二話
三.
心臓を透明な魔手で鷲掴みにされたような悪寒。
冷たく仄暗い海底に突き落とされたように、身体は一気に緊張し、呼吸がままならない。
苦みを含んだ不快感。
そんな状態が長くながく続いた。
徐々に苦しみは和らぎ、ようやく解放された。
太郎は例の如く息を切らしながら起きあがる。身体が痙攣を起したように、震えていることが分かった。
頭を掻き毟り、立ちあがる。台所に移動し、コップに水を汲んだ。それを一気に飲み干す。
「はあ……」
これはいつまで続くのだろうか。
そのとき、太郎は初めて思った。もう全てに期待を持たない生き方をしようと決めた。そんな自分が、もしかしたら誰かに救いを求めているのではないかと。
この日は、小学校以来の友人と、オールで酒を飲む約束であった。場所は太郎のアパートの最寄り駅にある、チェーン店の居酒屋である。
太郎と三人の友人は、一カ月か二カ月に一度はそこに集まり、夜通し飲んでいるのだ。
そんな恒例の集まりは、太郎にとっては数少ない純粋に楽しむことができる時間だった。何も気負ったりせずに過ごせる仲間というのは、重宝するものである。
時刻は夜の七時四十五分。太郎は少しばかり早めに集合場所である居酒屋の前で待っていることにした。この日もよく晴れた日で、太郎は何の当てもなく、約束の時間まで外をブラブラとしていた。
居酒屋は、とあるビルの四階にある。エレベーターを使い四階まで上がろうとすると、よく見知った顔を見つけた。
「よう、哲哉」
太郎は(尤も、この場では彼は太郎ではないが)その人物の肩を叩いた。
「ああ、早いね」
彼は耳に付けていたイヤホンを外し、のんびりとした口調で返してきた。
佐野哲哉は太郎の一番古い友人だ。小学校一年生のときから交流がある。哲哉は基本的に大人しい性格で、太郎と比べるとよほどまともな男である。しっかりと地に足をつけて歩く、典型的な真面目人間だ。彼は既に就職をしており、新人社会人として働いている。
エレベーターで一緒に四階に上がり、時間まで居酒屋の前のベンチに二人腰掛け、残りの二人が来るのを待つ。
「最近どうなの? 大学は」哲哉が尋ねる。
「行ってねぇ」
「出た、一言。今日は『行ってない』と『行ってねぇ』のどっちかな? って思ってた」おどけたように哲哉は言う。
「後者だったな」
は、と太郎は笑う。どうもここのところ、笑うことが多くなった。そう自覚した。ふいに少女の顔が脳裏をよぎった。まだ、二回しか会っていないというのに。
飲み会は大いに盛り上がっていた。
哲哉に加え、松田徹と公文龍一の二人とともに、太郎は昔話に花を咲かせていた。尤も、そんなに昔の話をするほど、三人は滅多に会わないというわけでもないのだが。
「松田は昔から、うるさかったよなあ。お前が通学のバスに乗ってくると、後ろの方に座ってても、すぐ分かるんだぜ」太郎はビールを飲みながら笑う。
やはり、この集まりは心地良い。
「俺、そんなにうるさいかぁ? 高校じゃあ、大人しい方だと思うんだが」松田徹もビールを煽って、頭を搔いた。
「お前、高校でも大学でもやかましいと評判だったろうが」公文龍一が冷やっこく言う。
「松田は公文と足して二で割って丁度いいくらいだよねえ」哲哉が苦笑した。
公文はいつも通り、静かに日本酒を飲んでいる。さっきから騒がしい松田とは対称的である。
「そういや、俺引っ越すことになったんだ」松田が突然言い出す。
「引っ越し? 遠いの?」哲哉が驚いたように顔を上げて尋ねた。
「いや、そんなに遠くない」松田は軟骨からあげをかじりながら言う。「同じK線沿いでな。職場に近いとこに、一人暮らしすることにしたんだっつーわけですよ」
「一人暮らしは面倒だぞ」太郎は言う。
太郎自身、家事の類は得意ではあるが、やはり面倒臭いことにかわりはない。
「大学生だと、楽しいこと多いだろうけどねぇ」哲哉は意地の悪い口調で言った。良識人ではあるが、こういうところが哲哉にはある。
「いつかは卒業するよ」太郎はそっけなく返した。
いつまでもダラダラとしているわけにはいかない。そのときは、適当に手を抜きつつ、現実とは斜め四十五度くらいで向き合うつもりである。そんな自分に、正直嫌悪しながら。
「で、お前らは何か変わったことないの?」三杯目のビールをおかわりし、もうそろそろ焼酎に入ろうかという松田が尋ねる。
「僕は新しくパソコン買ったくらいかな」苦笑し、哲哉が言う。「前のデスクトップがもうガタが来ててさ。公文に頼んで、良さそうなの選んでもらったんだよね」
そういう公文は変わらず日本酒を啜り、俺は授業が忙しい、とだけ答えた。公文は今年で大学院一年生になった。
さて、太郎自身は変わったことは何もない。しかし、ここ二晩連続での奇妙な出会いはあった。そのことについて、三人に話してみることにした。
