プロローグ
生と死は一つのネットワークで繋がっている。
それはこの世界に「空」ができたあの日からだ。
かつて世界は、たった一つの物質だけが存在する世界だった。
正確には、存在という概念すらもなかった。
“ある”と“ない”を隔てるものが何もなかった。全てはただ、ボイドと呼ばれる透明な時空の中で、意味も形も持たぬ因子たちが無言のまま、無限の停滞を繰り返していた。
そこに時間はなかった。場所もなかった。
始まりも終わりも、そもそも“線”が存在しないのだ。
しかし、やがて一つの“逸脱”が起こる。
それは、誰にも意図されず、誰にも制御されず、ただ「ズレ」として生じた微細な波紋だった。
ひとつの因子が、隣接する因子との間に「差」を感じた。
「境界」という概念が初めて生まれた瞬間だった。
差があれば、内と外ができる。
内と外ができれば、“私”と“それ以外”が成立する。
そして“私”が生まれた時、時間は動き出し、物質は重さを持った。
その日、“空”ができた。
空とは、存在と存在の「あいだ」にある何もない領域であり、そこにこそ物語は宿る。
ボイドから分岐した世界は、やがて光と影に分かれ、物質と反物質の対が生まれた。
時間が流れ、空間が拡がり、世界は“構造”を手に入れた。
この構造こそが、我々が立つ「現実」の起点である。
だが、“かつての無”は完全に消えたわけではない。
存在になり損ねた因子たちは、物質世界の外縁に漂い続けた。
彼らはボイドに取り残された“名を持たぬ記憶”であり、“意味を奪われた命”であり、“定義されない力”だった。
そして、彼らは望むようになる。
もう一度、全てが一つであったあの静寂へ。
差異も苦しみも、死も分断もない世界へ。
世界は、再び“統合”されようとしている。
時空のあちこちに“裂け目”が生まれ、記憶が消え、因果が乱れる。
それは誰かが意図して起こしている現象ではない。
世界そのものが“自らを元に戻そうとしている”のだ。
この現象を、世界律制局──通称 《空律庁》は「虚壊儀」と呼んでいる。
存在が、存在でなくなる儀式。
死が、死でなくなる瞬間。
それに立ち向かう者たちがいる。
存在の「空」を守り、世界がボイドへ還るのを防ぐため、十三の部隊が立ち上がった。
その名は、《空律庁》──“律”と呼ばれる力を駆使し、ボイドからの侵蝕者を討つ組織。
彼らの敵は、「七つの虚壊座(ヴォイド=セファ)」と呼ばれる異形の理。
名を喰らい、境界を壊し、夢を現実に侵す存在。
虚なる存在は、律に従わない。
時間も空間も、記憶も命も、奴らにとってはただの“構文”に過ぎない。
だが、秩序は一つの物語だ。
そして、物語には必ず“語る者”が必要だ。
──ならば、我々は語ろう。
境界を喰らう異形との戦いの記録を。
死が死であるための戦いを。
この現実を“現実のまま”保ち続けるための物語を。
これは、存在の名を持つ者たち──空律庁と、存在に抗う者たち──カラリスとの、
「名」と「意味」と「形」をめぐる、世界の全てを懸けた戦争である。
そして、今。
新たな“裂け目”が、東界域第七因果帯に観測された。
それは未だ名を持たぬ、ただの小さな歪み。
だがその奥底には、既に《第一座》が姿を現しつつあった。
──ミュゼル=フェーラ。
時間を否定する子供の姿をした、最も冷たい虚壊の始まり。
彼女の瞳は、静かに空を見上げていた。
「また、時間が、流れ始めたのね」
誰に言うでもないその言葉は、
ゆっくりと、律された世界に波紋を広げた。
そして、戦争が始まる。