「汚い金は要らない!クリーンな国を作る!」と婚約破棄されましたが、それは国を守る『必要経費(みかじめ料)』です
※経済的に追い詰めるざまぁです。
王宮の北棟、古びた時計塔が午前二時の鐘を重苦しく鳴らした。
草木も眠る丑三つ時。冷え切った石造りの財務局、その最奥にある執務室だけが、今も蝋燭の灯りに照らされている。
「……今月の『対外折衝費』、海賊討伐の成功報酬分が嵩んでいるわね。北部の鉱山利権、第三採掘区の権利書を担保に回すしかないか」
私、公爵令嬢コレット・シェリングは、乾いた音を立てて羽ペンを走らせていた。
目の下には化粧でも隠しきれない隈があり、指先には洗っても落ちないインクの染みが黒々と残っている。かつては社交界の華と呼ばれかけた蜂蜜色の髪も、今は無造作に束ねられ、後れ毛が疲れ切った頬にかかっていた。
私の目の前にあるのは、この国の表の帳簿ではない。
黒い革表紙で厳重に綴じられた、決して王族の目に触れさせてはならない『裏帳簿』だ。
この国、レイランド王国は、表面上は平和で豊かな農業国として知られている。
だが、その実態は薄氷の上にある。
東には覇権を狙う軍事帝国、南の海には凶悪な武装海賊、そして大陸全土に根を張り巡らせた巨大な闇経済圏。軍事力に乏しい我が国が、これらと渡り合い、独立を維持できている理由。
それは、私が今まさに計算し、捻出している「裏金」――いわゆる、闇社会へのみかじめ料と調整金のおかげだった。
「ふぅ……。なんとか、計算が合った」
あくびを噛み殺し、最後の署名を書き終えたその時だった。
カツ、と。
窓枠を硬い革靴で叩く音が響いた。ここは王宮の三階だというのに。
「相変わらず、働き者だな。コレット」
開け放たれたバルコニーの窓から、夜風と共に影が入り込んでくる。
月明かりを背負って現れたのは、闇夜をそのまま切り取ったような黒いロングコートを纏う男。
夜空を吸い込んだような黒髪に、獲物を品定めする肉食獣のような、鋭くも美しい紫紺の瞳。
この大陸の裏社会を牛耳る巨大組織『ヴィクトル商会』の総帥、ヴィクトル・ヴァレンタイン公爵その人だった。
私は驚きもせず、ただ重いため息をついた。
「……ヴィクトル公爵。正面玄関から入るという常識は、あなたの辞書にはないのですか?」
「王宮の警備がザルすぎてな。正面から入ると、お前に会う前に国王の寝室まで行ってしまいそうだ」
彼は悪びれもせず、私の執務机の端に腰掛けた。
不敬極まりない態度だが、彼にはそれだけの力がある。彼の一声で物流が止まれば、この国は三日で干上がるのだから。
「それで? 今月の返済は滞りなく行われるのか?」
ヴィクトルが私の手元にある裏帳簿を覗き込む。顔が近い。高級な煙草と、夜露の冷たい匂いが鼻をかすめる。
「ええ、ご心配なく。今朝方、架空のペーパーカンパニーを経由で、あなたの指定口座に送金済みです。金額は、先月の海賊撃退および不可侵条約の維持費を含めた額と一致しているはずですが」
私は淡々と書類を彼に突きつけた。
ヴィクトルは書類に目を通すと、満足げに口笛を吹いた。
「完璧だ。一ゴルドラの誤差もない。……さすがだな、コレット。腐りきった王宮の予算から、よくこれだけの額を捻出できるものだ」
「私の私財と、睡眠時間を削っていますから」
「そのようだな。また痩せたんじゃないか?」
ヴィクトルが不意に手を伸ばし、私の手首を掴んだ。
ひやりとした指の感触に、心臓がとくんと跳ねる。敵対する組織の長と、その交渉担当官。本来なら殺し合ってもおかしくない間柄なのに、ここ数年、私たちが共有している時間は、婚約者である王太子殿下よりも遥かに長くて濃密だった。
「……余計なお世話です。用が済んだなら帰ってください。明日は朝から、エリアス殿下との朝食会なのです」
私が手を振り払うと、ヴィクトルは目を細め、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ああ、あの光の王子様か。最近、声高に改革を叫んでいるそうじゃないか。『悪を許さないクリーンな国を作る』だったか?」
「……殿下は、純粋な方なのです。国を良くしたいという思いに嘘はありません」
