして思い返す。そういえばこの子はいろいろ規格外の財閥嬢だったんだ、と。
呆れ半分の溜息が零れる。俺は適当に頷いておいて、二人を追い払うように手の甲を動かした。苦笑いの純也は、星ちゃんを引き連れて足早に去って行った。
「あれでホント、よく続くよな」
こう、時々星ちゃんの根本にある性質を見ていると、つくづくそう思ってしまう。これについては、彼らがお互いに助け合って、理解し合っているという結果の表れであることは間違いない。そしてお互いが干渉し合っているからこその今なのだろうと思えば、不思議と頷けてしまうものだ。
リビングに戻って時計を確かめる。俺は大体23時頃に出発すればいいだろう。ベランダから夜景を眺め、物思いにふけっていると、不意にスマホが鳴っているのに気が付いた。非通知着信だ。少し不気味に思ったが、俺は通話ボタンをタップして応答した。
「もしもし?」
わずかな息遣いが聞こえる。荒くは無くむしろ落ち着いているのだが、どこか不規則なところから、相手が緊張しているのが伝わる。しかし、声が発されることは無い。もう一度俺が声を出してみるが、それでも応答が無かった。少し不快な気分になった俺が切ろうと思った瞬間。小さな、すでにマイク部から口元が遠ざかった後のようなぼんやりとした音で、確かにそう聞こえた.
『ごめんなさい……妹尾さん』
そうして通話が切れた。相手は俺を知っていて、俺に何か動機があって電話していたとしか思えないものだった。かすかに聞き取れた声はつい少し前に聞くことを俺自らが拒んだ声。間違いなく、あの凛とした透き通った声だった。
何かもどかしい気持ちに逸らされるように、その人を呼び出してみるが、それが繋がることは無かった。着信拒否という現実を知らしめるアナウンスを聞くと、俺の手からスマホが落下し、硬い乾いた衝撃音が無音のリビングに響き渡った。
「……そりゃ、そうだよな」
自分の行いを改めて思い返す。こうなることは目に見えていたが、それでも俺は彼女のためと割り切ってこうした。だが、やっぱり現実になるとどこか心が痛い。いくつか後ずさりした足から急に力が抜け、フローリングにそのまま座り込む。さっきよりもさらに長い溜息を吐くと、思っていた以上にその音は室内に響いた。
背後のソファに身体を預けると、だんだんと滑っていく。抵抗する気も無く委ねていると、結果床に寝転がる形になっていた。だらしなく大の字になり、仰いだ天井に右手を伸ばすが、それは空虚な空間だけを握りしめる。また、小さな溜息が出た。こんなに溜息ばかり吐いているんだ、もしかしたら明日から、幸せとは程遠い一年を満喫することになったりするかもしれない。
少しボーっとしているつもりだったが、どうやら眠っていたらしい。ふと気が付いてスマホで時間を見ると、外出しようとしていた時間が間近に迫っていた。急ぎ気味に準備を整えて、足早に自宅を後にした。電車を乗り継いで40分ギリギリに駅に到着し、吾妻を探した。しかしやはり、時期的なこともあり人通りがあまりに多く、どこにどういった人物がいるのかすらまるで判らない。仕方なく彼女へ電話を掛けると、すぐに応答があった。
「吾妻、おまえ今どこに――」
『――ごめ、妹尾くん、10分くらい、お、遅れる!』
俺の言葉を遮った吾妻の声が、息が上がっているように聞こえた。雑踏の音と、風を切る雑音が一緒に聞こえてくる辺り、吾妻が走っているというのが理解できた。
「今どこ走ってんだよ」
『わ、わかんないけど、せ、線路沿い走ってる!』
刹那、電車が通過する音も入り込んでくる。とにかく自分も線路沿いに出ようと人混みを掻き分けていると、電話から聞こえておよそ3分後に電車が駅に停車した。この辺りの一駅感覚は知らないが、吾妻は一駅前で降りている可能性が高いと思った俺は、電車が来た方向に逆走するように線路沿いを走り出す。
