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四話

七.

 雨の家で過ごした日から、更に一週間が経った。二人のやることは相変わらずで、深夜に出会い、その度に様々な遊びをして朝を待つ。ただし、関係の方はあの日以来、若干の変化があったように太郎は思える。互いが互いを受け入れている。普段何気なく過ごす時間から、そのことが雰囲気で分かるのだ。


 そう。受け入れたのだ。太郎はつくづく不思議に思う。雨を受け入れたことではなく、彼女に対して温かな感情を向けていることを許している自分自身に。全く、彼女と出会ってから自分に対して驚きの連続である。


 季節はもうそろそろ梅雨が明けようとしている時期である。この日はしとしとと、雨が降っていた。

 太郎と雨は傘を差しながら、川沿いの散歩コースを歩いていた。いつものように、なんでもないような話をしながら。しばらく歩いた後、彼らは橋の下で休憩をすることにした。


「最近暑くなってきたよな」太郎が言う。

「そうね」雨は抑揚のない口調で返す。


 一言だけ聞けば、いつもの抑揚のない返事のように聞こえる。だが、太郎はそこで疑問を抱いた。どうも、今日の雨の様子はおかしい。最近、太郎はクールで殆ど表情を変えない雨の、ほんの微かな感情の起伏を捉えられるようになってきた。いつもなら、もう少し楽しそうにしているものだが、今日の彼女はどうやら考え事でもしているのか、どこか上の空である。


「どうした?」太郎は思い切って尋ねてみることにした。「雨、何か考え事か?」

 雨ははっと驚いたように顔を上げた。

「ごめん。ちょっと……」雨が謝るのは初めてだった。

「悩み事?」

 尤も、今の雨の不健全な生活を考えると、悩みや迷いがあったほうがまともなくらいだが。

「うん」雨は素直に頷いた。

「良かったら聞くぞ?」

「うん、でもちょっと待って頂戴。とても大事なことなの。あなたに話すべきなのか、よく考えるから」


 雨が悩むことと言えば何だろうか? 太郎は疑問に思った。雨は俯き、考えを纏めている様子だった。


 二人は完全に沈黙していた。雨の降る音だけが二人を包んでいる。太郎は橋の下から見える、川の景色を眺めていた。雨によって水面は乱雑なまだら模様を描いている。


「わかったわ」五分ほどだろうか。ずっと黙っていた雨が口を開いた。「太郎に話してみる」

 太郎は無言で雨の方に向き直った。真剣に聞く姿勢だ。

「太郎、私」ゆっくりと雨が言う。

 太郎は無性に緊張してしまった。次の言葉が紡がれる瞬間が、いやに長く感じられる。


「私、アメリカに帰るかもしれない」


 鼓動が速くなった。太郎は思わず大きく目を見開く。それは、あまりにも突然過ぎる話だった。




「父と久しぶりに話したの」雨は細長い指を組み、話し始めた。「帰ってきて、一緒に食事をしているとき、突然」


 雨の話によると、雨の父親がアメリカに住んでいる母親と話をしたらしい。父親は不登校である雨のことをいたく心配していた。日本での生活が合わないことを知った父親は、母親の元へと返した方がいいのではないかと判断した。そして今日、雨にその話を提案したというのだ。


「そりゃまた……随分と突然な話だな」

「そう。でも父は時間を無駄にするくらいならって、結論を急かしてくるの」

 雨は目を瞑った。そのまま顔を伏せてしまう。本当に、この少女には珍しい感情表現だと感じた。本気で悩んでるんだな。そう太郎は思った。

「なあ、雨」太郎はゆっくりと言う。「確認したいんだけど、お前はアメリカに帰りたかったんじゃないのか?」


 しばしの間があった。


「そうだったのだけれど、いざ現実となると、迷いが出てきたの」どう答えればいいのか迷ったように、歯切れ悪く答える。「このままアメリカに逃げ帰っていいのかなって」

「『逃げる』って感じなんだな。お前の中じゃ」

 雨はコクリと頷いた。

「時々思うの。今回のように、何か嫌な生活があるとして、そこから逃げたままじゃあ意志の強い人間にはなれない。ずっと弱いまま。気が付いたの。このまま日本に残って、嫌な学校生活を頑張って続けるっていう選択肢があることに」

