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五話

九.

 大きく深呼吸をし、なるべく平静を保つ。そうやっていつものように、何てことのないように、彼女の前に現れようと思った。


 もう公園は目の前である。


 太郎はずっと考えていた。そして思い出していた。これまで、雨と一緒に遊んだこと、彼女の心の葛藤に触れたこと、そして救ってもらったこと。そして、太郎は一つの結論を導いた。

 無論、最終的に判断を下すのは雨自身である。しかし、このアドバイスが彼女にとって決定的なものになるのではないか。そんな予感があった。


 公園に辿りつく。

 そして見つけた。迷っている少女を。

 雨はベンチに腰掛け、クロを抱いていた。


「よう、雨」なるべく意識して明るく声を掛ける。今の自分の感情を、悟られてはいけない。

「太郎」雨は少し疲れたような声色だった。おそらく、件の問題について、ずっと考えていたのだろう。

「調子悪そうだな」太郎はよくよく少女の顔を覗き見る。確かに、その顔からは疲れが伺えた。

「ええ、アメリカ行きのこと、ずっと考えていて」雨はクロを撫でながら言う。

「そっか」そう言って、太郎は雨の隣に腰掛ける。


 空を見上げると、月が輝いていた。良い天気だと思った。できれば、こんな良い日にあまり重苦しい話などしたくはなかったのだが。


「で、結論は出たのか?」

 雨は力なく首を振る。それはそうだろうと、太郎は思った。若干十八歳の少女に、今後の人生を決めてしまうような決断が軽々しくできるとは思えなかった。

「ねえ、太郎」雨が呼びかける。今度は、ちゃんと答えられるような気がした。「私、どうすればいいのかしら」


 この時が来た。

 太郎の鼓動が一気に高まる。次の言葉を言うのに、ひどく力が必要だった。自分の動揺を、唇の震えを、精一杯抑えながら、太郎は結論を口にした。


「雨、お前」

 しばらく間を開けた。堪えろ。そう自分に言い聞かせながら、何とか口を開き、言葉を紡ぐ。


「アメリカに行ったらどうだ?」


 雨に緊張が走ったのが伝わった。おそらく、彼女が予想していなかった答をハッキリと太郎が言ったことに、衝撃を覚えたのだろう。


「どう……して?」小さく雨は尋ねた。

「考えてみたんだけどよ」太郎は立ちあがる。「アメリカに行ったからって、それはお前の言う『逃げ』になるとは思えねえんだよ。単純に日本の文化が肌に合わない。それだけの話じゃねえか。俺からしてみれば、アメリカに行ってベストコンディションで勉強した方が、遥かに雨のためになると思うね」

 そのまま、雨に背中を見せながら続ける。今の自分の表情を、見られたくなかった。

「こんな窮屈なところで無理して、それで『自分は意志が強い人間です』なんて強がることなんてないじゃんか。お前はまだ高校三年生だぞ。スゲえたくさん可能性があるだろ。それをわざわざ潰すような真似しなくていいんだよ」

「太郎……」雨が呟く。

 太郎は構わず続けた。

「なあ雨、無理することなんて、どこにもないぞ。こんな腐れた国、さっさとおさらばできたらせいせいするぜ。逆にこのチャンスを逃したら、お前はもう日本で苦しまなくちゃいけなくなるんだ。そんなのは嫌だろ?」ふう、と一息ついてから、まだ続ける。「それに、お前お母さんと会いたくないのかよ。向こうに行けば、ずっとお母さんといられるんだろ? もう何も寂しがることなんてない。食事だってキチンと取れるようになる。それが一番デカイと思うね。お前は親と一緒に、温かくて楽しい食事を取るべきだ。こんな処で拒食症なんて洒落にならないだろう」