「おまえ、格好は?」
『ふ、振袖……っ』
「無理しないでゆっくり進め! 足は?」
『ちょっと痛い!』
無茶してまで何をしているんだと頭が痛くなる。とにかく走るなと言って一方的に通話を切ると、俺も全力で線路沿いを走り抜ける。歳のせいか嫌に早く体力が無くなってきているのが感じ取れるが、未だ足を痛めているのに頑張ってくれている吾妻に応えるべくとにかく走る。どれくらい走っただろうかなんて判らないほどに進む。途中電車が3回通り過ぎていた。そして見えたのは、少し足をかばうように歩いている吾妻だった。彼女は、俺に気付くと、足のことは忘れたかのように走り出す。振袖な以上小走りのようだが、その勢いは普段の走り以上に思えた。
「妹尾くんっ!」
そのまま跳びかかってきた吾妻をうまく受け止められなかった俺は、彼女に押し倒されるように座り込む。強く抱きしめてくる吾妻は、上がりきった息を整えてから謝ってきた。
「ごめんね、せっかく待っててもらってたのに」
「気にしてねーよ」
吾妻に離れてもらい、立ち上がった俺は彼女の手を引いて立ち上がらせる。さっきの跳びつきで、せっかくの鮮やかな色彩の振袖が多少の土埃を被っていた。所構わずそれらをハンカチを用いて払っていくと、吾妻は少し気恥ずかしそうにしながら受け入れていた。
「せっかく似合ってんのに台無しじゃねーか。もう少し考えて動けよな……」
「う、うん……。でも、その……なんか、妹尾くんの顔見たら一気に不安が無くなっちゃって、思わず……」
軽く頭を小突いてやる。吾妻は苦笑いで受け流していた。うっすらと額に汗が浮かんでいたのが目に入ったので、ハンカチと一緒に持ってきていたハンドタオルでそれを拭う。
「あ……いや、汗は自分で拭くよ、き、汚いし……」
「風邪引かれたらたまったもんじゃないだろ」
「あ、ありがと……」
吾妻は、俺がある程度顔を拭き終えたのを見て、後ろを向くと言ってその通りに動く。普段セミロングの髪はハーフアップに纏めている彼女だが、今日はシニヨンにかんざしという極めて和調の出で立ちで、滑らかな白いうなじを惜しげも無く晒している。そんな首元を拭っていると同じく、本人もタオルで汗を拭き取っていたが、そこで何故後ろを向いたのかが初めて理解できた。
頭部に隠れて完全に目視できるわけではないが、どうやら吾妻は襟元を広げて胸元を拭っているようだ。間違っても視界に入れてはいけないと注意を逸らし、ある程度拭き終えたら身体ごと明後日の方向へ向き、終わるのを待った。少し待つと振袖のズレを直した吾妻が振り返った。
「じゃあ、行こっか」
そして歩き出そうとしたら、重く大きい鐘の音が耳に入る。嫌な予感がしてスマホを取り出すと、その瞬間に時計は0になった。こんな形で、新たな一年の初めの一歩を踏み出していたとは。
「……くすっ」
二人で見合って思わず吹き出す。少しの間肩を震わせた後、お互いに新年の挨拶をかわす。
「明けまして」
「おめでとうございます」
そして、二人で今年もよろしくお願いしますと、声を合わせて言う。言い終えると吾妻が大袈裟な溜息を吐いた。
「あーあ……こんな年明け、情けない……ダサ」
ひどく落胆したように肩をすくめる吾妻を宥め、気を取り直して初詣に行こうと告げると、彼女は小さく頷いて歩き出した。
「遅れちゃった理由なんだけどさ。満員電車だったんだよね。それで、一駅前で降りる人たちに押し競されちゃって、そのまま戻れず……」
苦笑いをして話す吾妻に、俺は手のひらを頭に乗せて、撫でるようにしながら慰めた。




