薄幸な女性、天宮 陽菜
それは、彼女が退院するまでの間できる限り足を運び続けることに決めて、三回目のお見舞いの時に起きた。いつものように甘味を渡し、容態の確認や他愛もない話をしていた。
「陽菜!」
荒々しく開け放たれた扉から、剣幕を鬼のようにして雑多な足運びで彼女に近づいてくる男。一瞬こちらを見たが、すぐに意識を天宮さんの方に戻して、怒鳴り声を上げた。
「事故にあったんなら連絡くらいしろ! 今さっき聞いて、急いでこっちに来たんだぞ!」
二人は、特別な関係を持ち合わせているように見えるのだが、何故だか彼女は、男の顔すら見ようともせず、ただ沈黙に身を委ねている。
「おい、聞いてんのか! おまえのことだぞ!」
男は乱暴に天宮さんの肩を揺らし、眉間にしわを寄せてまで問いかけるが、それでも彼女は答える素振りすら見せない。痺れを切らした男は、彼女の艶やかなセミロングの髪を掴み、執拗に引っ張った。さすがに見過ごせまいと、俺は男の手を、彼女にできるだけ負担のかからない程度の力で引き剥がした。
「おいあんた! 誰だか知らないけど、いきなり怒鳴っておいて患者の、しかも女性の髪を無理に引っ張るなんて無茶苦茶だ!」
男と天宮さんの間に体を割り込ませ、男と対面する。彼はまだ冷静になれないのか、いきなり俺の胸ぐらを掴みかかってきた。
「テメェこそ誰なんだよおい。オレは陽菜のカレシだ。そのオレより先にいるテメェは何者なんだよ、アァ?」
メガネのレンズの奥から、三白眼をさらにキツくして俺を睨む男。今にも殴りかかってきそうな勢いだ。
「その人は今回の事故の関係者よ」
天宮さんがそう言うと、男は途端に俺を殴り飛ばしてきた。すぐにマウントを取られ、さらに力強く胸ぐらを掴み、男は怒鳴り散らした。
「テメェが陽菜にケガ負わせた奴か! いい歳して運転のルールも知らねぇのかよグズが! テメェのせいで陽菜が死んでたらどう落とし前つける気だったんだよアァ!? 何とか言えよオラァ!!」
興奮状態にある男に何を言っても通用するはずがない。それなのに彼は、また強く拳を浴びせてくる。しかし俺は動けずにいた。確かに、もし彼女を轢いてしまい、そのまま人生を奪っていたのなら、俺に問われる責任はあまりにも甚大。幸い起こらなかったとはいえ、その可能性を否定できない以上、こうされてもどこか道理に思えてきてしまう。
「やめて……やめて! ねぇ、お願いだからやめて!! その人も被害者なのよ!?」
「ッるせぇ!! おまえの代わりにこの犯罪者を殴ってやってるんだよオレは!」
聞き耳も立てず、殴って“やってる”……か。彼にとってのこの“正義”は、果たして彼女にとって“正義”なのだろうか。
「やめろって言ってんのよ!!」
彼女の悲痛な叫びが病室中に響き渡ると、男は驚いて手を止めた。
「出てって」
そして、ドスの利いた恐ろしい声で、冷血に言い放った。その瞳は、どこか曇っているように窺えた。
「だ、だけど」
「出てけ!」
男が何かを言おうとしたが、それは呆気なく遮られた。
「……次遭ったら潰す」
そしてそう捨て台詞を言い放つと、バツが悪そうに足早と去って行った。
顔全体に響く鈍痛すら忘れてしまうほどに、俺は彼女のその姿に驚愕していた。
「……見苦しい姿、見せてしまいましたね。すみません」
彼女は俺から顔を背け、俯き、深く溜息を吐いた。どうすることもできず、掛けてあげる言葉も浮かばない自分が情けなく、悔しかった。
室内に沈黙が訪れる。聞こえてくるのは、開放された扉の向こうから聞こえる、看護師や他の患者の足音、話し声。差し込む光は幾分と朱くなり、表情の窺えない彼女と重なって切なさを醸し出していた。
