第6話 黒の律
言おうとした。
それがどんな「言葉」になるにしろ、言わなくちゃいけないことがあった。
「……俺、お前に──」
言葉は形になる寸前で、砕けた氷のように唇の内側で崩れ落ちていく。
ひとつずつ拾い上げれば意味をなすはずの断片は、指の間から零れる砂のように音もなく消えていった。
どうして、こんなにも言葉が遠いのだろう。
目の前に、千夜はいる。
手が届く距離にいる。
手を伸ばせば触れられる場所にいるはずなのに、思うように口が動かない。
胸の奥で名前を持たない想いがかたちにならずにうごめいている。
熱にもならず、痛みにもならず、ただ、濁った濃度だけを増しながら──
ずっと言いたかったんだ。
ずっと、謝りたかった。
もしももう一度会う機会があるなら、——神様がもう一度、彼女に会わせてくれるなら。
——ズッ。
世界の奥底で、誰かが筆を滑らせたような音がした。
空のどこかで線が滲み、色の階調が崩れていく。
足元が、揺らいだ。
地面が存在しているはずなのに、空間の端から重力が抜け落ちていく。
「……っ⁉︎」
なんだ……これ……ッ
まるで身体の“在り処”そのものが、誰かに塗り替えられていくような感覚だった。
“誰か”?
——いや、もっとずっと素朴な何か、“遠い”ものが、耳元で掠めていくような些細な感触があった。
泡が崩れていくようだった。
それは音ではなく、空気の“感触”に近かった。風のようでいて、風ではない。
重力と温度と、色の濃度が、ほんのわずかにずれていくような——
空が──軋んでいる。
見上げた空の中心に、淡いひびが走っていた。
ひと筋の光の筋ではなかった。そこに視えたのは、微かで平らな輪郭だった。
“空間そのものの厚み”が、わずかに削られていた。
何かが通ろうとしている。
外から、あるいは内から。
視界の底が、ぐらりと傾いた。
右足にだけ重みが宿り、左足の存在が薄れていく。
片足ずつ世界に属する場所が違うかのような感覚。
蒼の身体は空間のゆがみに取り残されながら、わずかずつ“座標”を失っていく。
手を伸ばそうとしても、腕は思うように動かない。
視線を動かそうとしても、目の前の景色が追従しない。
例えば、——そう、例えば、“青”。
空の「色」は数歩先に“確かに”あるのに、距離感が測れない。
雲間から堕ちる影が風に流れ、肌を掠める空気の温度がどこへ行くともなく揺らめいている。
その動きはまるで水の中を覗き込んでいるように屈折しながら、どこか異なる軸で揺れていた。
「……千、夜……?」
声を出そうとした。けれど、声帯から空気が出ていく感覚がない。
何かが──何もかもが、噛み合っていない。
そして、聴こえた。
耳の奥、もっと深い場所。
骨の内側か、神経の繋ぎ目か。
誰かの“囁き”が、微細な振動となって響いてくる。
それは名前のない音だった。
文字にできない、音素にも届かない、ただの“意味”のない気配。
けれど──確かに“名を呼ぼうとする意志”が、そこにはあった。