第三十章:急所
「お会計は24万円」――その言葉を合図に、崇史の小手調べが始まる。彼の武器は、筋力ではなく、物理学の知識だった。
2032年8月6日、金曜日。夜。
崇史が中に入ると、そこは薄暗く、陰気臭い店だった。バーテンダーのいないカウンターが、虚しく埃をかぶっている。右奥に、申し訳程度に置かれたテーブルと、擦り切れたソファ。そこには、一人の女性が、長い脚を組んで、紫煙をくゆらせながら座っていた。
崇史が中に入ったのを見届けると、客引きの男は「それじゃ、ごゆっくり!」と軽薄な声を残し、パタン、と乱暴に扉を閉めた。完全に閉じられた空間。
すると、店の奥から、黒いスーツを着た男が音もなく現れた。
「いらっしゃいませ」
感情の読めない目で崇史を一瞥すると、男はソファに座るよう、顎で示した。もうこの時点で、普通の店ではないという雰囲気が、肌をピリピリと刺す。
崇史が言われた通りにソファに座ると、さっきまでタバコを吸っていた女性が、気だるそうにメニューを持ってきた。彼女が、例の「ナンバーワンホステス」なのだろう。
「60分、飲み放題、2400円でいいんだな?」
崇史は、あえて確認するように尋ねながら、変装用のサングラスを外した。
女性は「大丈夫ですよぉ」とだけ気のない返事をすると、崇史の返事も待たず、奥に控える黒服の男に目配せする。すぐに、気の抜けた、泡もほとんどないジョッキビールと、小袋から出しただけの乾きものが運ばれてきた。
女性は崇史の隣に腰掛けると、「私も、飲んでいいですか?」と、初めて崇史の方を向いて尋ねた。
崇史が頷くと、待ってましたとばかりに、黒服の男が、高級そうなワインのボトルと、瓶ビールを数本運んでくる。
崇史は、形だけでもと思い、まずいビールに口をつける。隣では、女が退屈そうにグラスを傾けている。
(もう、面倒くさくなってきたな…)
この、下手な芝居に付き合うのも、そろそろ限界だった。
「やっぱり、急な用事を思い出したから、もう帰るよ」
崇史がそう言うと、女性が甲高い声で言った。
「えー、もう帰っちゃうんですかぁ?じゃあ、お会計お願いしまーす!」
黒服の男が、すぐに伝票を机の上に置く。
そこに書かれていた金額は、240,000円。
(さぁ、ここからだ)
崇史は、心の準備をしながらも、舞台役者のように、驚いた声を上げた。
「えっ!?」
その瞬間、**『クロノスタシス』が一段階強くなった。店の空気が、変わる。
崇史の驚いた声に反応するように、カウンターの奥から、のそりと巨大な影が現れた。身長は2メートルはあろうかという大男だ。
(俺はまだ、何も文句を言っていないのにな)
崇史は、内心でそう思いながら、台本通りのセリフを言ってみる。
「これ…高すぎでしょ」
それを聞いた大男が、崇史の前に立ち塞がった。
「ドウカ、シマシタカ?」
大男の片言の日本語が、崇史の耳には、さらに間延びした低い音として届く。
「どうかしましたか、じゃないだろ?」
崇史は、自分の認識する時間に合わせて、わざと、一言一言を区切るように、ゆっくりと話した。
「60分、飲み放題、2400円。そうじゃ、なかったのか?」
崇史の言葉に、大男は、面倒くさそうに答えた。
「オネーサン、スワッタ。オシボリ、ツカッタ。ビール、ソシテ、ワインモ、ノンダ」
「…もういい」
この茶番を続けるのは、時間の無駄だ。崇史は、話を早めることにした。
「そうかそうか。分かったよ。でも、もし俺が、これを払わないと言ったら?」
その言葉に、それまで黙ってタバコを吸っていたホステスが、フッと、鼻で笑った。
「あんた、ここがどういう所か、分かってて言ってるわけ?」
「さあな」崇史は、肩をすくめる。「で、どういうところなんだ?」
すると、今まで壁際に立っていた黒服の男が、一歩前に出た。
「お前、腕に覚えがあるクチか?まあ、そうだとしても、ここでは大人しくしてた方が身のためだ。お会計さえしてもられば、お前は、これからも普通に生きていけるんだからな」
黒服が、大男に顎で合図する。
それを受け、大男が、巨体を揺らしながら、こちらに一歩、歩み寄った。
その瞬間、『クロノスタシス』**がさらに強くなる。世界が、より一層、ゆっくりと動き出す。
崇史は、さらに言葉を遅くして、宣告した。
「じゃあ、どうなるか。逆に、俺が教えてやるよ」
そう言って、崇史は大男に向かって、ゆっくりと立ち上がった。
大男が、崇史の言葉に苛立ったのか、巨大な拳を振りかぶる。彼の視界では、それは紛れもないスローモーション映像だった。轟音を立てそうな拳が、信じられないほど緩慢な軌道を描いて、自分に迫ってくる。
(デカいだけだ。動きが、単純すぎる)
崇史は、その拳を冷静に見極める。ブロックも、受け流す必要もない。ただ、半歩だけ横にずれる。それだけで、拳は空を切り、彼の顔の横を通り過ぎていった。
大男は、渾身のパンチを空振りさせられ、巨体がわずかにバランスを崩す。その、一瞬の隙。崇史には、それが永遠のような時間に感じられた。
(狙うは、軸足…!物理的な筋力では、この巨体に通じるダメージは与えられない。だが、人体の構造力学上の急所…関節を破壊すれば話は別だ)
崇史は、体勢を立て直そうとする大男の、右足の膝の外側を、全体重を乗せて蹴り抜いた。
「ぐっ!?」
ゴリ、と嫌な音がして、大男の巨体を支えていた膝が、ありえない方向に折れ曲がる。巨体が、バランスを失い、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちてきた。
(…もらった)
倒れ込んでくる大男の、がら空きになった側頭部。崇史は、そこに、練習してきた肘打ちを、渾身の力で叩き込んだ。
鈍い衝撃音。大男の意識が、完全に途切れるのが、崇史にははっきりと見えた。
2メートルの巨体は、もはやただの肉塊と化し、地響きを立てて床に倒れ伏した。
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