王国史上最大の戦い
1.王国史上最強
王国は、滅亡の危機に瀕していた。
北方より押し寄せる魔王軍。その数、およそ十万。国境の要塞は次々と陥落し、王国騎士団はすでに兵力の半数を失っていた。王都まで、あと三日。
追い詰められた国王は、建国以来の禁術とされていた異世界召喚を決断した。
王宮の地下神殿に集められた百人の宮廷魔術師たちが、三日三晩にわたって魔法陣へ魔素を注ぎ続ける。そして、ついに召喚は成功した。
まばゆい光の中から現れたのは、見慣れぬ衣服を着た二人の少年少女だった。
勇者ハルトと聖女ミオ。どこにでもいる、ごく普通の高校生である。
しかし、二人の能力を測定した宮廷魔術師長は、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「馬鹿な! 歴代勇者の百倍……いや、千倍以上の魔素制御能力だと!?」
測定器の針は目盛りの上限を振り切り、魔術師長の手元で砕け散った。
誰もが言葉を失った。
王国の歴史において、これほどの能力を持つ者が現れたことはなかった。
勇者ハルトは、山をも砕く極大魔法を自在に操った。聖女ミオは、王都全体を覆うほどの巨大な防護結界を展開できた。
しかも、その魔法は驚くほど安定していた。
通常、これほどの大魔法を発動するには、数百人の魔術師が精密に魔素体を同期させる必要がある。それを二人は、まるで呼吸をするように行ってしまうのだ。
王国の命運は、この二人に託された。
*
魔王軍が王都へ到達した日。
城壁を埋め尽くす騎士たちの眼前で、史上空前の魔法が発動した。
聖女ミオの防護結界が、王都を丸ごと包み込む。数万の魔物が放った攻撃魔法は、結界に触れた瞬間、ことごとく霧散した。
続いて、勇者ハルトが右手を掲げた。
王都の上空に巨大な光輪が出現する。直径数千メートルにも及ぶ光輪は、ゆっくりと回転を始めた。
その中心から放たれた一条の光が、魔王軍の陣営へと降り注ぐ。
大地が震えた。
光が収まったとき、王都を包囲していた魔王軍は跡形もなく消滅していた。
「なんという魔法だ!」
「これほどの規模など、王国の歴史上一度もありません!」
王宮の塔から戦場を見守っていた宮廷魔術師たちは、驚愕の声を上げた。
王国史上最大の魔王侵攻は、王国史上最強の勇者と聖女によって、わずか一日で退けられたのである。
人々は歓喜した。
国王は感涙にむせび、貴族たちは二人を讃え、王都の鐘という鐘が一斉に打ち鳴らされた。
王宮では盛大な祝宴が開かれた。勇者と聖女の周りには人々が集まり、二人の偉業を口々に讃えた。ハルトもミオも、初めて経験するほどの喝采にすっかり舞い上がっていた。
「王国史上最強の魔法」「歴代最強の勇者と聖女」。そんな言葉を何度も聞かされれば、少しくらい得意になってしまうのも無理はない。
「ハルト、王国史上最強らしいよ!」
「ヤバいなオレたち!」
2.王国史上最大
それから三週間が過ぎた。
王都には平和が戻っていた。戦勝を祝う宴は連日のように開かれ、勇者と聖女の武勇伝は、早くも吟遊詩人たちによって歌われていた。
二人の名声は、王国の隅々にまで知れ渡った。
そんなある日のこと。
王宮の清掃係が、奇妙なものを発見した。
玉座の間の壁に、白いカビが生えていたのである。
魔素食い菌。
魔素を栄養として利用する、ごくありふれた菌類だった。魔法設備の周囲にはときおり発生するため、特に珍しいものではない。
清掃係は、いつものようにカビを拭き取った。
ところが翌日、また生えていた。それも、昨日よりずっと広い範囲に。さらに翌日には、壁の半分が真っ白になっていた。
異変は王宮だけではなかった。
王都のあちこちで、魔素食い菌が爆発的に増殖し始めていたのである。
