第9話 蝉時雨の残音
助けなきゃ、って思ったんだ。
本気で、そう思った。
でも──動けなかった。
動こうと思えば、動けたはずだったんだ。
太陽の光が地面に細く差し込み、蝉の声が世界を埋め尽くしていたあの日の午後。
あの日。
あの、夏の日。
陽射しは真上から降っていて、空は異様に青くて。
蝉の声が痛いほど響いていた。
どこにでもありそうな、夏の午後だった。
川べりの土手。
風のにおい。
汗ばんだシャツ。
隣にいたはずの千夜。
全部覚えてる。
全部、隣にある。
忘れようとしたって無理だった。
忘れたくても、忘れられなかった。
──あの時、俺は立ち尽くしてた。
手を振る千夜が見えていたのに。
川の流れの向こうに、小さな影が揺れていたのに。
ほんの少し風が強く吹いて、
言葉がかき消された、その一瞬のあと。
足が、動かなかった。
声も、出なかった。
川の向こうに千夜がいた。
水音と風の音に混ざって、彼女の笑い声が聞こえていた気がする。
けれどそれが本当に声だったのか、あるいはただの記憶の残響だったのかは、今となってははっきりしない。
俺は土手の上に立っていた。
小さな石が混ざる砂地の道。
草の匂いと水の気配が交じり合う、夏特有の重たい空気。
なんで、走れなかったんだろう。
なんで、声を張れなかったんだろう。
なんで、目を逸らしたんだ。
何度も、何度も、問い返す。
ほんの一歩。
ほんの一歩だけ、踏み出すことができなかった。
あの時、もし、すぐに走り出せていたら。
あの時、迷わず川に向かって駆け出していたら。
走ることなら、誰より得意だった。
誰にも負けないって、本気で思ってた。
夏の空は青く、眩しいほどの光が世界を満たしていた。
まるで全ての時間が溶けて沈んでしまったかのように、遠くで蝉の声が鳴いていた。
トラックの白線。
スパイクの音。
スタートライン。
そして、誰もいないゴール。
その全部を、俺は追いかけていた。
速くなることで、何かを掴める気がしてた。
少しでも前に行くことで、何かを追い越せると思ってた。
でも──逃げてたんだ。
自分から。
過去から。
現実から。
見ないふりをした。
なかったことにした。
“あの時のこと”を、意図的に遠ざけた。
それでも、夜になると夢に出る。
蝉の声と、あの川の匂い。
呼びかける声と、届かない腕。
間に合わなかった足。
目を凝らさなければわからないほど遠く、それでいて確かにそこにある。
俺は、——あの日からずっと止まっていた。
走っていたのに、どこにも行けなかった。
何かを変えたくても、何も変えることができなかった。
前に進むふりをして、心の奥ではずっと“あの一瞬”に囚われていた。
視界がにじむ。
失ったものが、思い出せないほど遠くにある。
胸の奥には、何か冷たいものが沈んでいた。
透明で、重くて、確かなカタチがあるようなものじゃなくて。
ただ、“間に合わなかった”という事実だけが、覆い被さるように静かに重なっていく。
──本当に、助けたかったのか?
そんな問いが、ふと胸の奥に浮かぶ。
そしてすぐに、それを振り払う。
そんなはずはない、と。