一話
『雨が立っている』
一.
いや、あからさまに異常だろう。青年は思った。尤も、こんな時間に訳もなくフラついている、自分自身も例外ではないが。
よく見ると、少女の足元には傘が投げ出されたように、開いたまま置かれていた。彼女の視線は、どうやらその開かれた傘に注がれているようだった。
中に何かあるのだろうか?
興味本位、というわけではない。ナンパめいたことをしたいわけでもなかった。普段の自分ならば、何事もないように通り過ぎたはずだ。しかし、この日に限っては、まるで吸い寄せられるように少女の方へと歩いていった。
「何してるんだ?」
青年は少女に近づき、静かに尋ねる。
ひゅうと控えめな風が吹いた。落ちている傘が飛ばされていないか、一瞬気になったが、その心配はなかったようだ。
少女はちらりと青年を一瞥した。
見えた横顔はスッキリと整っており、青年に向けられた瞳は、どこか弱々しく、それでいて透き通るような冷たさを感じさせた。
「猫」ふいに少女が言う。「猫に傘をあげたのよ」
猫?
青年はしゃがみ、傘の下を覗いた。
確かに。そこには小さめの段ボールが置かれており、その中に黒い猫がいた。大きな双眼とバッチリ目があった。ナア、と猫が鳴く。
青年は立ち上がって少女に問いかけた。
「コイツ、腹は減ってないのかね?」
さりげなく、自分の傘を少女に差しだした。
少女は傘を受け取った。そのときに触れた彼女の手は、青年にはどこか冷たく感じた。
「そうね、何かあげたいけど」少女はコンビニの方角を向き、ゆっくりと言った。「私、お金持ってない」
青年は少女の身なりを見た。制服を着ているところをみると、中学生か、高校生といったところだった。
「じゃあ、何か買いに行くか?」青年はクイと親指で背後のコンビニを指し、提案した。
少女は訝しげに青年を見やる。
「優しい人なのかしらね? それとも下心でもあるのかしら? 太郎」
「太郎? そいつの名前?」
「ううん。あなたよ」
「はあ?」
青年は半笑いになる。久々のことだった。
コンビニは目と鼻の先だ。
二人は傘の領域を共有し、歩き始めた。
「っしゃいませー」
店員の声が響く。雨の日の深夜のコンビニ。店内はがらんとしていた。
青年は少女を見やることもなく、さっさと缶詰のコーナーへと向かっていった。猫が好みそうなものは何か。ついでに自分の分も買っていくか。そんなことを考えていた。
適当に缶詰をみつくろった。あとは自分達の飲み物と、傘をもう一本買おう。そう思い、少女に何の飲み物が良いか尋ねようと振り返った。
明るい蛍光灯のもと、少女を改めてみたときである。
ゾクり、と背筋に寒い悪寒が走った。
少女の身体つきは、標準よりも遥かに華奢だったのだ。半袖から見える腕、スカートから伸びる脚はとても細く、握れば砕けてしまいそうである。ぐっしょり濡れたブラウスの下に見える身体のラインも、か弱く映る。
こんなにガリガリな身体して、ちゃんとメシ喰ってるのかコイツは。
青年は驚き、一瞬硬直した。
「どうしたの?」少女は小首を傾げている。
「いや……飲み物、何がいい?」取り繕うように、青年は言った。
「ありがとう。ミルクティーがいいわ」
「わかった」
こんなに不健康な少女が、深夜に外を出歩いているということ。深く考えたら負けだ。青年は心を落ち着かせた。壊れてしまっているのは、お互いさまだった。
「ありっとーざいっしたー」
会計を済ませて、外に出る。新しく買ったビニール傘を少女に渡した。少女は、ありがとう、と小さく言い、傘を受け取った。
先程の公園に、二人並んで歩きだす。
「お前、誰なんだ?」今更ながら、青年は少女に問いかけた。
「『人に名前を尋ねるときは』っていうのが決まり文句かしら」
「俺? 通りすがりの太郎でいいだろ」
「そう」少女はにこりともせずに言う。「私は雨」
「雨?」『太郎』となることとなった青年は、意味が分からず反復した。
「名前。雨っていうの」
「……風情のある名前だな」
「私が生まれたとき、丁度こんな天気だったらしいわ」
「それで、雨。なるほどねぇ」太郎は頷いた。
それ以上のことは尋ねなかった。まだ稚い少女が、夜中にどうしてほっつき歩いてるのか、気にはなった。しかし、それが悪いことだとは太郎は思わない。
自分だってそうなのだから、思春期の少女にだって、夜中に出歩きたいときくらいあるだろう。
今、自分と少女とは、不可思議な成り行きという、か細いラインで奇跡的に繋がっているのだ。細かい事情など、野暮ったいことは気にしたくはなかった。
その後は何を話すでもなく。二人は公園へと辿りついた。
傘の下の猫に餌をやったのち、二人はドリンクを飲むことにした。
「この子、捨て猫よね?」雨が尋ねる。
「段ボールに入ってるし、まぁ、そうなんじゃないか」
「拾って帰ろうかしら」
この黒猫に対して同情をしているような発言に思えた。しかし、彼女の持つ、稚さに不釣り合いなガラスのように透明で冷たい態度から、その言葉がどれだけ本気なのか、太郎にはつかみかねていた。
「ま、好きにしなよ」
太郎はそう言って、ドリンクを一気に飲みほす。
「じゃあ、俺はもう行くから」
公園にゴミ箱がなかったため、空きペットボトルを片手に持って帰るはめになった。
「そう。今日はありがとう」太郎の交わした挨拶に、本当に最後まで笑顔を見せることなく、雨は淡白に返した。
「さよなら」
「ああ、おやすみ。じゃあな」
不思議な出会いだった。太郎はくるりと踵を返し、今日はもう帰ることにした。
時間は一時半過ぎ、僅か二十分ほどの、奇妙な体験だった。
明後日は確か、小学校以来の友人とオールで酒を飲み交わす約束だった。丁度いい酒の肴ができた。
そう考えながら、また明日を迎えなければならない憂鬱を、重く泥沼に沈みこむような気持ちをごまかす。
雨が降りしきる中、太郎は帰路についた。
二.
