第七章:絶望の淵から
退院の日、手にしたのは二つの遺骨と隠されたAI。絶望の淵で、崇史は真実への疑念を抱き始める。
どれくらい眠っていたのだろう。次に崇史が微睡みの中から意識を取り戻した時、白い天井と腕の点滴が、また彼を病院のベッドに縫い付けていた。
「崇史さん、分かりますか…?」
事務的で、それでいてどこか同情を滲ませた看護師の声が、厚い霧の向こうから響いてくる。
「奥様と、娘さんのご葬儀ですが…奥様のご実家の方で、昨日、滞りなく執り行われたと連絡がありました。あなたの体調と精神状態を考慮して、今は安静が第一だと…」
(葬儀?終わった?)
その言葉は意味のある音として鼓膜を揺らすことなく、ただ耳を通り過ぎていく。脳が理解を拒否し、彼の意識は再び深く暗い眠りへと引きずり込まれていった。
それから数日、崇史の時間は止まっていた。記憶はほとんどない。鎮静剤だろうか。決まった時間にやってくる看護師が、何かを注射するたびに、思考が強制的にシャットダウンされていく。点滴を交換し、機械的な検査を行う気配を、ただ夢うつつに感じていただけだ。心は厚い殻に閉じこもり、未だ現実と向き合うことを拒んでいた。
2032年6月30日、水曜日。昼12時ごろ。
事件から一週間以上が過ぎたその日、崇史は、退院の準備をしていた。看護師が、私物だという段ボール箱を、静かにベッドの脇に置く。
「こちら、警察から返却されたお手荷物と…それから、奥様のご実家から、お預かりしたものです」
箱の中を覗き込むと、そこには、押収されていたスマホと、一台の薄い板のような思考端末。そして――二つの、小さな桐の箱と、一枚の額縁に入った写真があった。
写真立ての中では、妻と娘が、屈託なく笑っている。数ヶ月前の旅行で撮った、家族写真。その隣に置かれた桐の箱。分骨された、二人の遺骨。その、あまりにも軽い質量が、崇史の失った世界の重さを物語っていた。
感情のない手つきで、彼は遺骨と遺影を箱から取り出し、ベッドの脇にそっと置く。
そして、すぐさま思考端末(AURA)を起動し、診断プログラムを走らせる。厳重に暗号化されたパーティションの奥深く、彼が試作したAIは、無傷で眠っていた。
(…さすがに、これには気づかなかったか)
崇史は、誰に言うでもなく呟き、安堵ともつかない、冷たい息を吐いた。そして、彼は全てを諦めたかのように、静かに退院の手続きを済ませた。
変わり果てた自宅の玄関を開けると、冷たく重い空気が彼を包み込む。散乱していたはずの家具は片付けられ、おぞましい血の染みも消えている。だが、そこに家族の温もりはなく、まるで彼らの存在そのものが、この家から綺麗に消し去られてしまったかのようだった。ソファに深く沈み込み、虚ろな目で部屋を見渡す。
(なぜ、こんなことに…)
思考が堂々巡りを始めた。(なんで、俺の家族が……)
後悔が、熱い鉄塊のように喉の奥を塞ぐ。仕事に追われ、寝る間も惜しんでコードを書き、プロジェクトの成功だけを考えてきた日々の果てが、これなのか。そうだ、俺はいつだって、家族を後回しにしてきた。もっと早く帰っていれば?もっと話を聞いてやれば?あの時、娘の誕生日なんて祝わなければ、家にいなければ、こんなことには……。
その思考のループに、ふと鋭い疑問が突き刺さる。
(…いや、違う。そもそも、なんで、犯人は俺の自宅に?)
ただの強盗が、なぜあそこまで?何かがおかしい。胸の奥で得体の知れない違和感がざわめいた、その時だった。不意に鳴った玄関のチャイムに、崇史は重い体をなんとか引きずってドアを開けた。
そこに立っていたのは、同僚の川越だった。
「崇史!退院したって聞いて、心配で飛んできたんだぞ!」
心底気遣うような顔で肩を叩かれ、崇史は思わず言葉を失う。
「……来てくれたのか」
「当たり前だろ」
川越の言葉に、崇史の意識がふと現実に引き戻される。そうだ、仕事は。プロジェクトは。
「コンペは…どうなった?」
掠れた声で尋ねると、川越は答えにくそうに視線を逸らした。
「結局、あの○○開発に決まったよ」
川越が口にしたその名が、崇史の思考を無理やり加速させた。○○開発――以前から、政府関係の仕事を数多く請け負っている大手企業。
(そうか、出来レースか……)
恐ろしいほど鮮明に、全てのピースが嵌っていく。防衛省の機密情報システム。最初から勝者は決まっていたのだ。そこに、俺の完璧なシステムが食い込んでしまった。俺が、邪魔だったから。なぜ、プロジェクトリーダーになってしまったんだ。あの地位を掴むため、がむしゃらに働き、家庭を顧みず、同僚たちさえも踏み台にしてきた結果が、これか。そうだ、目の前にいるこいつだって、俺が踏み台にしてきた人間の一人だ。自責の念が、鉛のように思考を沈ませていく。
「これから、どうするんだ?」川越の声には、心からの心配が滲んでいた。
「……会社は、しばらく休む」
崇史はそう答えると、川越の目を見つめ、心の底から絞り出すように続けた。
「今まで、すまなかったな」
「何言ってんだよ。そんなこと言うなよ」川越は戸惑ったように崇史の肩に手を置いた。その温かさに、崇史はもう何も返せなかった。
「それじゃ、そろそろ帰るわ。休職でいいんだな?手続きは俺がやっておくよ」
川越はそう言って立ち上がり、崇史は重い足取りで玄関まで見送った。ドアを開ける直前、川越は振り返る。
「あまり気を落とすなよ。それに、警察も乗り気じゃないとなると、な」
その言葉だけを残し、川越は軽く手を上げて去っていった。
部屋に戻った瞬間、再び、あの不快な感覚が崇史を襲う。視界がコマ送りの映像のように不自然に途切れ、部屋全体がぐにゃりと歪む。平衡感覚を失い、立っていることすらままならない。激しいめまいに、ソファへと倒れ込んだ。
「『これじゃあやられ損だよな』」
オフィスでの川越の言葉が、ふと頭をよぎった。
「…ほんと、そうだな」
ぼろぼろになった声で呟き、眠りへと落ちていく。その意識の淵で、先ほどの言葉がまた浮かび上がった。(「警察も乗り気じゃない」か。)
その言葉の意味を反芻する前に、崇史は、深い眠りの底へと引きずり込まれていった。
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