「純粋、ね。無知の間違いだろう」
ヴィクトルは窓枠に足をかけ、去り際に冷ややかな忠告を残した。
「気をつけろよ、コレット。純粋な正義感ほど、始末に負えない凶器はない。……お前が泥をかぶって守っているその価値が、あの子供に理解できるとは思えんがな」
黒いコートを翻し、彼は夜の闇へと溶けていった。
部屋に残されたのは、静寂と、彼が置いていった微かな残り香だけ。
私は万年筆を強く握りしめた。
わかっている。そんなことは、私が一番わかっている。
けれど、私は公爵令嬢として、次期王妃として、この国を守る義務がある。たとえ誰に理解されなくとも、この汚れ仕事こそが私の誇りなのだから。
だが、その誇りが無残に踏みにじられる時がすぐそこまで迫っていることを、私はまだ知らなかった。
翌朝。
王宮のダイニングルームは、残酷なほど眩しい朝日に満ちていた。
白磁の食器、磨き上げられた銀のカトラリー、そして花瓶に生けられた大輪の百合。
そのすべてが、昨晩の薄暗い執務室とは対照的に輝いている。
「おはよう、コレット。……また随分と顔色が悪いね」
テーブルの向かいに座る婚約者、王太子エリアス殿下が、困ったような顔で眉を下げた。
黄金の髪に、空の色を映したような碧眼。物語に出てくる王子様そのものの美貌は、見る人の心を洗うような「正しさ」に満ちている。
「申し訳ありません、殿下。少し、決算の処理が立て込んでおりまして」
「財務の仕事か。君は真面目すぎるよ。もっと下の者に任せればよかったのに……」
エリアスは焼きたてのクロワッサンをちぎりながら、普段の無邪気とは違う、少し沈痛な面持ちで言った。
下の者に任せられるような綺麗な金の計算なら、とっくに任せている。私が処理しているのは、誰の目にも触れさせてはいけない、国の恥部なのだ。
それを説明することはできない。私は曖昧に微笑んで紅茶に口をつける。
しかし、エリアスの神妙な態度に嫌な予感がしていた。
「……コレット。今日は君に、紹介したい人がいるんだ」
エリアスの合図で、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、見慣れない二人組だった。
一人は、銀縁眼鏡をかけた神経質そうな初老の男性。もう一人は、騎士団の制服に身を包んだ、燃えるような赤髪の若者。
「彼らは、僕が新しく組織した『王政改革チーム』のメンバーだ。経済学者のクラーク博士と、若手騎士のレオン君」
背筋から冷や汗が流れる。
清廉潔白だが実務経験のない学者と、盲目に正義を信じる騎士。
彼らを連れたきたということは、つまり、つまり──。
「コレット。……単刀直入に言おう」
エリアスの声から、先ほどまでの柔らかさが消える。そこにあるのは、氷のような潔癖さと、揺るぎない断罪の響き。
「財務局の内部調査により、君が長年にわたり、国家予算の一部を不正に流用していた証拠が見つかった」
クラーク博士という男が、うやうやしく一束の書類をテーブルに置いた。
それは、私が管理していた『裏帳簿』の写しだった。
「……殿下。これは流用ではありません」
私は努めて冷静さを保ちながら、静かに反論を開始した。
「これは『特別外交機密費』です。我が国の物流を支えるヴィクトル商会に対し、通行税および治安維持協力費として支払っている正当な対価です」
「犯罪組織に金を払うことが、正当だと?」
エリアスが語気を強めた。
「ヴィクトル商会は、大陸の闇市場を牛耳る犯罪集団だ。彼らに金を渡すことは、彼らの悪事を助長することに他ならない! 君は、この神聖なレイランド王国の国庫を使って、悪党を養っていたんだ!」
「彼らを養わなければ、食い物にされるのは我が国なのです!」
私は思わず声を荒らげた。
「殿下、現実を見てください。我が国の騎士団の規模では、国境沿いの海賊や野盗を抑えきれません。ヴィクトル商会に金を払い、『彼らの縄張り』としてもらうことで、我々は他国の侵略や略奪から守られているのです。これは、平和を買うための必要経費なのです!」
私の必死の訴えは、しかし、彼らの「正義」の前には無力だった。
騎士のレオンが、侮蔑の眼差しで私を睨みつけた。