 雨が日本に残ることを選ぶということは、当然雨の父親に学校へのカムバックを宣言することと同じである。もし、それが上手くいったなら、確かに雨は意志の強い人間へと一歩ステップアップできるだろう。

「お前は闘おうとしてるんだな」太郎は呟いた。


 アメリカに行くという選択肢を選んだとしても、決して誰かが雨を責めるわけではないだろう。

 ここでアメリカに行く選択をしたって、お前は意志が弱いってことには繋がらないぞ。そう太郎は言おうとした。しかし、何故かその言葉がなかなか出てこない。

 雨が成長しようとしている。日本に残り、なんとか嫌な学校生活を克服しようとしている。ならば、それを応援してやった方がいいのではないだろうか。太郎は葛藤した。


「ねえ、太郎」雨が呼びかける。


 『ねえ、太郎』。この呼びかけを、太郎は何回聞いてきただろうか。その度に、太郎は答えてきた。けれど、今回は果たして上手く答えられるだろうか。


「太郎は、私がアメリカに行くの、嫌?」


 俺が、どう思うか?

 俺はどうなんだろう。

 太郎は考えた。


 雨に、行ってほしくない。

 太郎はまたしても驚いた。自分にそのような感情があることに。ようやく気が付いた。先程から自分を支配している緊張は、雨の一生を左右するような相談だからというだけではい。雨が行ってしまうことへの不安なのではないか。自分は淋しがっているのか。その結論に至り、何とも言いづらい感情になる。隣に座る友人への愛おしさと、それを感じていることへの悔しさがブレンドした、居心地の悪い感覚。


「私は、太郎と会えなくなったら淋しいわ」


 衝撃だった。

 胸が一気に苦しくなる。


 俺もだ。

 その一言がなかなか言えなかった。今度は悔しさからではない。その一言が決め手となって、雨が日本に残るという選択肢を選んでしまうことを恐れた。


 太郎は自分の感情をコントロールし、何とか答える。

「まぁ、確かに寂しくなるけど、お前がアメリカに行きたいってんならしょうがないよ」

「そう……」

「とにかく、一日やそこらで決められることじゃねえだろ」太郎は立ちあがって言った。

「うん」

「今日じっくり考えてみればいいんじゃないか。俺も考えてみるからよ」太郎は何とか微笑んだ。動揺を、上手く隠せただろうか。

「わかったわ」雨は頷いた。いつも通りの仕草である。


 この会話を最後に、この日はお開きとなった。

 家に帰っても、太郎は漠然とした不安を抱えたままだった。その日はなかなか寝付くことが出来なかった。この日金縛りが起きてしまうものなら、どうなってしまうか自分でもわからなかったのだ。太郎は雨の優しい手を思い出す。彼女が、いなくなる。そのとき、自分は一体どうなってしまうのだろう。




八.

 夜の七時のことである。太郎が最寄駅を歩いていると、偶然にも見知った顔を見つけた。スーツに身を包んだその姿を追いかけ、肩を叩く。


「よう、哲哉」その人物は佐野哲哉である。

「わ、びっくりした」哲哉はイヤホンを耳から外し、やあ、と挨拶をしてきた。

「仕事の帰りか?」太郎が尋ねる。

「うん。今日は比較的早く帰れたかな」哲哉はにっこりと笑い、答えた。

「哲哉、今から暇か?」

「暇と言えば、暇だけど?」哲哉は首を傾げた。

「じゃあ、晩飯付き合えよ。一杯くらいいいだろ?」

 哲哉はフッと笑い。「いいよ」と了承した。




 太郎は雨のことを相談したかった。これまでのいきさつを哲哉に話す。雨が碌に食事も取っていないこと、日本に慣れないこと、そんな雨に救われたこと、そして雨がアメリカに行こうか悩んでいること。


