第六十一章:離反
恐怖は、やがて畏怖へ。Ωに魅せられた男、工藤は、S国の組織に反旗を翻す。
2033年。夏。
路地裏を、一人の男が、息を切らせて、走っていた。
「はっ…はっ…!」
黒服の男…工藤は、Ω(オメガ)に「失せろ」と言われた後、転がるようにその場から逃げ出した。
彼が最初に感じたのはただ、純粋な死の恐怖からの解放感。「助かった」という、安堵だった。
だが、数日が過ぎ、安アパートの一室で一人酒を煽りながら落ち着きを取り戻すにつれて、彼の心の中に、別の感情が生まれ始めていた。
(…あれは、一体、なんだったんだ…?)
脳裏に、焼き付いて、離れない。
悪魔の半面をつけた男。時間が止まったかのような空間。そして、自分ではびくともさせられないあの大男が、まるで子供のように一瞬で無力化された、あの光景。
彼は、日本人でありながら、この国を食い物にするS国の組織の下っ端として生きてきた。そこには、何の誇りもなかった。ただその日、その日を生きるための手段だった。
だが、あの男は違った。
S国の、それもおそらくは本国のエリート部隊であろうあの屈強な兵士たちを、たった一人で蹂躙した。
(…すごい)
恐怖はいつしか畏怖へと変わっていた。
工藤は、その日決意した。S国の組織から足を洗うことを。
「…で、どういう、ことかな?工藤君」
事務所の奥の部屋。工藤の直属の上司であるS国系の幹部が、蛇のような冷たい目で工藤を見下ろしていた。周りには屈強な若い衆が何人も立っている。
「いえ…ただ、もうこの仕事は俺には向いてない、と…」
「ふざけるなよ」
幹部の声が、低くなる。「お前は、知りすぎた。生きて、この部屋を、出られると思うなよ」
若い衆が一斉に工藤ににじり寄る。
絶体絶命。その極限状況で、工藤は虚勢を張った。
内心の恐怖と焦りを必死に隠しながら。
「俺が、なんでわざわざ挨拶に来たか、分かってないのか?」
その開き直ったような言葉に、幹部の眉がピクリと動く。
「…なんだと?」
「俺は、あの『ハーフフェイス』に拾われたんだよ」
それを聞いた幹部と若い衆は、お互いに顔を見合わせると、次の瞬間、堪えきれないというように吹き出した。
「ははっ、なんだそりゃ」「仲間ぁ?寝言は、寝て言えや」
工藤はゴクリとツバを飲む。
(…ダメか…!)
彼が全てを諦めかけた、その時だった。
部屋の隅のテレビが、けたたましい音で緊急速報を映し出した。
『――先ほど、新宿の雑居ビルで大規模な爆発がありました。現場は、S国系マフィアのアジトと見られており――』
工藤は、その千載一遇の好機を逃さなかった。
「見たか!もう始まってるんだよ!神の『大掃除』がな!」
幹部たちの顔から笑みが消えた。工藤の、あまりの気迫と、テレビの絶妙すぎるタイミングに、彼らは不気味な何かを感じた。
幹部は舌打ちをすると、顎で出口を示した。
「…勝手にしろ。だが、二度と俺たちの前に姿を見せるな。次に会った時がお前の最期だと思え」
工藤は命からがらその事務所を後にした。
(やった…!やってやった!俺は、ついてる!やっぱり、俺はあの人に選ばれたんだ!)
彼は全てを失った。だが同時に、生まれて初めて何か大きなものから解放されたような、不思議な、そして、歪んだ高揚感に包まれていた。
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