街路樹の幹が白くなる。石畳の隙間からキノコが生える。民家の壁には綿毛のような菌糸が広がり、屋根瓦の上にも白いカビがびっしりと付着した。
城壁に至っては、遠くから見ると雪が積もったかのようだった。
王都は、日に日に白くなっていった。
*
異常事態を受けて、王立菌類研究所が緊急調査を開始した。
研究者たちは王都の各所から試料を採取し、魔素食い菌の繁殖量を測定した。
そして、その結果を見た研究所長は、椅子から転げ落ちそうになった。
「馬鹿な! 普段の魔素カビの百倍……いや、千倍以上だと!?」
誰もが言葉を失った。
王都を丸ごと覆う真っ白な魔素カビ。城壁も、屋根も、街路樹も、見渡す限りの菌糸とキノコ。
「なんというカビの量だ!」
「これほどの規模など、王国の歴史上一度もありません!」
原因は、ほどなく判明した。
三週間前、勇者ハルトと聖女ミオが発動した、史上空前の大魔法である。
極大魔法の発動に際して、二人は王都周辺の広大な範囲から大量の魔素を集積し、制御していた。その魔法の終了後、一部の魔素は活性を保ったまま環境中に残留していた。
その量が、桁違いだったのである。
通常の魔法であれば、残留する魔素はごくわずかであり、自然に拡散・失活するため、大きな問題にはならない。
ところが、今回の魔法は規模が違った。
魔素食い菌は王都の土壌や建物の隅々に、もともと存在していた。そこへ、かつてない量の栄養が供給されたのだ。
餌が増えれば、菌は増える。
ただ、それだけのことだった。
報告を受けた王宮では、ただちに対策会議が開かれた。
勇者ハルトは、王都全体に浄化魔法をかけることを申し出た。彼ほどの能力があれば、王都を覆うカビを一瞬で消し去ることも難しくない。
しかし、この提案は王立菌類研究所の研究者たちによって、強く制止された。
問題は、魔法の発動に伴う残留魔素だった。
カビを一掃すること自体は可能でも、王都全域を浄化するほどの大魔法を使えば、新たに大量の魔素が環境中へ残される。せっかくカビを除去しても、また繁殖を助長することになりかねない。
必要なのは、残留魔素が減少するまでの地道な防除と環境管理だった。
王国には古くから魔素食い菌の防除技術があった。魔法設備の周辺では、魔素供給量の調整や定期的な清掃によって、その繁殖を抑えてきたのである。
ただし、これほど広い範囲に菌が繁殖した前例はない。清掃に必要な人員も資材も、通常の規模では到底足りなかった。
こうして王都では、建国以来最大規模の清掃事業が始まることになった。
*
王国騎士団が総出で城壁を洗い、市民たちが建物を清掃し、研究者たちは菌類の発生状況を記録して回る。
かつて魔王軍を前にしても一歩も退かなかった歴戦の騎士たちが、今では白いカビを相手に、黙々とブラシを動かしていた。
勇者と聖女も、もちろん参加した。
魔法の使用を控えるよう厳重に申し渡されたため、二人に与えられたのは大量の雑巾とブラシだった。
勇者ハルトは、壁をこすってみた。
なかなか落ちない。
もう少し力を込めると、今度は壁の表面が削れてしまった。どうやら力任せにこすればよいというものでもないらしい。
聖女ミオは、王宮の侍女から洗浄液の使い方を教わっていた。
二人とも、魔法ならば一瞬で終わる作業に、思いのほか苦戦していた。
しかも、王都は広い。
大勢で一日中作業をしても、綺麗になるのはほんの一角である。
ハルトは城壁の上から、真っ白になった王都を見渡した。
ほんの三週間前、王国中から感謝され、英雄と讃えられたばかりである。
まさか自分たちの魔法が、こんな結果を引き起こすとは。
「ハルト、王国史上最大らしいよ…」
「ヤバいなオレたち…」
3.王国史上最悪
王都の大清掃が始まって、五日目の朝。
勇者ハルトは、王宮の廊下でブラシを動かしていた。