 太郎は一気にまくしたてた。途中から、暴走が始まってしまっている。自分でもそう思ったが止められなかった。

 そのときである。


「太郎!」


 大きな声だった。驚いて雨の方を振りかえる。

 そして更に驚いた。

 目の前の光景は、太郎がまるで見たこともない、心が大きく揺さぶられるほど美しく、それでいて悲哀に満ち溢れていた。

 それは、雨の悲痛な顔であった。彼女がここまの表情ができることを、太郎は知らなかった。あまりのことに、太郎は言葉を失う。

「太郎……どうしたの?」雨の切ない声が、太郎の胸に突き刺さる。


 雨の足元で、クロが不安そうに二人を見上げていた。


「俺は……」返事をするのに一瞬の時間を要した。「すまん。一気に喋りすぎたな」

 太郎は目を瞑る。大きく深呼吸した。

 胸のつっかえを取ろうと、右手を胸に当てた。

 落ち着いた。ほっとする。気持ちが一杯になりすぎて、上手く声にすることができないことを、太郎は一番恐れていたのだ。雨には、この動揺を知られたくなかった。彼女の決断を鈍らせないためにも。


「雨、論理的に考えりゃ、お前はアメリカで大きくなるべきだ」真剣な顔つきで断言する。これが、太郎の導き出した、雨の為の最善の答だった。


「でも私……」雨は俯く。「太郎のことが気になって」

「俺のことが心配か?」

 雨は頷いた。

「大丈夫さ」太郎は何とか微笑んでみせた。「正直、俺もお前と離れるのは嫌だ。けど、それがお前にとってベストな選択なら仕方ないと思ってる」

 雨は顔を上げ、太郎を凝視している。

「お前のことを忘れたりしない。お前と過ごした日々のことも、あの日助けてもらったことも。これからずっと忘れない」そこで区切り、ハッキリと言った。「離れてても、お前を親友だと思ってる」

「太郎……」雨の声は掠れていた。「でも学校とかは? 金縛りとかは? 大丈夫なの? 太郎。あなたのことが気になってしかたないわ」

「学校にはちゃんと行く。カウンセリングとか受ければ、まあ何とか立ち直れるだろ」そういって、太郎は雨に近づいた。「約束する。全部のことが上手くいくって約束するから。だから、お前はもう安心して良い」


 太郎は右手の小指を差しだした。約束の証。

「太郎……」

 雨はゆっくりと、ためらいがちに、差しだされた小指に自らの小指を絡める。

 暫く、二人は動かなかった。


「これで、最期だね」雨はそう言った。空いている左手の人差指で、軽く目をこすった。

 よく見ると、彼女の目は赤かった。

 どうしようもない切なさが噴き出すのを必死に堪え、太郎はその小指を放した。


 指きった。


「もう大丈夫だ」雨の頭を撫でる。「大丈夫だからな」

「うん」雨は頷いた。

 そうして、二人の夜は終わった。

 雨はすぐにでもアメリカに帰るという。

 おそらくは、もう二度と会うことはないだろう。

 別れの時が、やってきたのだ。




十.

 翌日の昼、太郎は久々に大学に顔を出した。雨との約束のこともあり、これからはまともな生活を送ろうと決めた。


 両親に電話をし、これまでのことを謝罪した。これからはキチンと大学に行くから、安心してほしいと。太郎の父親は電話口で、ただ「そうか」とだけ言い、電話は終わった。


 この日は大雨だった。天気予報によれば、これが今年の梅雨最後の大雨だそうである。梅雨がじきに明け、本格的な夏がいよいよ到来しようとしていた。太郎にとっては、いままでにない新しい夏になりそうだった。


 夕食に豚肉のソテーを作った。雨の家に泊った、あの日のことを思い出す。雨に救われたあの日の自分。少々の情けなさと気恥しさ、それと愛おしさの混じった記憶だった。


 何もかも上手くいく。

 そのはずだった。




 深夜零時半。これを最期にしようと外に出かけた。明日からは、朝から授業に出るつもりだった。もう大半の講義は終わってしまっているものの、出席をとらずテストだけで単位を出す講義ならば、合格できる可能性は十分にあった。


