好きな人
「ただいま」
ソファでくつろいでいた時、玄関口から聞こえた声。すぐに入ってきたのは、純也と星ちゃん。心無しか、星ちゃんは肌が艶めいている気がする。ゆうべはお楽しみでしたね。
「あれ、兄さん? 今日も仕事じゃ……」
「部長さんが、今日から年末休みに入っていいと連絡があったみたいです」
天宮さんが代弁すると、純也たちは一年間、お仕事お疲れ様と声を掛けてくれた。次いで天宮さんに、先輩だから敬語は大丈夫と諭す。しかし彼女は遠慮しがちだった。
「遠慮無くタメで話してください。気持ちも、楽になりますし」
星ちゃんが促すと、控えめに天宮さんは敬語を止めた。彼女のタメ口は、時折気を抜いている時に話しているのを聞いたことはあるが、それでもどこか新鮮味に溢れていた。
「……なんだか秀哉さん、ちょっと具合悪そう」
星ちゃんがそばに来て、手のひらで俺の熱を測り出す。さらには額同士をくっつけてきてまで測る。だが熱が無いのが、不思議のようだ。
「星、あんまり兄さんに……」
「気付いてなかったクセに何よ」
「う。ご、ごめん」
尻に敷かれる純也を応援したくなるような会話だ。苦笑いしていると、天宮さんが隣に座って来た。いつもより距離が近い気がして、少しドキドキしてしまう。
「昨日、ビール3本空けたら、ダメだったわ」
「3本も一気に? 体に悪いよ……」
心配そうな眼差しで見つめてくる純也を嗜め、動けることをアピールしてみるが、弟の嫁はそれを許さなかった。
「秀哉さん、朝は軽めにしておきますから、今は部屋で転がっていてください」
頬を膨らませてそう言う星ちゃんに敵うはずもなく、俺は強制的に部屋へ連行された。部屋の窓は開放され、ひんやりとした冷気に気分がスッキリしてしまいそうになる。
「お昼まで寝ていて大丈夫ですから、余計なことはしないでください。いいですね?」
念を込めてか、だいぶ近い距離に顔を近付けてそう言った星ちゃんに頷くと、彼女は部屋を離れた。入れ替わりで天宮さんが入って来た。
「あれじゃどっちの嫁かわかんないわ」
「ふふ。それだけ気にかけてくれているってことですよ」
ありがたいけど、何とも言えない気持ちになる。天宮さんはベッドに座ったかと思えば、急に寝転がって俺を見つめてきた。
「何だか、私もまた、眠くなってきました」
最近に多く見る、悪戯な微笑みをすると、小さく可愛らしい欠伸をする天宮さん。気が緩んでいたことに気付くと、うっすら頬を朱に染めて寝返りを打つような動きで顔を逸らした。
「……今日はさすがに帰らないとダメですよね」
すぐに仰向けになった彼女は、右腕を額に乗せて視界に影を落とす。そして、小さくそう呟いた。俺はどう答えていいのかわからなかった。
「……帰りたくないなぁ」
ほとんど聞こえないくらいの声の小ささに、一層天宮さんが本気なんだということを察する。長い間の沈黙、何だか耐えられなくて、思わず長く息を吐いていた。
その沈黙を破ったのは、トークアプリの音だった。自分のスマホを見たがそれではなかった。
「……っ」
同じように天宮さんも自分のスマホをチェックしていたが、どうも表情が強張っている気がする。彼女はすぐに立ち上がり、まるで俺に見られたくない何かを隠すようにデスクに近寄った。
「親御さん?」
そう訊くと、彼女は一瞬のタイムラグを経てそうだと言ってきた。嘘であることは一目瞭然だが、敢えて問い質しはせず、彼女の言葉に頷いた。
「わ、私、朝ごはんの用意が出来たか見てきますね」
天宮さんは慌てて部屋を飛び出していった。俺の作業デスクにスマホを置きっぱなしで、しかも画面が点いている。もちろん内容を見るつもりなどないが、彼女の尊厳のためにも、画面を落としておこうと立ち上がり、彼女のスマホを手に取った。本当に見るつもりはなかったのだが、画面が視界に入ってしまった。
「……!」
当然相手は親御さんなどでは無い。そこに載っていたのは、根津という名前の、文体からして男だ。あの時病院で好き勝手やってたあの男であることに気が付くのに、少し時間がかかった。
何かしらの問いかけを根津がしていたようだが、天宮さんはことごとく返信をしておらず、相手のトーク内容が延々と綴られていた。そしてトークの一番下に書いてあった、天宮さんの唯一のメッセージに、俺は少なからずショックを受けていた。
『最後の忠告です。もう連絡も直接会うこともしないでください。私には好きな人がいます、あなたなんかとは違う素敵な方。もう、邪魔をしないで』
「秀哉さん、朝ごはん……何してるんですか?」
不意に聞こえた星ちゃんの声に驚き、思わず俺は彼女のスマホをポケットに隠す。ひょっこり顔を出した星ちゃんは不思議そうに俺を見つめていた。
「いや、ちょっと、デスクの整理を」
「ごはん、出来ましたよ」
苦し紛れの言い訳に関心無さそうに頷くと話を切り替えてきた。すぐに行くと答えると彼女はリビングへ向かって行った。安堵の息を吐いて、咄嗟に隠したスマホを手に取る。画面はすでに暗くなっていた。しかし俺の脳裏には、先ほどの天宮さんの書いた文がくっきり焼き付いていた。
「……好きな人……」
このままではいけない。彼女の未来に幸せがあるのなら、それを応援してあげたい。わかってはいるんだが、俺はどうすればいいのだろうか。何を以て、彼女のこれからの成就を手助けすればいいのか。――二日酔いのせいだろう、頭が酷く重く、痛い。
「……なんだか苦しいな」
朝ごはんを食べたら、すぐに寝よう。こんなの、今の俺では整理がつかない。
もやもやした感覚と心の重さを痛感しながら、俺はゆっくりと部屋を出た。




