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三話

五.

 太郎と雨が深夜に会うようになって、十日が過ぎていた。連絡先の交換などはしていない。ただ、どちらから言い出したわけでもなく、彼らは毎日決まった時間に最初に出会った公園で落ち合うようになっていた。


 梅雨のこの時期、雨の日もあったが、そんな日でも太郎は少女のことが気にかかり、公園へと行ったものだった。

 太郎は最近、調子がいい。悪夢を見ることが少なくなり、金縛りも減っていた。自らの中で、何か変化が起こったとは到底思えない。相変わらず大学には行っていないし、朝寝て昼起きるという生活のリズムも変わってはいない。

 雨と会うことが楽しみになっている。太郎は心のどこかで、その事実を認め始めていた。


 雨とは様々なことをして遊んだ。黒猫のクロと一緒に戯れる、深夜の散歩で新しい景色を見つける、二十四時間営業のファストフード店で携帯ゲームやトランプもやった。

 この日、二人は深夜に開いているファミレスを発見し、中に入ってのんびりと時間を過ごしていた。




 雨はコーンスープ、太郎は鶏のから揚げを注文し、更に二人はドリンクバーを頼んだ。


 太郎は気になっていた雨の素性について、少し質問をしてみることにした。


「じゃあ、アメリカでの暮らしが長かったんだな」

「そう。おかげで、今の日本の学校に馴染めなくて……」

太郎はジンジャエールを飲みながら、雨の話を聞く。

 雨は中学に上がった頃からアメリカにいる母親のもとで生活を送っていた。今、雨が日本にいるのは、雨の両親の込み入った事情があるようだった。

 雨の父親は、仕事で家を空けている時間が殆どだという。ほぼ一人で暮らしていると言ってもいいだろう。雨のその細い体つきから、彼女に一人前の生活能力があるとは思えない。太郎とは違い、雨は生活環境という意味で、大きな問題があることは明らかだった。


「で、前から気になってたんだけど、食事とかどうしてるの? 細すぎだろ、お前」太郎は尋ねた。

「食べてない」

「何ィ?」予想以上の事態に、太郎は目を丸くする。

「『食べてない』ってどういう意味だ? 一日何食してる?」

「食べる日の方が少ないわ」淡々と雨は堪える。「食べなくても、そんなに堪えないから、私」

「堪える堪えないの問題じゃないだろ……」太郎は頭を掻いた。

「今、太郎が奢ってくれたコーンスープ」空になった皿をちらりと見て、雨は言った。


 太郎は奢ると一言も言ってない。尤も、そんなことは目前の欠食児童と比較すれば、些細な問題だが。

「あれが二日ぶりくらいかしら」

「お前」太郎は思わず目頭を押さえた。


 彼女の素行不良、つまりは不登校であったり、深夜に出歩くといった行為を咎める気はないし、太郎にはその資格もない。ただ、食事を碌に取っていないというのは流石に頂けなかった。


「自炊とか苦手なのは良いけどさ、せめてコンビニ弁当とか、買い出しに出たらどうなんだ」

「食べても、何もいいことがないから」どこか淋しさを含んだ口調で雨は言う。

 その物言いが、太郎にはどこか病的に感じられた。例えば、過剰なダイエットであるだとか、単に面倒くさいから食べない等、単純な理由で彼女は物を食べないのではない。その精神に思ったよりも深刻な闇が巣くっているのではないかと考えた。


「俺には何とも言えねえけど」太郎は頭を搔きながら言う。「今日くらいは好きなもん食べとけよ。せっかくファミレス見つけて入ったんだから」

「そうね」雨はコクリと頷いた。

 おかわりを何にしようか悩んでいるのか、雨は長いことメニューに目を通している。その表情は随分と穏やかなものだった。

「不思議ね、本当に」ぽつりと雨が口を開いた。「太郎がいると、食べることが何だか楽しく思えるんだから」

 太郎ははっと驚いた。そのあとに、淡い感情が心通ったような気がした。暫く経って、それがもしかしたら『嬉しい』という感情なのではないかと思い至る。太郎にとって仲間と過ごす時間は愉快ではあるが、このような暖かい感情がじんわりと身に染みたことは滅多にない。


 太郎は背もたれにどっと身を預け、鼻から息を吐きだした。たったこれだけのことで、わずかとはいえ動揺してしまった、優しい気持ちに包まれてしまったことが悔しくてならない。