「コレット嬢。それは敗北主義者の論理だ。我々騎士団は、金で平和を買うような真似はしない。悪は討つ。それが騎士の誇りだ」
「誇りで民の腹は満たせません!」
「いい加減にしたまえ、コレット!」
エリアスがテーブルを叩き、立ち上がった。花瓶の水が揺れ、百合の花びらが一枚、無残に落ちる。
「君はずっとそうだった。数字、計算、利益、損失……。君の目には『心』がない。国の誇りや正義よりも、保身と癒着を優先する君の姿勢には、もう我慢ならないんだ」
彼は私を、まるで汚いものでも見るような目で見下ろした。
かつて、その瞳に愛が宿っていたことなど、嘘だったかのように。
「コレット・シェリング。君を財務補佐官の任から解き、婚約も白紙に戻す。そして……」
彼は残酷な宣告を続けた。
「君が築き上げたヴィクトル商会とのパイプは、全て破棄する。我々は今日から、闇組織への送金を凍結し、武力による完全な治安回復を目指す。これが、新しい時代の幕開けだ」
──ああ、終わった。
私は直感した。私の人生が終わったのではない。この国が、終わったのだ。
私が泥水をすするようにして積み上げてきた信用という名の堤防を、彼らは「汚いから」という理由で破壊しようとしている。その向こうに、巨大な津波が待ち構えているとも知らずに。
「……」
私は閉口して席を立った。これ以上、何を言っても無駄だ。彼らは正解を知っているつもりになっている。間違った公式で破滅への答えを導き出そうとしていることに気づくのは、全てが手遅れになった後だというのに。
「私は、城を出ます。……あなた方の『正義』で、どうやってあの怪物と渡り合うのか、遠くから拝見させていただきます」
私は一度も振り返らず、光あふれるダイニングルームを後にした。
背中で聞こえる、「これでやっとクリーンな政治ができる」という彼らの安堵の声が、私には国への弔鐘のように聞こえてならなかった。
王宮の重厚な鉄扉が、私の背後で鈍い音を立てて閉ざされた。
その瞬間、堪えていた空が涙を流すように、冷たい雨が降り出した。
傘はない。持っていくことを許されたのは、身に着けていたドレスと、わずかな私物だけ。
──これで、よかったのかもしれない。
自分に言い聞かせる。けれど、胸の奥に開いた穴は塞がらない。
エリアス殿下を愛していたのかと問われれば、わからない。私たちの間にあったのはロマンスではなく、共同経営者のような義務感だったから。
私の胸が張り裂けそうなのは、失恋したからではない。
「私の人生の全て」を否定されたからだ。
十歳で財務の才能を見出され、以来、遊ぶことも恋をすることもなく、ただ国の数字を守るためだけに生きてきた。
手が汚れることを厭わず、闇社会の怪物たちと渡り合い、罵倒されながらも国を守ってきた自負があった。
私のやってきたことの、全て。
その全てを、「薄汚い」の一言で切り捨てられたのだ。
「……うぅ、寒い」
濡れたドレスが肌に張り付く。震えが止まらない。
行く当てなど、どこにもなかった。実家の公爵家に戻れば、父は「王家に見捨てられた恥晒し」、と私を詰るだろう。
その時だった。
雨音を切り裂くように、蹄の音が近づいてくる。
一台の馬車が、私の横で滑らかに停車した。
漆黒の車体に、金の装飾。見間違えるはずもない。それは、王家の紋章よりも遥かに恐れられ、そして力を持つ『ヴィクトル商会』の紋章だった。
「……乗れ」
窓が開かず、扉が直接開いた。中から伸びてきたのは、白く長い手。
私は迷わずその手を取った。今の私には、この手以外に掴めるものなどなかったから。
馬車の中は、別世界のように暖かかった。上質な香木の香りと、高級な革の匂い。
向かいの席には、足を組み、不機嫌そうに煙草を燻らせるヴィクトルがいた。
「ずぶ濡れじゃないか。……拾い甲斐のない猫だ」
彼は悪態をつきながらも、すぐに自分のベルベットのコートを脱ぎ、私の肩にかけた。彼の体温が残るコートに包まれ、私はようやく息を吐き出した。
「……早いのね。情報が早いの? それとも、あなたが仕組んだの?」
「買いかぶりすぎだ。俺が手を下すまでもなく、あの坊ちゃんが勝手に自爆しただけだろう」
ヴィクトルは呆れたように言い、タオルを投げてよこした。
