第八章:方程式の解
消された事件と、覚醒する異能。崇史は、世界の理を解き明かす方程式に挑む。
2032年7月13日、火曜日 午後14時ごろ。
川越が帰った後、崇史はまるで泥の中にいるかのように、重く、暗い眠りの中にいた。
それから数日間、彼は自堕落な生活を送っていた。
家族を失った悲しみと虚無感、そして、機能しない警察への不信感が、彼を深くベッドに沈み込ませていた。昼夜が逆転し、食事もろくに喉を通らない。
退院してから、彼は一度もテレビをつけていなかった。
世の中のニュースが自分の身に起きた悲劇と、あまりにもかけ離れていることを本能的に理解していたからだ。
だがこの日、彼は意を決してスマートフォンを手に取った。震える指で検索窓にキーワードを打ち込んでいく。
『練馬区 三人家族 事件』 検索結果は、ゼロ。
『システムエンジニア 襲撃』 関係のない、海外のニュースばかり。
彼は、自分の名前、住所、思いつく限りのキーワードで検索をかけた。
だが何も出てこない。
自分の家族が惨殺されたという、あまりにも大きな事件が、この世に存在した痕跡すらなかった。
(何だ…?これは、どういうことだ?なぜ、何も報じられていない?三人だぞ?三人死傷者が出ているのに?どんな小さな事件だって、今の時代、ネットのどこかには痕跡が残るはずだ。それなのに、なぜ…?)
彼の頭は理解不能な現実にただ疑問符で埋め尽くされた。
社会から家族の存在そのものが抹消されたかのような、底知れない恐怖と怒りが込み上げてくる。
(…確かめるしかない) 崇史は、いてもたってもいられなくなり、あの刑事…ヤマシタに直接問いただすことを決意した。
この異常な事態について何か知っているはずだ。
彼は担当刑事との面会を求めるため、警察署へと向かうことにした。
久しぶりの外の空気はひどく新鮮に感じられた。
そういえば食欲もあまりなく、あれからほとんど何も食べていない気がする。
おかしいなとは思ったが、今はそれどころではなかった。
電車に乗り込むと、平日の昼過ぎだというのに、車内は乗客でごった返していた。
(なぜだ?なぜ報道されない?報道規制が敷かれているのか?だとしたら、一体、誰が、何のために?俺の家族の死は、そんなに都合が悪いことだったのか?)
崇史の思考は、出口のない問いの中をぐるぐると回り続けていた。
俺がこんな状況に陥っているというのに、世間は相変わらず何事もなかったかのようにいつも通り動いている。そのことに、なんだか少し馬鹿らしくもなり、同時に、どこから来るのか分からない怒りが、沸々と湧き上がってきた。
(俺は一体、何に怒りを覚えているんだろう)
そんなことを考えながら電車に乗っていると、いつもの視界の違和感が再び現れた。
それは、いつもよりもはっきりと、彼の意識を侵食してくる。
人々の動きが、話す声が、電車の揺れる音が、すべてが、何かおかしい。
周囲の音は僅かに低く、くぐもって聞こえる。
でも、何がおかしいのか、その正体は掴めない。
違和感を抱えながら彼は地下鉄に乗り換える為に電車を降りた。
地下鉄に向かう連絡通路を進む。ますます人が増え、それに比例するように違和感も増してくる。
あまりにも視界のブレが激しくなり、強いめまいに襲われた崇史は、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
その時、背後から、母親と小さな子供が彼の横を通り過ぎようとした。
崇史は、ふと、その子供を目で追った。小さな手には、真新しいソフトクリームが握られている。
その時、崇史の目の前でポロッとソフトクリームがコーンから取れて落ちるのが見えた。
なぜか、その動きだけが妙にハッキリと認識できる。
咄嗟に手を伸ばすと、自分でも驚くほど正確に、宙を舞うそれを……受け止めていた。
手の中のソフトクリームは、まだ形を保っている。
その瞬間、今までの違和感の正体が、はっきりと分かった!
違和感の正体――それは、物の動きがほんの少しだけ、ゆっくりに見えることだった。
「これは何だ!?」崇史が独りごちる。
(あの時、見た夢か?幻覚が頭に浮かんできた。)
(お前にはもう一度?なんて言ったんだ、思い出せない)
何かすごく重大な内容だった気がする。
必死に思い出そうとするが、頭痛、目眩が酷くこれ以上はもう立っていられなくなった。
その場をフラフラと来た道を引き返す。その手は潰れて溶けたソフトクリームが握られていた。
親子が立ち去る崇史を怪訝な目で見つめていた。
ソフトクリームの一件後、崇史はそのまま警察署へは行かず、来た道を戻る電車に飛び乗った。
頭の中は、今起こったばかりの出来事で、ぐるぐると混乱していた。
ふらつく身体で何とか家にたどり着く。
出発する前に考えていた、事件が報道されていないことへの疑問など、彼の頭からはもう、きれいさっぱり消え失せていた。
そのままソファーにどっと座り込んだ。
(時間が……遅く……?)
