第10話 地面の感触
グラウンドの白線は、
まるで時間の痕跡みたいに、眩しい陽の光の中に浮かび上がっていた。
ミンミンと鳴く蝉の声が空の奥から降ってくる。
その「音」はただそこに在るだけで、寂れた空気の中にある薄焼けた波紋のようだった。
風はもう止んでいた。
空気は静止し、湿った光だけがじっと地上を見下ろしている。
世界はひとつきり呼吸をやめたまま、茫漠と漂っていた。
まるで誰かの手によって一時停止されたフィルムの1コマの中に、俺だけが取り残されているような感覚。
陽射しの照り返しが瞼の裏に刺さる。
けれど、その中心に立ち尽くしていた俺の影だけが、なぜか水面を泳ぐ波間のようにゆらゆら揺れていた。
おかしい。
風は吹いていないのに。
雲は動いていないのに。
蝉の声さえ、変わらず響いているのに。
──俺の影だけが、
俺自身がそこにいないような挙動を運んだまま、波打っていた。
ざらついた地面の感触がスニーカー越しに染み込んでくる。
汗ばんだ襟元にまとわりつく熱気が、やけに濃く、——重たい。
遠くで“音”がした。
鉄が軋むような、
木が軋むような、
——でも、そうじゃない。
音の輪郭がうまく捉えられない。
もっと根源的で、空間そのものの“折れ目”みたいな──裂ける音。
ミーンミンミン……
ジジジジ……
………ああ、そうだ
…思えば、いつもそうだった。
空を見上げれば、世界は何も知らない顔で日常を繰り返していた。
だから、俺は走ろうとした。
走ることでしか、自分がここにいることを確かめられないような気がしていた。
立ち止まっていたら消えてしまいそうだった。
あの日のことを、一度も振り返りたくはなかったんだ。
いつもどこかで、誰かに呼ばれている気がしてた。
自分じゃない“誰”か。
——それでいて、肌の温もりのように近い“何処”か。
スターティングブロックもない。
スタートラインもない。
でも、足の裏には確かに土の感触があった。
硬く、はっきりとしたその質感だけが、「自分」という存在を地面に縫いとめることができていた。
──走れ。
そう、聞こえた気がした。
けれどそれは俺自身の声じゃなかった。
もっと遠くから。
もっと深いところから。
誰のものともつかない、
名前のない気配が、俺の耳の内側を擦っていった。
──走れ。
その声には感情がなかった。
怒りでもない。悲しみでもない。呼びかけでもない。
ただ、そこに“意志”だけがあった。
空洞のようでいて、冷たく、
それでいてぞっとするほど深く、澄んだ意志。
意識が、音のない深みに引きずられていく。
走れ。
走れ。
走れ。
一度聞いてしまったその声は、次第に輪郭を得て、やがて脈動するような振動となって鼓膜を打った。
その振動が、骨の中に沁みてくる。
それはもはや「音」じゃなかった。
圧だった。
世界の底から湧き上がる存在の“歪み”、——そのもの。
反響していた。
“影”が。
グラウンドの地面が。
その空間全体が——まるで空気ではなく“記憶”でできているかのような質感を帯びて揺れていた。
息がうまくできない。
汗がひとすじ、耳の裏を這った。
頭がぼんやりする。
何かが、こちらに向かって“歩いてくる”気配がある。
けれどそれは「足音」ではなかった。
——距離、だった。
世界の“距離”そのものが、近づいてくる。
音もなく風もなく、ただ“存在そのものの密度”が押し寄せてくるような感覚。
空間が、重力の歪みを突くように少しずつ膨らんでいく。
時間が、ほんの一瞬だけ逆再生したような気がした。
空の奥が僅かにざわめいた。
雲の輪郭が曖昧にぼやけ、色の粒子がにじむように滲み出す。
まるで絵画が“もう一枚のレイヤー”を内側に持ちはじめたような、そんな違和感が生まれていた。