第8話 青の記憶、影の午後
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蝉の声が、空の奥から降っていた。
熱を含んだ空気が肌を撫でる。
風の音、コンクリートの匂い、——ベンチの影。
足元から、ざらついた土の感触がした。
太陽が真上にあるのに、どこか陰りのある風が吹き抜けていく。
蝉の声は乾いた空気を裂くようにして、じりじりと耳の奥に入り込んでくる。
その音は、季節の断片が、まるで記憶の裏返しのように上空の透明な深みにしがみついている、——そんな音だった。
グラウンドの白線が、夏の日差しの中にぼんやりと浮かび上がった。
ミーンミンミンミンミン
ジジジジ…
蒼は、その上に立っていた。
地面がある。
日差しが降っている。
空の色は青く、雲は高く、世界はそこに“在る”はずだった。
けれど、明らかに何かが違っていた。
まるで見慣れたはずの現実が、薄紙を一枚挟んだまま再現されているような違和感。
香りも、音も、手触りも、すべてがわずかに遅れて反響してくる。
土のざらついた感触が、靴底の先からじんわりと沁みてくる。
視線を横に向けると、校舎がそこにあった。
見慣れたはずの影が午後の日差しに染まり、ぼんやりと滲んだように傾いている。
夢だと、思った。
けれど、これほどまでに“実感”を伴った夢を、彼は今まで見たことがなかった。
蒼は、静かに歩き出した。
スターティングブロックの跡がまだ残る、トラックのライン。
その白は、かつて彼が“速さ”を信じていた時間の証でもあった。
速くなりたかった。
誰よりも。
風よりも。
そして、思い出よりも。
何かから逃げるようにして。
何かを追いかけるようにして。
彼は走っていた。
──ずっと、走っていた。
陽が傾いて、影がのびる。
風が止んで、世界が呼吸をやめる。
勝ちたかった。
負けたくなかった。
誰かに、何かに、──あるいは自分自身に。
その走りはいつしか、何かから目を逸らすための行為に変わっていたのかもしれない。
彼は思い出す。
あの日のこと。
蝉時雨の降った夏の季節と、
——川べりの午後を。
──お前は、なぜ走っていた?
「……わかんねぇよ、そんなの……」
そう呟いた自分の声が、風に押し返されるようにして耳に届く。
なぜ、走ってきたのだろう。
なぜ、こんなにも“走る”ことに執着していたんだろう。
答えは、すぐそばにあるものだと思っていた。
——いや、考えなくてもそれはすぐにわかることだった。
目を逸らしてしまいそうになる自分がいるんだ。
今すぐに逃げ出したいと思う気持ちが、心の中、そのずっと、
——近くに。