第七十九章:静止した世界と、動き出す木の葉
崇史は、走り出した。何百年ぶりに、その目に、涙を浮かべながら。やっと、見つけた。やっと、たどり着ける。この、永遠の地獄の中で、たった一つだけ、時間が、動き続ける場所へ。希望へ。
地球の衛星軌道上。
そこに静かに浮かぶ無数の人工の星々。その警告ランプが一斉に緑から赤へとその色を変えた。
ミサイルハッチがゆっくりと開いていく。
音もなく死の化身が宇宙空間へと吐き出された。
地球をあらゆる角度から隙間なく覆い尽くすように。
無数の核ミサイルがその先端を青い惑星に向け、徐々にその速度を上げながら大気圏へと突入していく。
地上で崇史は香を抱きかかえたまま空を見上げる。
彼の『クロノスタシス』が徐々に発動を始めていた。
空が無数の赤い流星群で埋め尽くされていく。
彼はそっと、もう温もりを失った香の体を地面に横たえた。
そして自らもその横に膝をつき、ただ呆然と、その世界の終わりを見上げていた。
核ミサイルが上空1キロにまで到達した、その時。
この宇宙の時間は崇史一人を残して、完全に、永遠に、凍てついた。
光も音も風も全てが死んだ。
夜が来た。
どれくらいそこにいたのだろう。
数分か、数時間か、あるいは数日か。
崇史はゆっくりと立ち上がると周りを見渡した。
遠くの空がまだうっすらと夕焼けの赤い光を留めている。
(…あっちが、西か)
彼はその方角に向かってただ無心に歩き始めた。
何年経ったのだろう。
一年が過ぎ、十年が過ぎ、やがて百年が過ぎた。
彼の肉体は老いることを知らない。だが彼の精神は、その永遠とも思える絶対的な孤独の中でゆっくりと確実に摩耗していった。
彼はもう妻の顔をはっきりと思い出すことができなかった。娘の笑い声ももう聞こえない。
彼は自分がかつて「久我 崇史」という一人の人間だったことさえ忘れかけていた。
自分はただ、この終わった世界の全てを観測するためだけに存在する、空っぽの何かだ。
そう、思った。
さらに、どれほどの時が流れただろうか。
崇史の摩耗した思考がわずかに動き出す。
(あの時全てのミサイルは着弾する寸前で止まったはずだ。なのに、なぜあれは爆発している…?)
ひょっとし-て。
(ほんの僅かだが…時間が、動いているのか…?)
だとしたら…。ひょっとし-て、どこかに『クロノスタシス』が完全に解除される…時間が普通に動き出す場所があるのかもしれない。
崇史の中で何百年ぶりかの小さな小さな希望の火が灯った。
今までは全く感じなかったが、『クロノスタシス』の微妙な揺らぎに神経を集中させる。
だがその感覚はほとんど同じだった。どちらを向いてもはっきりとした変化は感じない。
(だが、間違いなく、動いている…!)
彼は自分のその直感を信じ、再び歩き出した。
何百年経っただろうか。
摩耗し薄れゆくその崇史の意識の、一番奥の底で。
ふと一つの記憶だけが鮮明に蘇った。
それはまだ世界が優しさに満ちていた頃の記憶。
緑豊かな自宅の庭。
そこで微笑みながら何かを土の中にそっと埋めていた、最愛の妻の姿。
(…あそこに…)
ほとんど、本能だった。
彼は歩き出した。何百年ぶりに明確な「目的」を持って。
自分の、かつての家に。
東京の練馬にあったはずの、あの小さな家に。
そして、さらに数えきれないほどの時が過ぎた。
彼はついにたどり着いた。
そこは彼がかつて家族と暮した懐かしい場所だった。家はもう崩れかけていたが、その庭の中心には一本の大きな木が静かに立っていた。
彼がその家の敷地に足を踏み入れた、その瞬間。
崇史は信じられない感覚に襲われた。
『クロノスタシス』が、ほんの、ほんの僅かに、緩んだのだ。
永遠に続くと思われた時間の牢獄に、初めて小さな小さな亀裂が入った。
まさか。
彼は庭の木を見上げる。
そして、見た。
その木の、一枚の葉が。
凍てついたこの世界で、ありえないはずの風を受けて。
微かに、揺れていた。
崇史は全てを思い出した。
そうだ、あの日、妻がここに埋めたもの。
それは彼が学生時代に平和な未来を夢見て作った、独立AI「イプシロン」。
自己完結した神々の干渉さえも受け付けない、たった一つの、「聖域」。
崇史は、走り出した。
何百年ぶりに、その目に、涙を浮かべながら。
やっと、見つけた。
やっと、たどり着ける。
この、永遠の地獄の中で、たった一つだけ、時間が、動き続ける場所へ。
希望へ。
その木の幹に彼の指先が、あと少しで、触れる。
(区切り線)
一体の「それ」が、赤く点滅する球体の一つに音もなく近づく。
空中に半透明の操作パネルを呼び出し、エラーログを確認した。
サーバーID:α1.2-Laniakea-Virgo-08
エラーコード:文明基盤の自壊による停止
「別のそれ」は、思考するまでもないというように即座に結論を告げた。
「再起動を。次も同一事象で停止するなら…破棄だ」
「それ」は小さく頷くと、目の前の操作パネルで再起動のコマンドを呼び出した。
無機質な動作で、『REBOOT』のボタンを押す。
無数の青白い世界の中で、α1.2-Laniakea-Virgo-08と名付けられた赤い世界が、一瞬強く閃光を放ち――そして、静かに消え去った。