最初のうちは、魔王軍を壊滅させた自分が壁のカビをこすっているという状況に、どうにも納得がいかなかった。しかし、五日も続ければ人間は慣れるものである。
今では、カビを効率よく落とすコツも、だいぶ掴めてきた。
力任せにこするより、あらかじめ洗浄液を十分に染み込ませた方がよい。古い石壁には凹凸が多いため、ブラシの角度にも工夫が必要だった。
隣では聖女ミオが、雑巾を片手に窓枠を磨いていた。こちらもなかなかの手際である。王宮の侍女たちに教わったおかげで、今ではハルトよりずっと綺麗に仕上げられるようになっていた。
二人は、ようやく自分たちの新しい仕事に慣れ始めていた。
そんなとき、ハルトは首筋に妙なかゆみを感じた。
虫にでも刺されたらしい。大して気にも留めず、作業を続けた。
ところが昼頃になると、今度は腕がかゆくなった。さらに背中もむずむずし始めた。
見れば、隣のミオもしきりに首筋を気にしている。周囲の騎士や清掃係たちも、何やら落ち着かない様子だった。
その日の夕方には、王宮中のあちこちで、かゆみを訴える声が上がっていた。
*
翌朝、事態はさらに悪化していた。
王宮の使用人たちの多くが、身体のあちこちに赤い発疹を作っていた。そればかりではない。王都の診療所という診療所が、かゆみを訴える人々であふれ返っていたのである。
最初は、清掃作業で何か刺激の強いものに触れたのではないかと疑われた。しかし、清掃に参加していない市民にも同じ症状が出ていた。
騎士団では、訓練中に背中を掻くため剣を取り落とす者まで現れ、宮廷魔術師たちは呪文の詠唱中に首筋を気にして集中を乱した。ついには国王までもが、玉座の背もたれに背中を擦りつけ始めた。
王都の人々は恐怖した。
魔王軍の残党による呪いではないか。未知の疫病が流行しているのではないか。あるいは、魔王が滅びる間際に放った最後の攻撃なのではないか。
王宮は再び非常事態を宣言した。
聖女ミオは、ただちに治癒魔法による救済を申し出た。彼女の広域治癒魔法ならば、王都中の人々の発疹やかゆみを、一度に治すことも可能だった。
しかし、王宮医師団はその実施を見合わせた。
虫刺されそのものを治療しても、原因が残っていれば患者は何度でも刺される。しかも、王都全域を対象とする大規模な治癒魔法は、再び大量の残留魔素を生み出しかねない。
魔素食い菌の繁殖を抑えるために清掃を始めたばかりの今、それは避けるべきだった。
聖女は、重症患者だけを個別に治療することになった。
一方、王立生物研究所では、原因の調査が進められていた。
研究者たちは患者の衣服や寝具を調べ、床や壁の隙間から大量の微小な虫を採取した。
それは、魔素カビダニと呼ばれる、ごくありふれた小動物だった。
魔素食い菌を主な餌として生活する、体長一ミリほどの赤褐色のダニである。
通常はカビの生えた場所に少数が生息しており、人間に大した害を与えることはない。しかし、個体数が増えすぎると、餌場から周囲へと広がり、人間の皮膚を偶発的に刺すこともある。
研究者たちは急いで王都全域の発生状況を調査した。
王宮、兵舎、民家、商店、宿屋、診療所。王都のあらゆる場所から採取された試料が、研究所へと運び込まれた。
そして、ついに集計結果が明らかになった。
「馬鹿な! 普段の魔素カビダニの千倍……いや、一万倍以上だと!?」
王宮衛生局長が、測定結果を握りしめたまま立ち尽くした。
誰もが言葉を失った。
王都の全市民を襲う、無数の小さなダニ。王都は今、かつて経験したことのない規模の虫刺され被害に見舞われていた。
「なんというダニの量だ!」
「これほどの規模など、王国の歴史上一度もありません!」
原因は、明白だった。
勇者と聖女の規格外の魔法によって、王都周辺には規格外の量の魔素が残留した。
その魔素を餌に、魔素食い菌が規格外の大繁殖を遂げた。