「俺のところに、エリアス王太子名義の『通告書』が届いたぞ。実に丁寧な文字で、『貴様らのような悪党には一ゴルドラも払わない』と書いてあった」
「……それで、あなたは怒っているの?」
「怒る? まさか」
ヴィクトルは喉の奥で低く笑った。
「呆れているだけだ。そして、好機だと思っている」
彼は身を乗り出し、濡れた私の髪を指で梳いた。
「コレット。俺はずっと、お前が邪魔だった」
「……え?」
「お前が優秀すぎるからだ。お前が完璧なタイミングで金をよこし、俺の怒りを買う前に手を打ってくる。お前が防波堤になっていたせいで、俺はこの国を食い物にするタイミングを失っていた」
彼は私の顎を持ち上げ、紫紺の瞳で射抜いた。
「だが、その防波堤は今日、向こうから勝手に壊れた。……これでもう、遠慮はいらない」
「……私には、もう何もないわ。家も、地位も、名誉も」
「なら、俺が全てやる」
ヴィクトルは断言した。
「俺の組織に来い、コレット。俺の隣で、お前のその恐ろしいほどの計算能力と交渉術を振るえ。誰かの尻拭いのためじゃない。俺とお前が、この世界を支配するために」
彼は私の左手を取り、目の高さまで持ち上げた。
その手は、雨と冷気で白くかじかみ、中指には長年の執務で固くなったペンダコが、爪の隙間には洗っても落ちないインクの染みが残っていた。
王太子殿下は、「公爵令嬢らしくない」「もっと手入れをしろ」と私のこの手に眉をひそめていた。
けれど、ヴィクトルは違った。
彼は、その薄汚れた指先を、まるで聖遺物でも扱うかのように恭しく自身の唇に押し当てたのだ。
「……っ、汚れるわよ」
「馬鹿を言え。これは勲章だ」
ヴィクトルは熱い吐息と共に、私の指の節、そしてインクの染みに、崇拝するような口づけを落としていく。
指先から伝わる熱が、凍りついた私の心臓にまとわりつく。
「見てみろ、コレット。インクと鉄の匂いが染み付いた、働き者の手だ。あの坊ちゃんは、この汚れの価値を知らなかった。だが俺は知っている。この指先が、何万人もの命と国の経済を支えていたことを」
彼は瞳の奥に暗い熱を灯して、私を見つめた。
「美しい手だ。……俺は、この手が欲しい」
そう言われて、彼の真剣な瞳を見て。
他のどんな甘い言葉よりも、今の私にはその一言が、何よりも深く刺さった。
私の人生の全て――泥にまみれて働いたあの日々。
最も厄介で油断のならない交渉相手だった彼は、だからこそ私のことを誰よりも知っていた。
インクが染みた私の手を、「美しい」といった。
私は震える声で答えた。
途切れ途切れの、情けない声だった。
「……あなた……あなたは、いつも、食えないことを、おっしゃるのだから……」
「本気だ。俺の全財産は、今日からお前のものだ。……どうか、分かってくれ」
彼は珍しく余裕がない様子で、切実にそういって、私を強く抱き寄せた。
◇
私が王宮を去ってから、三日が過ぎた。
王都を見下ろす丘の上にあるヴィクトル公爵邸。その一室で、私は新しい帳簿を整理していた。
与えられた執務室は王宮のそれよりも遥かに広く、調度品も一級品だ。ヴィクトルは約束通り、私に組織の資金運用を任せ、「好きに増やせ、好きに使え」と言ってくれた。
「コレット様、市内からの報告書です」
ヴィクトルの部下が、恭しく書類を置いていく。
「ありがとう。……予想通りね」
報告書には、王国内で起きている「崩壊」が克明に記されていた。
一日目。
王都の広場で、エリアス殿下の演説が行われた。「悪との癒着を断ち切った」「クリーンな政治の始まり」という宣言に、民衆は熱狂した。税金が正しく使われるという幻想に、誰もが酔いしれていた。
二日目。
港湾都市から、最初の悲鳴が上がった。「入港するはずの貿易船が来ない」。
ヴィクトル商会の旗を掲げていない船は、海賊の格好の餌食になる。これまでは私が裏金を払って海賊を抑えていたが、それがなくなった今、海賊たちは仕事を再開したのだ。
また、隣国からの輸入食材が国境で止められた。通行税の未払いという名目だが、これもヴィクトルが裏で手を回していた外交ルートが切れた結果だ。
三日目。
そして今日。市場から商品が消え始めた。パンの値段は昨日の倍になり、肉や魚は店頭から姿を消した。民衆の熱狂は、不安と怒りへと変わりつつある。