 言った当の本人は、涼しげな表情でメニューを眺めている。

 本当にこの少女は、何の惜しげもなく自身の内なる感情を唐突に吐露する。太郎はそんなクールでストレートな彼女に、振りまわされている自分を自覚し始めた。

 まいったもんだな。口の中で呟く。

 この新しい奇妙な友人の好意が、それにふいを突かれたときの悔しさが、無性に心地良いのは何故だろう。




「久しぶりによく食べたわ」帰り道で、雨は満足そうにそう言った。

「そうみたいだな」太郎は相槌を打つ。

「太郎は」しばらく歩いていると、雨が尋ねてきた。「普段、食事とかはどうしているの?」

「俺か? 適当に済ませてるよ」太郎はあっさりと言った。

「その、『適当』というのが知りたいのだけれど」雨は少し目を尖らせて追求した。

「ううん。だいたいコンビニ弁当かねえ」太郎は考えながら言う。「ただ、自炊もするぜ。結構暇人だからな、俺も」

「太郎、料理できたの?」雨が微かに目を見張った。

「一人暮らしだと、地味にできて当然のことだと思うぞ」

「びっくりした」

「にしては、クールな反応だったぞ」太郎の口から微笑が漏れた。

「ねえ、上手なの?」

「それほどでもないと思うけど」太郎は少し謙遜をした。自炊はちょっと凝ったものを何年もしているので、ある程度のものなら作れる自信がある。

「ふうん。そう」珍しく関心を寄せたように、雨は呟く。「そうなんだ」

「何だよ?」太郎は無性に雨の反応が気になった。

「ねえ、太郎」雨は歩きながら、太郎の方を見やった。「今度、私に何か作って頂戴」

「ええ?」その提案に、太郎は驚く。「作るって、どこでだよ?」

「私の家」

「なんだって?」太郎は二重に驚く。

「私の家」

「繰り返さんでいい」

「駄目なのかしら?」雨は首を傾げる。

「別に駄目ってわけじゃないが……」太郎は少し思案した。そして、倫理的に問題がある、などど常識的なことを今更ながらにして言い出すような関係でもなかったと開き直ることにした。「いいよ。オーケイだ」

「約束」そう言って、雨は優美に顔をほころばせた。「今度、夕ご飯作りに来てね」

「了解」そう言って、太郎も笑ってみせた。


 この日も、梅雨にはめずらしく晴れた天気で、美しい星や月がよく見える夜だった。




六.

 ある日の夜八時のことである。太郎は約束通り雨の家に招かれた。雨の住む家は、このようなへんぴな土地には珍しい高級マンションの一室だった。最上階に位置し、眺めも良い。窓からは、繁華街の賑やかそうな灯りが見渡すことができる。太郎にとっては、物珍しい光景だ。

「いいとこだな、お前の家」率直に感想を述べる。

「そうかしら」雨はつまらなさそうに言った。「普段住んでいると、別に面白くもないところだけれど」

 少なくとも、夜歩きするくらいには。そう雨は言いたかったようである。


 太郎はキッチンまで移動すると、途中で買ってきた食材の入ったポリ袋から、中身を取り出し、冷蔵庫を開けた。

「やっぱり、ほぼ空っぽだな」予想通りだ。

「必要ないもの」少女は相変わらず冷然としている。

 太郎は食材を中に詰めながら言った。

「これだけ良いキッチンだったら、料理も捗るぜ」

「ふうん。期待しているわ」

そう言って、雨はリビングの椅子に腰かけた。


 流石に包丁やまな板はキッチンに置いてあり、ほっと一安心した太郎である。

 メニューは豚肉のソテーにするつもりだった。包丁で買ってきた豚肉を叩きながら、太郎は雨に話しかけた。

「アメリカにいた頃は、ちゃんと飯食えてたのか?」

「ええ、母がキチンと作ってくれたから」

「作る奴がいれば、飯は食うんだな?」

「そういう問題じゃない」雨はかぶりをふった。「気分的なもので、食欲が湧くときと湧かないときがある。日本に来てからね。両親や太郎がいれば食べられるみたいだけど、一人ではそんな気が起きないの」

「単純に日本のコンビニ弁当だの惣菜だのがマズイってわけでもないんだな?」と、調理を進めながら太郎。

「口に合わないわけじゃないわ」

「日本に来てからか……」少し考え、言った。「つまらないか? 日本は」


 雨は答えに詰まったようだった。

 やはり、日本という環境に問題があるのではないかと太郎は思った。雨は物静かだが、ストレートにものを言ったり、好き嫌いの主張を平然とする。その性質が日本では異質に視られるのかもしれない。太郎のような異質と、あの奇妙な状況下で友人になれた雨もまた、異質な存在なのだろう。


「本当はね」ようやく雨が口を開いた。「本当はアメリカに帰りたい」


 それは切実な告白だった。

 太郎は何と答えればいいか、わからない。ただ、なんとなく雨に共感することだけはできた。


「日本は、ちょっと息苦しいわ」

「俺もそう思う時がある」太郎は答えた。ただし、太郎の場合は日本と言う場所に関係なく、生きているということそのものが息苦しい。

「まあ、いつか何とかなるときが来るさ」何の根拠もないことを、太郎は柄にもなく言った。そんな考えは今までしたこともないのに。

「全く駄目な考えじゃないかしら、それは」

「そんなことないって」太郎は笑顔を浮かべて見せる。料理する手は休めない。「結局、なるようになるし、なるようにしかならないさ。そう思ってないと、生きてらんないだろ」