 やっぱり、夜歩きってのは不健全だよな。そう思いながら、出ていったのには理由がある。あの公園にもう一度行ってみたかったのだ。

 そう、雨と出会った日も、こんな風に大雨の降っていた日だっけな。そう思うと、何故だかいてもたってもいられなくなってしまった。


 細い路地を通り、公園に辿りつく。

 そこには、誰の姿もなかった。

 当然だった。

 彼女はもういないのだから。

 そう実感した瞬間だった。

 溜まっていた感情が、ふつふつと湧き上がり始める。

 ザー、と降り注ぐ雨の音が、太郎の耳に空しく響く。

 雨はもういない。

 これまでのことを思い返した。


「くっ」自分でも抑えきれずに、うめき声が出た。辛かった。僅か二十日とちょっとしか共に過ごさなかった。それでも、確かに繋がっていた。あの少女と絆があった。

 しかし、もう会うことはないだろう。

 覚悟していたはずなのに。掻き毟りたくなるような胸の苦しみがあった。


 次の瞬間だ。


 ゾクりとした悪寒が走った。

 まさかと思う。

 身体を突然縛りあげられたかのような感覚が太郎を襲った。

 アレが、来たのか?

 たちまち身体が震えだした。太郎はパニックに陥る。

 傘を捨てて、しゃがみ込んだ。

 マジかよ、いつもは寝てるときにしか来ないのに。

「あ、あ、あ……」不快感が爆発していく。

 そう考えると、もう駄目だった。

 気が付けば、巨大な影が太郎を覆いこんでいた。思わずその場に、倒れ込む。

 駄目なのに。

 大丈夫だと、雨と約束したのに。

 太郎の感情は、完全に恐怖に支配されていた。ガタガタと身体は震え、服は泥まみれになった。髪も顔も雨でぐしゃぐしゃになる。

 太郎には為す術はなかった。どうしようもない。俺にはどうしようもないのか。そう思った。

 お前には無理だ。影がそう言う。

「うる……、さい」

 無理だ!

「ああああああああぁぁぁ!」

 蛍光灯の光が見えた。必死にその光にむけて手を伸ばす。


 そのとき。

 伸ばされた手が、しっかりと握りしめられる感覚がした。


「太郎!」


 声が聞こえた。

 頭に漠然と一滴の純水が垂らされたイメージが広がる。純水は泥の水たまりの上に落ちる。すると、嘘のように水たまりは透明になっていく。

 闇は晴れた。

 影は消えた。


 ぐしゃぐしゃに濡れた瞳、握られた手の先を薄目で見やる。

「太郎、大丈夫?」

 そこには、太郎が求めていた、心の底で本当は求めていた光景が広がっていた。


 雨だ。

 雨が、自分の腕をしっかりとつかんでいるのが、太郎には分かった。

「雨、か?」

「そうよ、太郎」そう言って、雨は太郎を抱きしめる。「もう、大丈夫だから」

「お前、どうして……?」

「だって、あなたが嫌なことを克服して頑張るって言うんだもの。私も克服して頑張らなくちゃ変じゃない」

 雨の温もりが太郎の全身に伝わる。

「私も日本にいる。太郎の傍にいるわ」

「お前……」太郎は理解が追いつかなかった。しかし、雨の言葉は優しかった。心地よい安心感に包まれる。それだけで、太郎はもう良かった。

「馬鹿だな、お前」不思議と憎まれ口が洩れる。

「お互い様でしょう?」


 太郎は雨を抱き返した。




「そうか、アメリカ行くの止めたんだな」

 太郎は落ち着きを取り戻した。

「だから、そう言っているでしょう」

「お前、大丈夫なのか?」

「『何もかも大丈夫』なんて大嘘言った誰かさんよりは、よっぽど大丈夫」

 雨の皮肉に思わず笑みが零れる。

「そうか」

「そう」相変わらず、雨の声には抑揚がない。しかし、太郎にはどこか満足げに聞こえた。

「なら、これからもよろしく、だな」太郎は右手を差し出した。

「よろしく、太郎」そう言って雨も右手を差し出す。「ところであなた、本当の名前なんていうの?」




 太郎には三人の仲間がいる。哲哉、松田、公文。彼らはかけがえのない親友だ。これまで太郎を支えてきたのは、彼らの存在だったと言っても過言ではないと太郎は考える。


 そして今、太郎には新しい親友がいる。彼女はもはや、太郎にとって居なくてはならない存在だ。


 そう。彼の隣には、雨が立っている。


<雨が立っている 了>

完結です。

最後まで読んで下さった方、ありがとうございました。

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