私はペンを置き、テラスに出た。
ここから見える王都の空には、あちこちで黒い煙が上がっている。暴動の狼煙だ。
胸が痛んだ。私の手腕がなくなっただけで、罪のない人々が苦しんでいる。
──私が、もっと上手く殿下を説得できていれば……。
「震えるな、コレット」
背後から、温かいショールがかけられた。ヴィクトルだ。
「これはお前が壊したんじゃない。お前が支えるのをやめたから、この国本来の脆さが露呈しただけだ」
彼は私の隣に立ち、燃える王都を冷ややかに見下ろした。
「お前は十分にやった。誰よりも長く、泥を被って屋台骨を支え続けた。だが、住人がそれを『不要だ』と言って柱を切ったんだ。……家が崩れるのは、住人の責任だ」
彼の言葉は厳しく、けれど救いだった。
「自分の価値から目を逸らすな。お前がいなくなった影響が、お前の仕事の価値だ」
「……」
私は浮かんだ涙を静かに落として、前を向いた。
同情で国は救えない。今の私にできるのは、この崩壊を終わらせるための、引導を渡すことだけだ。
「ヴィクトル。明日の朝には、王国の国家信用格付けが最低ランクに落ちます。そうなれば、王宮発行の国債は紙切れ同然。……チェックメイトです」
「ああ。……じゃあ、行こうか。コレット」
ヴィクトルは私の手を取り、あの日と同じように、インクの染みた指先に敬愛の口づけをした。
「最後の監査だ。あの坊ちゃんに、現実という名の授業料を払わせに行こう」
翌朝の王宮は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「陛下! 南部の穀倉地帯で暴動です! 物資が届かず、農民が領主の館を焼き討ちしました!」
「北方の要塞から伝令! 『傭兵団が契約解除を通告。防衛ラインが維持できない』と!」
「王都の商人組合がストライキを宣言! 『通貨の暴落を止めろ』と王城前に押し寄せています!」
玉座の間。かつては静謐な威厳に満ちていたその場所は、今や怒号と悲鳴の渦中にあった。
玉座の前に立つエリアス王太子は、幽鬼のように青ざめていた。
「な、なぜだ……」
彼は震える手で報告書を握りつぶした。
「私は、正しいことをしたはずだ。不正を正し、悪との癒着を断ち、クリーンな国を作ろうとした。なのに、なぜ民は怒る? なぜ誰も私についてこない!?」
彼の隣にいたはずの側近たち――あの高慢な学者や、血気盛んな騎士団長は、責任を追及されるのを恐れて姿を消していた。
「……簡単なことですよ、殿下」
喧騒を切り裂くように、凛とした声が響いた。
大広間の扉が、静かに、しかし圧倒的な圧力で開かれる。
現れたのは、漆黒のスーツに身を包んだヴィクトル・ヴァレンタイン公爵。
そしてその腕に手を添え、かつてないほど華やかなドレスを纏った私、コレットだった。
「コ、コレット……!?」
エリアスが目を見開く。
無理もない。かつての私は、地味な色のドレスに身を包み、常に疲れた顔をしていた。
だが今の私は、ヴィクトルに贈られた最高級のシルクを纏い、肌は宝石のように艶めき、瞳には自信という名の光が宿っている。
「き、君が……君たちがやったのか!?」
エリアスが叫んだ。
「商人たちを脅し、物流を止め、この国を混乱に陥れたのは、君たちの仕業だろう!」
「人聞きが悪いな」
ヴィクトルが愉快そうに笑った。
「俺たちは何もしていない。ただ撤退しただけだ。……お前が望んだ通りにな」
私は静かに歩みを進め、かつて仕えた主君の前に立った。
手には、一冊の黒い革表紙のファイル。それは裏帳簿ではない。「監査報告書」だ。
「殿下。あなたは言いましたね。『悪とは交渉しない』と。その結果がこれです」
私はファイルを彼の方に向けて手渡した。この国の現実、上に立つ者の責任から、目を逸らしてほしくなかったからだ。
「我が国の物流の八割は、ヴィクトル商会の護衛によって守られていました。それを切れば、商人は怖がって海に出ません。物資が止まれば、価格は高騰し、貨幣価値は暴落する。……経済学の基礎です」
「だ、だが! それは汚い金だ! 犯罪者に金を払って平和を買うなど、国家の恥だ!」
「ええ、恥でしょう」
私は彼の言葉を認めた。
