第7話 グラウンドに落ちる木漏れ日
この手に永遠に届かないものを知っていた。
それはきっと誰もが知っていることで、ありふれた日常の事柄でもあった。
ぞくり、と背筋が凍った。
蒼の影が──染みるように広がっていく。
それは自分の意志ではなかった。
光源が変わったわけでもないのに、足元の黒が、じわりじわりと水を吸うように膨張していた。
影の縁が揺れていた。
その揺れは不規則に脈打ち、まるで心臓の鼓動を持つかのようだった。
床面に広がるそれは、影であるはずなのに“立体”で、ふくよかな厚みと奥行きを持っていた。
隆起する。
めくれる。
まるで地面そのものが伸縮し、下から何かがめくり返そうとしているかのようだった。
「……っ⁉︎」
時間は待ってはくれない。
止まることのない滑らかな砂時計の落下のように、手を伸ばした先から決して掬うことのできない“余白”がある。
思えば、いつもそうだった。
走ることでしか手に入れることができない時間があると信じて、がむしゃらに何かを追いかけていた。
もう戻れないんだ。
それはわかりきっていることだった。
──落ちていく。
事切れた糸と人形のように、——するりと抜け落ちた時間が、より深い闇の彼方へと吸い込まれていく。
視界の周囲が淡く滲んだ。
まるで現実そのものが輪郭を失い、水彩画のように淡く崩れていくようだった。
音もない。
風もない。
ただ一つだけ──耳の中に届いたものがあった。
蝉の声だ。
あの日、千夜の手を掴めなかった。
——いや、そうじゃない。
俺はずっと、“自分”から逃げてきてたんだ。
現実から目を逸らし続けてきた。
取り戻せない時間があるのはわかっている。
どれだけ強く願っても、もうたどり着けない場所があるのも。
足がすくみ、世界がひとつきり息を止めたあの瞬間。
ほんのわずかなためらいが、全ての未来を変えてしまうことを──
その「記憶」が、今になって胸の奥をゆっくりと押し潰す。
冷たい水に沈むような痛み。
音もなく、光もなく、ただ時間だけが静かに削れていくような感覚。
その刹那、蒼の視界に、蒼天の色が滲んだ。
──青。
透きとおるほどに濁りのない色だった。
目の前に広がっていたのは、どこまでも続く真夏の空。
巨大な積乱雲と、——陽だまりの午後。
その穏やかな風の流れに、すべてが飲まれていく。
言葉も、意識も、そして自身のかたちすらも。
現実と非現実の境界が融解し、影と光が等価に揺らぐ。
気がつくと、蒼は立っていた。
見慣れた日常の光景。
トラックの白線が敷かれた、——グラウンドの上に。