 太郎は人生に行き詰っている。夢も希望も抱けない。そのような情熱もない。そのことが堪らなく苦しかった。なのにどうして、こんなことが言えるのか。自分でもおかしいと思いながら。

「ただ、漠然と生きていても、いつか何かが変わる。そういうもんだって」

 不思議だった。何故自分は、思ってもみないことを言って、少女を励まそうとしているのか。

「そうなの、かしら」雨は頬杖をついた。その視線は、ずっと太郎に集中している。

 暫く経ち、太郎はようやく理解した。少女の切なる想いに触れ、胸が痛くなったのだ。ハッキリと、彼女のことを心配していると自覚した。胸の奥で赤い感情が湯水のように湧き上がる。この生温かい感情は、知らなかった。初めてこんな思いになった。この気持ちは一体何だと自分に問う。その答えは一つしかない。それは紛れもない、太郎の優しさであった。


 今わかった。雨と言う存在に、どれだけ自分を変えられつつあるのかを。




 どろりとした泥水のような闇が、太郎に忍び寄る。やがて、彼の全身を闇は飲み込んだ。

 息が苦しい。

 身体がまるで緊縛されたように動かない。ギリギリという自身の歯ぎしりの音が聞こえる。

 苦しい。苦しい。

 身体が言うことを聞かない。締め上げられるような痛み。肺を圧迫されているかの如く、呼吸も出来なくなっていく。

 嫌な夢を見ている。全身が痺れ、恐怖する。

 またアレが来た。


「……太郎」


 遠くから声が聞こえる。これは一体……。


「太郎!」


 ばっと起き上がった。

「はっはっはっ……」


 闇の中、太郎は眼を思い切り見開き、息を必死に整える。その背中に暖かい手に擦られる感触がした。

「すごい汗」雨の声だ。「太郎、大丈夫?」


 太郎は現在の自分の状況を確認する。夕食後、太郎は雨と遊び、深夜の散歩を終えた後も家には帰らず、雨の家に泊ったのだった。

 そして起こしてしまった。あの症状を。


「雨か」ようやくと口に出すことができた。

「目を覚ましたら、太郎の様子が変だったから、びっくりしたわ」雨は優しく太郎の肩に手を乗せる。「大丈夫なの? 太郎」


 不思議だった。あのせりあがる不快感が、雨の手によって拭われるように消えていく。太郎は大きく息をすると、肩に置かれた雨の手を握った。

「ああ……ああ。大丈夫だ……」

「そう」雨の声色から、珍しく動揺が伺えた。


 暫くの静寂の後、太郎は自分が抱えているものを吐き出そうと思った。

「俺も、どうしようもなくなっちまったんだ」

 雨は黙っている。

「何かよく解んねえけど、自分の中で灯りが消えちまったみたいに、何かを見失った」

 太郎の言っていることは、人に通じるようなことだろうか。到底、そうは思えなかった。訳も解らないことを、それも唐突に自分は言っている。けれども一度吐きだし始めた太郎の苦しみは、もはや止めることができない。太郎は自分の思いを、内面を、次々と吐露していった。

「……『何か』ってのが、何のことなのか自分でも分からない。忘れちまったのかもしれない。何もできないまんまだ。とにかく、それ以降いつの間にか大学に行くことすら止めちまった」

 どうしようもない思い。どうしようもない無気力感。一番自由であるはずなのに、辛い思い込みに縛られている自分。情けない自分のことを、少女に対して語り続ける。

「いつからか、朝起きるときにこんな感じで嫌な金縛りに遭うようにまでなった。ホント、情けねえよ。どうして自分でここまで堕ちちまったのかってな」

 ふう、と太郎は息を吐いた。とっくに緊縛感や動悸からは解放されていた。雨は自分に対して幻滅しただろうか。太郎はそう思った。


 雨が口を開く。

「辛かったんだ」ぽつりとした呟きだった。「太郎も辛かったのね」

 雨は太郎の頭を撫で始めた。

「聞こえたわ。太郎の悲鳴が」そういって、暫くの間、太郎の頭を優しく撫でていた。

「ああ……ああ」太郎はそう言うことしかできなかった。感情のコントロールをするので精いっぱいだった。こんどは恐れや痛みなど、マイナスの感情ではない。雨に対する感謝がどっと押し寄せてきたのだ。


 この少女と。

 太郎は思う。

 会えたことが、自分にとってどれだけ良いことだったか。


 太郎はずっと、雨にされるままになっていた。ようやく、その心地よさを受け入れることができたようだった。


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