パニックが押し寄せる。現実離れした現象に、思考が追いつかない。
その時、彼の脳裏に、あの意識の闇の中で聞いた声が、再び響いた。
(管理者。)
夢だと思っていたあの光景が、鮮明に蘇る。
膨大な情報が流れ込み、世界の根源に触れたような感覚。
(まさか……あれは、夢ではなかったのか……) そして、もう一つの声。
「――お前には、もう一度……その時が来ればわかる――これが最後の……」
(もう一度……?)
崇史の思考が、線と線で繋がり始める。
(俺は、一度死んだのか?そして、この能力を与えられて、この世界に「戻された」とでもいうのか?)その後も管理者との会話の断片が強烈な幻覚のように彼の意識を支配した。
それは、もはや夢の残滓ではない。
彼の存在そのものに、何かが深く刻み込まれているような、抗えない感覚だった。
そして、「もう一度」という言葉が、まるで呪文のように彼の脳裏にこだまする。
(俺は、一度死んだのか? だとしたら、なぜ、こんな異形の存在として蘇ったんだ……?)
(何のために……!) 彼は、胸の奥から込み上げてくる感情を抑えきれずに呟いた。
(あのまま死なせてくれれば……妻と、子供にも、あの世で会えたかもしれないのに……なぜだ……!)
いったい俺にどうしろと言うんだ。意味が分からない。怒り、悲しみ、混乱。様々な感情が渦巻き、彼の心をかき乱す。
混乱する頭を整理しようと、彼は自身の体に起こっている現象を考察し始めた。
元々理系の頭脳を持つ彼にとって、これはただの異常現象ではなく、解明すべき物理現象だった。
彼は、様々な実験を試みた。ペンを落としてみる。手のひらでボールを弾ませてみる。壁に投げつけてみる。
しかし、結果は同じだった。部屋には誰もいない。物の動きは、確かに「少し」遅くなっているように見えるが、地下鉄の中で感じたような顕著な変化は現れない。
(やはり、人がいないと顕著な変化は起きないのか……)
地下鉄での経験を思い出す。人が多い場所では、確実に能力が顕著に発動した。
しかし、自宅で一人では、あの時のように世界が顕著にスローモーションになることはなかった。
崇史は、さらに考え込む。
(なぜ、人の多さが関係するのか? 人が多い場所での何が、この能力を発動させるのか?)
彼の理系の頭脳が、可能性を一つ一つ潰していく。そして、一つの結論にたどり着いた。
(危険度……か?) そう。人が多ければ多いほど、自分に危険が及ぶ可能性も上がる。
無数の不確定要素がそこには存在する。
もしかしたらこの能力は、彼の身に”危険”が迫った時に、その危険度に応じて発動するのではないか?
管理者との会話を何とか思い出そうとあの日の事を思い出そうとする。
あの日俺は何者かに襲われた。
そして、夢を見た、誰かが庭に何かを埋めた・・・いや、それよりその後だ。
あれは夢にしても現実味がなかった。何度思い出そうとしても断片的にうっすらとしか思い出せない。
でも、おそらくはあれが原因で俺はこんな状態になったと考える方が自然だ。
俺はあれから周りの時間が遅く見えていたんだ。だから目眩や耳鳴りが酷かったのか。
(でもこの能力が何の役に立つ?!)
崇史は部屋を見渡す。業者によってきれいに片付けられた部屋。
だが、そこにはもう、温かい生活の残り香はなかった。
ふと、視線がテレビ台の隅に止まる。そこには、娘のミクが描いた、家族三人の似顔絵が飾られていた。クレヨンで描かれた、自分と、妻と、そして小さな娘。三人が、拙い線で笑っている。
崇史は、その絵をそっと手に取った。指で、笑っている娘の顔をなぞる。
その瞬間、霊安室で見た、冷たくなった娘の顔がフラッシュバックした。
そして、参列することさえ許されなかった、小さな棺の幻が脳裏をよぎる。
「……っ!」 嗚咽が漏れる。この手で、もっと抱きしめてやればよかった。
この声で、もっと名前を呼んでやればよかった。最後の別れさえ、させてもらえなかった。
後悔が、黒い泥のように心にまとわりつく。 しかし、その時。彼の脳裏に、あの刑事たちの冷たい目と、犯人の「政治家様が何とかしてくれる」という言葉が蘇った。
(そうだ…俺は、ただ悲しんでいるだけでいいのか…?) 悲しみは、消えない。後悔も、消えない。だが、それと同じくらい、いや、それ以上にどす黒い感情が、彼の心の底から湧き上がってきた。
(あいつらは、この笑顔を奪んだ。俺から、すべてを奪ったんだ…!)
憎悪。それは、彼の心を初めて、未来へと向かせた。崇史は似顔絵をそっと元の場所に戻すと、固く、固く拳を握りしめた。 家族の仇を討つという目的が、彼の内に燃え盛る炎となった。
(この能力が、役に立つかもしれない。いや、役に立てるんだ。そのためには、この力の正体を、使い方を、もっと知る必要がある。)
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