「でも、その恥を忍んで、泥水をすすることで、民は『今日のパン』を食べられていたのです。あなたは国の誇りを守るために、民の明日の命を捨てたのですよ」
エリアスは言葉を詰まらせた。
「そ、そんなつもりじゃ……私はただ、君のような癒着をなくして……」
「癒着ではありません」
私は彼を見下ろし、告げた。
「あれは『循環』でした。清流だけでは魚は棲めない。清濁併せ呑んでこそ、国家という巨大な生態系は回るのです。……私という調整役を捨てた時点で、この国は窒息死することが確定していたのです」
エリアスはその場に崩れ落ちた。
彼もまた、国を愛していたのだ。ただ、その愛し方が潔癖すぎた。正しさという猛毒が、国を殺したのだ。
「さて、講義は終わりだ」
ヴィクトルが一歩前に出た。その瞬間、部屋の空気が凍りつく。
「王太子殿下。我が商会との一方的な契約破棄、および名誉毀損に対する『違約金』の請求だ」
ヴィクトルが指を鳴らすと、部下たちが山のような請求書を運び込んできた。
「こ、こんな額……払えるわけがない! 国庫は空だ!」
「金がないなら、担保をいただく」
ヴィクトルは凶悪な笑みを浮かべた。
「王国の主要な港湾施設、鉱山採掘権、および関税徴収権。……これらを全て、ヴィクトル商会へ譲渡してもらおうか」
「そ、そんなことをすれば、国は君たちのものじゃないか!」
「その通り。今日からこの国は、我が商会の管理下に入る」
ヴィクトルは私の方を向き、悪戯っぽくウインクした。
「……というわけで、コレット。この国の経営権は俺たちだ。再建プランはできているか?」
私は深くため息を吐いて、胸元から一枚の書類を取り出した。
「ええ、完璧に。……まずは無能な経営陣の刷新からですね」
私はエリアスに向き直り、かつて彼に言われた言葉を、そのまま返した。
「エリアス殿下。あなたを王太子の任から解き、王位継承権を剥奪します。……新しい時代に、夢ばかり語る子供は不要ですので」
エリアスは何も言い返せなかった。
彼が否定した薄汚い現実に、彼自身が飲み込まれた瞬間だった。
◇
それから、半年が過ぎた。
レイランド王国は、表面上は変わらず穏やかな時を刻んでいる。
だが、その内実は大きく変わっていた。港にはヴィクトル商会の旗を掲げた船が溢れ、市場には他国からの珍しい品々が並ぶ。物流は回復し、経済はかつてない活況を呈していた。
もちろん、その利益の多くはヴィクトル商会へと流れているのだが――民衆にとっては、明日のパンが安く手に入ることの方が重要だった。
「……ふぅ。今期の決算も、過去最高益ね」
港を見下ろす丘の上に建つ、旧王族の離宮。今はヴィクトル公爵邸となっているその一室で、私は伸びをした。
「働きすぎだ、コレット」
背後から、温かい腕が私を包み込む。ヴィクトルだ。
「ヴィクトル、まだ計算の途中よ」
「放っておけ。お前の部下も優秀になっただろう?」
彼は私を抱き上げ、窓辺のソファへと連れて行く。
窓の外には、夕陽に染まる美しい王都が広がっていた。
「……あの王子様、どうしているかしら」
ふと、エリアスのことを思い出す。彼は廃嫡され、今は地方の修道院で静かに暮らしているという。畑を耕し、清貧な生活を送る彼は、憑き物が落ちたように穏やかだそうだ。
「さあな。興味もない」
ヴィクトルは私の髪を弄びながらいった。
「俺が興味あるのは、今、俺の腕の中にいる共犯者だけだ」
彼の紫紺の瞳が、熱っぽく私を見つめる。
私はそっと彼の方へ向き直り、彼の頬に手を添えた。あの日、雨の中で彼が愛してくれた、ペンダコのある指で。
「……ヴィクトル様。私、今とても幸せです」
「知っている。……だが、もっと幸せにしてやる」
彼は私の腰を引き寄せ、今度こそ、私の唇を塞いだ。
指先への契約の口づけから半年。ようやく交わされた、恋人としての口づけ。
それは甘く、深く、そしてこれから続く長い共犯関係を約束するものだった。
「愛しているぞ、コレット。俺の最高の参謀」
「ええ……私もよ。私の最愛の魔王様」
日が沈み、王都に夜の帳が下りる。
光の世界で弾き出された私たちは、この甘やかな闇の中でこそ、誰よりも強く輝く。
新しい時代の夜明けは、まだもう少し先の話だ。




