第11話 空白の律動
変化は、空の裂け目ではなかった。
──空そのものが、水の畝りを持ったかのようにさざめいていた。
“降ってくる”、と言ったほうがいいのだろうか?
遠ざかるようなわずかな膨らみを帯びながら、まるで生き物の脈動のように緩やかな変遷を帯びていた。
ジジジジ……ジジ……
膨張した雲が肥大化していく。
降り注ぐ光の粒が視線の先にぶつかっていき、やがて弾ける。
めくれるような感触がした。
指の先ではっきりとその輪郭を確かめられるほどの手触りが、パチパチと音を出しながら隆起していた。
——近づいてくる。
それが何処からくるものかはわからなかった。
漣のように軽やかで、風に触れたように柔らかい。
それでいて硬く、断続的だ。
質量が、あった。
空気を押し返し、光を曲げ、
景色という景色の布地を裏返すようにして、
“それ”は頭上の遥か遠くに漂っていた。
──届かないと、わかっていても。
ふとその感情が掠めた時、俺はどうすればいいかわからなかった。
何が正解なのか、
何が正しい“行い”なのか、
何が、自分にできることなのか。
その感情の奥深くに閉じ込めたはずの脈動は、視線が触れられるほどの近くに在った。
泡立つような緊張が、体の底から滲み出ていた。
一歩、たった一歩でよかったんだ。
川の流れは思ったよりも速くて、水の深さもわからなくて——
飛び込めば、自分も死ぬかもしれない。
そんな恐怖が全身を貫いて、足がすくんだ。
ひびが入っていた。
それは音のないひびだった。
光でもなく、影でもなく、
“空の厚み”そのものが、わずかに欠けていた。
世界の“全部”が、落ちてくる。
そんな錯覚を抱いた。
見上げた先、透明な青がまるで“一個の生物”であるかのように感じられた。
巨大な何かが空という偽装を纏って、こちらを見下ろしている。
世界という舞台が、まるごと“誰かの目”の中にあるような。
鳥肌が立った。
背筋が氷の爪でなぞられたように冷えた。
走れ。
声は、もう耳には届いていなかった。
意識そのものに“直接”植え付けられていた。
目の奥、脳のどこか——いや、もっとずっと深くにまで刻まれていた。
その声は命令ではなかった。
警告でもなかった。
それは、“合図”だった。
なにかが、始まる。
なにかが、終わる。
どちらともつかない予感が、全身を満たしていく。
気づけば、世界はすっかり沈黙していた。
蝉の声が止んでいた。
風も、雲も、時間さえも——動いていなかった。
ただ、“誰“でもない自分という存在だけが、このグラウンドの中央で立ち尽くしていた。
影はもう揺れていなかった。
代わりに、それはゆっくりと“広がっていた”。
静かに、しかし確実に。
地面をなぞるように、影が影ではない“別の相”へと変質していく。
それはもう“自分の影”ではなかった。
そこに広がっていたのは、交差する色と形を奪い取るひと繋ぎの“空白”だった。
輪郭を持たない、けれど確かに“在る”何か。
定義されないまま、ただ存在だけが押し寄せてくる気配。
気配——?
いや、違う。
これは、理解だ。
俺は知っていた。
この“気配”を。
この“声”を。
この“圧”を。
知っていたのではなく、
「記憶されるよりも前に刻まれていた」。
名前を与えられるよりも前に、
音を聞くよりも前に、
「存在するということ」の根っこに植え込まれていたもの。
──それは、否定だった。
存在に対する、否定。
定義に対する、否定。
意味に対する、否定。
世界がまだ“言葉”を持つ前に、それはそこにいた。
律という秩序の枠組みが生まれるより前に、それはこの世界に潜んでいた。
その気配が、今ここにある。
この空間を、
この場所を、
俺という存在を、
まるごと“侵食しよう”としていた。
影の縁が震えていた。
音もなく、警告もなく、ただそこに在るだけで、空間が“意味”を失っていく。
呼吸ができなかった。
空気はある。
光もある。
体は確かに“ここ”にある。
でも、言葉が失われていく。
名前が、感情が、記憶が、ひとつずつ剥がされていく。
自分という存在の「表札」が削られていく。
────これは、“敵”だ。
そう、確信した。
まだ姿は見えない。
声も聞こえない。
だが、それは確かに「敵」だった。
この世界を、存在ごと、定義ごと、最初からなかったものにしようとしている。
このままでは俺は、
存在の根元から「消される」。
俺という“形”をこの世界に刻むことさえできなくなる。
──走らなければ。
そのとき初めて、自分の中から声がした。
走れ。
今度こそそれは、“俺自身”の声だった。