「それ、公僕に捕まりかねんぞ」
話の内容はそれなりに衝撃的だったらしい。哲哉と公文は黙っていた。松田だけはケラケラと笑って茶化している。
「深夜にそんな子供に話しかけるなんて、お前度胸あるな」
「不思議なもんだったな。深夜のテンションってのは、やっぱおかしいね」
「まあ、このノリは酒入ってるからだとして、そのとき素面だったんでしょう?」哲哉は苦笑している。
「哲哉も深夜に散歩してみろよ。何か気分変になるから」哲哉のリアクションが面白く、クツクツと笑いながら太郎は言った。
「その子も大したもんだ。悲鳴上げて逃げられなくてよかったな」公文はポーカーフェイスである。
「ああ。ソイツ、普通にタメ口だしさ。俺と一緒でどこか頭のネジ一本くらいぶっ飛んでんだと思うけど、マジで大したもんだわ」
「楽しそうだね」哲哉はようやく、ふっと笑った。
「けどよぉ、実際のトコ、その子の生活どうなってるんだろうな」松田が言う。
「不登校っつってたけど」
「お前と一緒じゃねえか。案外、同じ匂いを嗅ぎとったのかもよ」
「かもな」
確かに松田の言うことには一理あった。太郎自身、あの夜、不思議とあの少女に話しかけても大丈夫じゃないか。心のどこかで、そんな気がしていたのだ。それは、彼女の独特の雰囲気が太郎にそう思わせたのではないか。それが松田の言う『匂いを嗅ぎとった』というならば、奇妙なことだが腑に落ちる。
時刻は十時。太郎は昨日、一昨日と出会った少女が、今日も公園にいるのではないかとぼんやりと考えていた。
中学時代の誰が今はどうしている。今はああしているアイツも昔はこうだった。そういえば、昔ポ○モンにハマってたよな。
そんな話もグダグダになってきた、午前零時過ぎ。松田なんぞはグテグテに酔っ払っていた。哲哉もいつもより饒舌になっている。
太郎は時計が気になっていた。ここ二日間の午前一時。雨と顔を合わせている時間が、もうそろそろである。
もしかしたら、雨は今日もいるんじゃないか。気になった。もしかしたら、向こうも今日も太郎が現れるのではないかと思ってやしないだろうか。あの名前の通り冷たい少女に限って、そんなことは気にしていないと思うが。それでも、気になるものは気になった。
何故自分は、こんなにあの少女を気にしているのだろうか。不登校で、深夜にほっつき歩いていて、あんなにガリガリに痩せた少女。まさか心配しているわけでもあるはずがないのに。この飲みの席で、気にするようなことではないはずなのに。
「例の子が気になるのか?」ふいに公文が口を開いた。
太郎は驚いて顔を上げる。
「さっきから、時計を気にしてる。もうすぐ、一時になるだろ」公文はズバリと言い当てた。
「おう、今日もその子いるかもしれんど。行ってみたらどうだ」松田が煽る。
太郎は一瞬、どうすべきかを考えた。雨のことは、この席を立ってまで気にすることなのだろうか。自分自身に問いかける。公園に独り、猫と戯れる少女の姿が頭に浮かんだ。そこまで来て、ようやく決断できた。
時刻は零時二十分。公園には二十分ほどあれば着くだろう。
「悪い」太郎は立ちあがり、言った。「じゃあ、俺ちょっと行ってくるわ」
「居なかったら戻ってこいよ」と、公文。
「ああ、とりあえず、金置いとくわ」
太郎は四千円をその場に置き、公園へと向かった。
佐野哲哉は友人を見送った後、彼について他の二人と話を始めた。
「あの彼があそこまで気にするとはね」
「確かに珍しい」公文も哲哉に同感のようである。
「しかしよぉ、アイツにとって、その子と会うことっていいことなのかなぁ? 不登校同士じゃんか」先程煽った松田が今更言う。やはり酔っているようである。
「俺は悪くはないと思うがね」と、公文。「あれだけ時間を気にしているということは、少なからず、その子に会うことをアイツは楽しみにしていたということだ」
「それなんだよね」哲哉は言った。「何か、その子の話をするとき、楽しそうにしてたんだよなあ。そりゃあ、物珍しいのは分かるんだけどさ」
「アイツがその子に惚れたっての?」松田は神妙な顔つきになる。
「そこまでは言ってないけどさ」
「最近、アイツ辛そうにしてるだろう。二留もしてるのが、その証拠だ」公文は煙草を取り出した。「俺達には何も話はしないがな」
「そう。だから、僕は誰か救いになってくれる人がいるといいんだけどなって思ってたんだよね」
「それがその子だっていうの? 無理無理。アイツはプライドの塊みたいな奴だぞ。誰かに救われるってガラじゃないだろ」松田が焼酎片手に首を左右に振る。
「だから、テツはそこまで言ってない。頭を振るな。余計酔っ払うぞ」公文が注意する。
「まあでも、変な話、その子のことが彼にとって何かのきっかけになってくれればいいんだけどね」そう言って、哲哉は焼酎を一口、グビっと飲んだ。
四.