もっとまっとうな人間でいたい。
明るく、陽のあたった人生を歩いていたい。
なにも気にすることもなく、ただひたすら真っ直ぐでいたい。
内に潜む、どんな心の怪物にも負けないでいたい。
自由でいたい。
いたい、いたい、いたい。
痛い。
痛い。
痛い。
アレが来た。太郎は直感的に理解した。
身体が一気に極度の緊張感に包まれる。
せり上がる不快感。
逃れる術のない緊縛。
硬直した筋肉は、太郎に絶望的な精神的苦痛を与える。
汗だくになり、思い切り歯ぎしりをした。
上手く呼吸が出来ない。息苦しさが、ますます太郎を責めたてる。
どのくらいだろうか。苦痛はとてつもなく長く感じられた。
ゆっくりと、緊張は和らいでいった。
やがて悪夢は去った。
「ぐ…っ!」
そのタイミングで、思い切り掛け布団を蹴り飛ばし、起きあがる。ぜいぜいと息を切らし、頭を抱えた。呼吸を整えたのち、バタンと布団に倒れ込んだ。
はぁ、と大きなため息を一つ吐く。
「堪えるな……」一人ごちる。
最近、強い不快感を伴う金縛りが、彼を襲うことが多くなった。
この症状が出始めたのは、彼が人生に投げやりになったときである。何をやっても真剣になれない。そんな自分に気が付き、嫌悪し始めたときのことだった。
太郎は枕元の目覚まし時計を手に持ち、時間を確認した。時刻は既に十四時を回っていた。太郎が眠りについたのは朝の六時だったので、八時間ほど寝たという計算になる。
そこまで考えて、太郎はこの日の深夜の奇妙な出会いについて思い出した。雨という名の特徴的な少女と出会った。
全く、不思議な体験だった。
考えてみれば、深夜にあのような少女に近づいて話しかけるなど、普段の自分なら絶対にしないような大胆な行為だ。まるっきり不審者のようである。
さらに驚くべきは、あの少女である。突然、見知らぬ男に話しかけられたというのに、全く動じることもなく、堂々とタメ口、しかも涼しげな声色で対応してきたではないか。その胆力には、今更ながら恐れ入ったものである。
深夜の魔力とはかくも恐ろしい。
太郎は外に出かけ、コンビニで昼食を買うことにした。外はすっかりと晴上がっており、この日の天気予報でも一日中晴れとのことである。
外から湿気の匂いを感じない。ほのかな夏の香り、少し暑いくらいな気温は、本格的な夏が近づいていることを告げていた。
太郎に予定は何もない。せいぜい明日、飲み会があるくらいである。コンビニ弁当をたいらげた太郎は、適当に外をフラつくことにした。
最寄駅を出て、少し大きめな駅まで移動した。何の気なしのことだ。例の如く、目的などない。太郎が住むアパートの近辺は、大した賑わいはないため、時間を潰すには退屈すぎる。
駅を出ると、直ぐ右手側に映画館がある。入口にある上映スケジュールを眺めていると、丁度いいタイミングで上映される映画を見つけた。『雨が立っていた』という怪奇なタイトルである。
雨。
深夜に出会った少女の顔が頭をよぎった。
太郎は映画館に入った。レギュラーサイズのコーラを買い、『雨が立っていた』とやらを鑑賞することにした。
大雨によって、ある洋館に閉じ込められた数名の男女。登場人物達は一人一人、雨の化け物に飲み込まれ、窒息死させられていく。化け物の仕業と知らない彼らは、疑心暗鬼に陥り、揉め事を起こしていく。最後に残った主人公が、雨の化け物が立っているシーンを目の当たりにし、その物語は幕を閉じた。
典型的な、ホラー、スリラーだった。なかなかの緊張感は楽しめたものの、少し物足りなさがあった。ゾンビ物の映画だったら、太郎の好物ではあったのだが。
時刻は五時半を過ぎていた。
今晩は適当なものでも自炊しよう。そう思い立ち、太郎は帰り道でスーパーに寄った。
夜九時に食べた夕飯は、ミートソーススパゲッティーだった。
気が付けば外を歩いていた。両手をポケットに突っ込み、ただ当てもなくフラフラしている。どうしても眠れないのだ。眠るのが恐ろしい。明日を迎えるのが億劫だ。
目の前の現実から逃げるように、太郎は深夜の散歩に出かけた。