そして今度は、その魔素食い菌を餌に、魔素カビダニが規格外の大繁殖を遂げたのである。
魔素食い菌の繁殖が始まってから、ダニの個体数が増加するまでには時間差があった。そのため、カビの清掃に取り掛かり、作業にもようやく慣れ始めた頃になって、ダニによる被害が一気に表面化したのだった。
王国史上最大の魔王侵攻。
王国史上最強の勇者と聖女。
王国史上最大の魔素カビ騒動。
そして、王国史上最悪の虫刺され被害。
すべてが、一本の因果関係で結ばれていた。
*
王宮では、再び緊急対策会議が開かれた。
専門家たちは、これ以上の広域魔法の使用を避けるよう、改めて強く要請した。
魔法でダニを一掃することはできる。治癒魔法で市民のかゆみを治すこともできる。
しかし、そのために大量の魔素を残してしまえば、魔素食い菌の繁殖を再び促し、やがてダニの再発生を招くおそれがあった。
必要なのは、増えすぎたダニの駆除と、菌類の繁殖環境を改善するための清掃作業だった。
つまり、王都の大清掃は予定通り続行されることになった。
ただし、今度は全員が身体を掻きながら。
害虫の存在が確認されたことで、清掃作業の手順は見直された。作業前に防虫用の衣服を着用し、菌糸を不用意に飛散させないよう、洗浄液で十分に湿らせてから取り除く。取り外せる布製品は別の場所へ運び、まとめて処理する。
しかし、王都全体を覆う菌類とダニを相手に、十分な防護用品をすぐに揃えることなどできなかった。すでに刺された箇所のかゆみも、そう簡単には収まらない。
王都の大清掃は、当初の予定より大幅に遅れることになった。
*
その日も、勇者ハルトは王宮の廊下で壁を磨いていた。
右手にはブラシ。左手には雑巾。
首筋には赤い発疹がいくつもできていた。背中がかゆい。腕もかゆい。さっきから足首もむずむずしている。
隣では聖女ミオが、時折手を止めて首筋を掻きながら、黙々と窓枠を拭いていた。
二人のすぐそばでは、王国騎士団長がブラシを片手に背中を掻いている。王国最強の剣士と呼ばれる男である。
少し離れたところでは、宮廷魔術師長が床に膝をつき、絨毯を磨いていた。あの日、勇者と聖女の規格外の魔法に驚愕した、あの魔術師長である。
窓の外では、王国騎士団の兵士たちが城壁を洗っている。大通りでは、市民たちが建物の壁をこすっている。
見渡す限り、王都中が清掃作業に追われていた。
そして、誰も彼もが身体を掻いていた。
ほんの一か月前。
自分たちは、この王国を滅亡の危機から救った。魔王軍十万を一撃で消滅させ、数え切れないほどの人々の命を守った。
あのとき、王国中の人々が自分たちを讃えてくれた。
王国史上最強の勇者と聖女。歴代の英雄たちをはるかに凌ぐ、規格外の魔法能力。
あの魔法で、どれほど多くの人々が救われただろう。
そして、あの魔法で、どれほど多くのカビが生えただろう。
そして、そのカビを食べて、どれほど多くのダニが増えただろう。
ハルトは、目の前の白い壁を見つめた。
一見すると、ただの白いカビだった。
しかし、よく目を凝らすと、無数の赤褐色の点が見える。
それらはゆっくりと動き、集まり、離れ、菌糸の間を絶え間なく這い回っていた。
壁一面が、細かく蠢いている。
これを、今からこすらなければならない。
背中がかゆい。首もかゆい。
今すぐ浄化魔法ですべてを消し去りたい。聖女の治癒魔法で、かゆみを止めてもらいたい。
しかし、それは許されなかった。
王国史上最強の勇者と聖女は、王国史上最悪の虫刺され騒動を前にして、全身をボリボリと掻きながら、ただひたすら白いカビをこするしかなかった。
ミオは雑巾を握ったまま、壁一面に蠢く赤褐色の点を見つめていた。
ハルトもブラシを持つ手を止めた。
「…ハルト…王国史上最悪らしいよ…」
「…ヤバいなオレたち……」