生温かい風を感じる。ほぼほぼ夏の入口と言ってもいいこの時期では、夜中だというのに大して寒くもない。
太郎は公園に辿りついた。
酒も入っているせいか、奇妙な気分だった。あの少女、雨がいることを期待している自分がいる。否、彼女に会うためにあの席を抜けてきたのだ。
公園を見渡してみた。
いた。
ベンチの上に座っている人影。この時間、こんな場所にいるのは一人しかいない。
「雨」声を掛け、近寄る。
人影は徐々にその姿を見せてくる。間違いない。見覚えのある少女の姿だ。
雨は黒猫を抱きかかえていた。
「太郎。また来たの」少女の冷涼な声が公園に響いた。
「ああ。まあな」
そう言って、雨の隣に腰掛ける。
「今日はクロも一緒か」
「すっかり懐いてくれて、かわいいわ」
「餌付けされたんじゃないのか」
「そうでしょうね」少女の物言いは、あくまで冷然としている。
「でも、元々大人しくていい子よ」
そう言って、雨は太郎の前に猫を持ちあげた。抱いてみろ、という意味のようだ。太郎は猫を受け止めた。
確かに大人しい。柔らかく、暖かい感触。程よい重さ。クロはすりすりと太郎の胸に頭を擦りつけている。太郎はクロの頭を撫でた。
「ところで太郎」少し遠慮気味に雨は言った。「お酒臭い」
「飲み会があったんだよ」
「あら、しっかりそういうのには参加してるのね」
「気の置けない友達がいてね」太郎は穏やかに笑みを浮かべて答えた。
「うらやましいわね」雨はいつもよりつまらなそうな口調で、そう言ったものだった。
そろそろクロをどうしていいか分からず、とりあえず地面へと放した。
クロは一声、ナァ、と鳴いた。
「行って良いわよ、クロ」
雨が一言そう言うと、クロは最後に、ナァーン、と鳴き、その場をトテトテと離れていった。
闇に消えたクロを見送った後、太郎は雨に提案してみることにした。
「なあ、まだ帰らない?」
「別にどちらでもいいのだけど、どうして?」雨は冷ややかな瞳で太郎を見ている。
「コンビニで何か買って、川沿いの道でも歩かないか? 公園ばかりじゃ退屈だろ」
雨は暫く考えるような仕草をみせた。そして、太郎から顔をそらし、言った。
「いいわ。行きましょう。どうせ暇だもの」
二人は近くの川沿いの道を歩いていた。
夜の暗闇のせいか、川の向こう岸は見えず、永遠と広がっているように見える。
ザアッ、と一陣の風が吹く。草木が揺れ、川に水紋が起こる。
雨は綺麗な黒髪を整えながら、夜空を見上げる。
「良いわね。月が綺麗で」
よく晴れ、雲の掛かっていないその日の月は満月だった。
「静かで暗い川は、神秘と感じるか、不気味と感じるかだな」太郎が言う。
「神秘的、と取るべきじゃないかしら」
雨はどこか上機嫌なようである。太郎の前を足取り軽く歩いている。
酒のせいもあり、太郎の気分も高揚していた。落ち着けるように、ペットボトルのミネラルウォーターを飲む。冷たい心地良さが喉を通る感覚。
ふぅ、と一息吐いてから、改めて目の前を歩く少女を見る。
何とも言えない気分になった。雨からは不思議な縁を感じる。単なる素行不良の少女。実際に彼女を知らなければ、そんなよくいる存在の一人でしかなかったのだ。しかし、今こうして自分と彼女は毎晩顔を合わせ、彼女が決してつまらない存在ではないことを知ってしまっている。
深夜という魔力が、自分と雨を引き合わせた。雨はどう思っているかは分からない。だが、少なくとも太郎にとっては、もはや雨は他人ではないのだ。
「太郎」
呼ばれて、はっとする。
「深夜の散歩って、いいものね」
雨は太郎を向き、微笑んでいた。太郎の前で笑顔を見せたのは、初めてのことだった。
「ああ、そうだな」自然と、太郎の口角も上がる。
二人を見守る月は、とても高かった。