腐ってるな。自分でそう思う。
そんな自分が許せないながらも、どうすることも出来ない。こうして寝るのを先延ばしにし、結局明日、起きるのは昼だ。昼夜逆転の生活を送るだけならまだしも、自分には何もない。
大切なものは、何もないのだ。
今、自分はどんな表情をしているのだろう。あの少女のように、硬く凍りついた顔と、冷たい目をしているのではないだろうか。
昨日の少女……。ふと思った。
昨日の少女、雨はどうしたのだろう。あの猫は。珍しく好奇心が湧く。
ポケットから左手を出し、腕時計を確認する。時刻は一時を回っている。丁度昨日と同じ時間である。
行ってみるか。
珍しく、夜の散歩に目的が出来た。
公園へと辿りついた。少し街灯と離れており、薄暗くて見えにくいが、間違いなく少女がブランコに乗っている。
太郎はブランコの正面へと近づいた。
下を向いていた少女の顔が、ゆっくりとこちらに向いた。
「太郎?」抑揚のない、たったの三文字である。
「ああ」こちらも短く返事をした。
「またこんな時間にフラフラしてるなんて、よっぽどの暇人なのね、あなた」
「お互い様だ」
そう言って、隣のブランコに腰を下ろす。ぶらぶらと漕ぎながら、太郎は雨に話しかけた。
「結局、昨日の猫はどうしたんだ?」
「拾わなかったわ」雨は即答した。「やっぱり、私には責任が重すぎる」
「そっか……」特に非難するでもなく、太郎は言った。「それで、猫は今どこにいるんだよ?」
見渡す限り、昨日の場所には段ボールが存在しなかった。
「今日の昼、見に来てみたら、まだ段ボールに入ってたから、出してあげたわ」
「段ボールは卒業か」
「三十分くらい前にここに戻ってきたら、あの子、出てきたの」変わらず、抑揚のない声で雨は語る。「だから、餌あげて、さっきまで一緒に遊んでたわ」
「ふーん。来るのがちょっと遅かったな」
太郎は自分の発言に、少しばかり驚いていた。この少女と猫に対し、思い切り興味を持ってしまっているではないか。
「それで」誤魔化すように太郎は言う。「猫の名前、決めた?」
「『ジロー』がいいかと思って」
太郎はズルリとこけそうになる。
「相変わらずのネーミングセンスだな、おい。ラーメン屋みたいだから止めとけよ」
「ラーメン屋?」雨は首を傾げたようだ。
「普通に『クロ』とかでいいじゃんかよ」
「……良い名前ね」
この少女と会話をしていると、どこか調子が狂う。しかしながら、どこかそれを楽しんでいる自分がいることに、太郎は気が付いていた。
「太郎は」珍しく、少し遠慮しがちに雨は尋ねてきた。「何してる人なの?」
「大学三年生」太郎は躊躇いなく答えた。「けど今は何もしてない。大学行かずに二年留年してるし、バイトもしてない」
いつからだったろうか、もう何年も自分を見失っている気がする。結果、こうして二年も留年し、無駄な時間を過ごす羽目になっている。しかし、太郎にはどうしようもなかった。
実家にいる両親は、そんな太郎を心配し、いつ卒業するんだと、しょっちゅう電話をよこしたりしながらも、ありがたいことに授業料の振り込みと生活費の仕送りをしているものだった。
「で、雨は中学? 高校?」
「高校三年」やや間を空けて、雨は答えた。「でも、私も何もしてない。不登校なの」
「俺は一人暮らしだけどよ、そっちは両親とかいるんじゃないの?」太郎は踏み込んで尋ねてみた。
「母はいないわ。アメリカにいるの」雨は俯き、答えた。「父は仕事で、ほとんど家には帰らないわ」
「なるほどね。じゃあ、問題にはならねえな」
そう言って、太郎は勢いをつけて立ちあがった。
「コンビニ行こうぜ。何か飲み物、奢るよ」
「そう。ありがとう」雨は無表情のまま礼を言った。
二人は深夜のコンビニへと歩いていった。
三十分ほどだろうか。コンビニの前で、二人は他愛のない話をした。太郎は昼に観た映画のこと。雨は最近観たテレビの話だ。
時間はゆっくりと、過ぎ去っていった。
この少女との時間が、互いの人生を変えていくことになるとは、このとき太郎は思ってもみなかった。