「そっか。それは難しい選択だね」哲哉は言った。

「だろ。俺もどうしてやったらいいのか、よくわからなくてな」太郎はビールを煽る。

「でもさ、君が悩むことないんじゃない?」哲哉は意外なことを言った。「だって、君は雨って子に行って欲しくないんでしょう?」

 太郎は答えに詰まった。

「まだ、認めたくないんだね」見透かしたように、哲哉は言う。「君は昔から意地っ張りなんだよ。他人に自分の感情を揺さぶられるのが、本当に気に入らないんだね」

「そんなもん、誰だってそうじゃないのか?」不貞腐れたように太郎は言った。

「で、そういうのが悪くないって思い始めてる自分を責めちゃうんだよね」

「お前はどうしてそんなことまで解るんだ?」

「長い付き合いだからね」哲哉は良い笑顔である。

「許してあげなよ。人に気持ちを動かされる、そんな自分をさ」哲哉は言った。「君はもっと素直になっていいと思うよ」

 太郎は何とも言えなかった。ただ、哲哉の言うことは適切すぎると思った。

「雨って子のこともさ、素直に言えばいいんじゃないかな。最終的に決めるのは彼女なんだし、とりあえず一緒にいたいってことをストレートに伝えてあげなよ。日本に残れ、アメリカに行け、そのどっちの結論を出すよりもよっぽど大事なことだと僕は思う」

「二択の答より、大事なことか……」太郎は呟いた。

「雨って子のこと、好きなの?」唐突に哲哉は訊いた。

 再び太郎は答えに詰まる。正直どうなのか自分でもわからない。

「なんとも言えないな」無難に答えることにした。「アイツは子供みたいな奴で、それでどうにかしてやりたいって気持ちが湧いてくる。けれど、それが恋愛かどうかまでは俺には区別がつかない。そもそも、俺は人を好きってのがどんな感情なのか理解ができないし、別にしたいとも思わない」

「そっか」僅かに微笑みながら、哲哉は言った。「まあ、僕としては雨って子に日本に残ってもらいたいかな」

「え? なんでだよ」意外な発言に太郎は驚く。

「だって、雨って子と会って、なんとなく君、変わったような気がするんだよ。前までは結構無感動なタイプだったじゃない。それが今では雨って子のこと、思いやって真剣に考えてる。そのことって、君にとって結構いいことだと思うんだよね」

「雨と会うのが、俺にとっていいことか」そのことは、太郎も前々から思っていたことである。

「不思議なもんだよな。人と人が会うってことは」

 哲哉は笑った。

「そりゃあ、そうだよ。人と人が会うってことは、新たな可能性が生まれることだもの。って研修で習ったことだけどね」

「新たな可能性か」

「だから君が変わったことも、全然おかしいことじゃない。これからも、その雨って子にどんどん影響されていくと思う。その子が日本に残るなら、僕としてはその後君がどんな風になっていくのか、正直楽しみではあるよ。まあ、幼馴染としては、君を変えるのが自分じゃないってことが、少しばっかり悔しいけどね」

「馬鹿野郎」哲哉の言った最後のくだりが妙に気恥しく、思わず罵声を発してしまった太郎である。

「そうか。なんだかほっとした」哲哉は感慨深いように言った。

「年寄り臭いな、その台詞は。お前は俺の保護者か」

「ねえ。もし雨って子がいなくなっても、その子と過ごした日々とか、自分が変われたってこと、忘れちゃ駄目だからね」哲哉は嬉しそうである。

 俺が成長することがそんなに嬉しいか。太郎は若干呆れながら、そっけなく返事をした。「わかってるよ」




 哲哉と駅で別れ、太郎は自宅に戻った。床に寝転がり、雨に何ていえばいいのかを真剣に考える。

 そうしているうちに、時間は過ぎていった。時刻は零時半。もうそろそろ、雨がいてもいい時間帯だった。


 太郎は一つの結論を持ち、公園へと向かった。きちんと現実と向き合わなければならないときが、来たようだった。


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