「天宮さん? 扉、閉めておきますね」
開けっ放しの扉を不思議に思ったのか、看護師の女性が声をかけ、そっと扉を閉めた。
天宮さんはもう一度大きく息を吐くと、ゆっくりとこちらに顔を向け、話し出した。
「あの人……根津って言うんですけど。あの人の言っていることは、信用しないでください。ああ言っていますが……私は、あの人に心を許した覚えは一つもありません。自己中が浅はかなことを大っぴらにして、調子に乗ってるだけなの……」
先ほどあの、根津という男に放った声色でそう言う天宮さん。その言葉に、あの僅かな間に彼女が急に老け込んだような印象を受けた。
「私はあの人が嫌いです。見ただけで反吐が出そうになる」
彼女の瞳はどこか虚ろで、俺に助けを求めているようにも窺えた。
「私は、あの人のせいで人が信じられなくなりました」
小さな雫が、ベッドのシーツに吸い込まれていく。続けざまに、幾度となく、落ちていく。
「……こんなこと、妹尾さんに言っても仕方ありませんよね」
切なげな苦笑い。心が締め付けられる。
「……そ、そういえば! 妹尾さんっておいくつなんですか?」
「え?」
彼女は強引に話をすり替えた。ワケもわからず、反射的に聞き返していた。
「妹尾さんが社会人だってことは解かっているんですが、そういえばおいくつなんだろうって思いまして」
先ほどとは違う、明るい笑み。しかしそれは、空元気だということは見え見えだ。少しの間黙ってみたが、彼女はその仮面を外そうともしない。どうしてそんなにも、笑顔でい続けようとするんだろうか。
「25……だけど」
引き下がる気のない彼女に深追いはできない以上、俺は諦めて口を開いた。
「4つも上なんですね! 同い歳くらいかと思ってました、ふふっ」
それで彼女の年齢もわかるのだが、それにしてはまだあどけなさが残る笑顔だ。童顔、と言うのが相応しい。
「私、21に見えませんよね? よく言われるんです。ひどい時は、中学生に間違われました。でも身長は160近いですし、お酒にだって弱くないんですよ?」
可笑しげにくすくすと微笑む天宮さん。彼女を取り巻く薄幸な環境がなければ、きっと順風満帆な人生であっただろう。それだと言うのに、現実は甘くない。天は人に二物を与えないと言うのが、なんとなくわかる気がする。
「私、もう大学生なのに、嫌になっちゃいますよね。あ、そういえば妹尾さんは、どんな所にお勤めなんですか?」
また一転する話の内容。俺は、なんだか切ない思いだった。
「スマホ向けのアプリを開発してる会社。収入はそこそこ良いし、環境も悪くない」
「そうなんですね。そろそろ就職先を探し始めなくちゃいけないので、参考にさせてもらいます」
話はそこで途切れた。俺は、すかさず一つの疑問を投げかけた。
「あのさ、天宮さん。本当に……人間が、信じられないのか?」
「……信じられなくても、誰かに何かを聞くことはできますよ?」
そう言って彼女が見せた表情は、非常に翳り、切なげで、とても見ていられるものではなかった。
「もうこんな時間ですね。今日はそろそろ、お開きにしましょう?」
すぐに表情を切り替え、微笑みながら彼女は言った。時計を確認すると、18時を回っていた。看護師に声をかけられる前に、帰った方が良さそうだ。
「そうだな……。明日、また来ますね」
荷物をまとめ始めようとしたら、彼女がそっと手を俺の腕に添えてきた。
「4つも離れているんです。敬語は、やめてください」
柔らかい微笑み。俺は、思わず頷いていた。
「じゃあ……また、明日」
「はい。お待ちしていますね」
彼女の手のひらがひらひらされているのを見て、俺は天宮さんの病室を後にした。