第二章:軋む家
2032年6月22日、火曜日。19時50分。
電車に揺られ、崇史は自宅最寄りの駅に降り立った。駅前の商店街は、彼が上京してきた頃とはすっかり様変わりしていた。昔ながらの八百屋や精肉店はシャッターを固く閉ざし、代わりに、彼の知らない言語の看板を掲げた飲食店や雑貨店が煌々と光を放っている。すれ違う人々の会話も、S国やC国の言葉が多い。彼らが自分たちのコミュニティを形成し、楽しげに語らう一方で、古くからの住民である日本人の老人たちが、どこか不安げに、あるいは諦めたように足早に通り過ぎていく。
この国は、静かに、そして確実に乗っ取られつつあるのではないか。
そんな肌感覚の恐怖が、彼の胸をじりじりと焼く。
いつもの角を曲がると、練馬区にある自宅が見えてきた。
その前に、見慣れない白いワンボックスカーが止まっているのが目に入った。「水道メンテナンス」と書かれた車体。こんな時間に珍しいな、と首を傾げながらも、彼は玄関のドアに手をかけた。
鍵は、開いていた。
警鐘のように、嫌な予感が胸を打った。妻はいつも、自分が帰るまで必ず鍵をかけているはずだ。
一瞬、メンテナンス業者のことを思い出す。彼らがいるから開いているのかもしれない。そう自分に言い聞かせたが、普段とは違う違和感が、思考の片隅に棘のように引っかかったまま抜けない。
ゆっくりとドアを開ける。
「ただいま」
いつものように声をかけるが、しんとした静寂が返ってくるだけだった。
玄関に足を踏み入れた瞬間、彼の視線がふと床に落ちた。メンテナンスが来ているなら、業者の靴があるはずだ。だが、そこには何もない。あるのは、自分の革靴と、妻と娘の小さなスニーカーだけだった。
何かが、おかしい。
彼は廊下を進んだ。心臓の鼓動が、やけに大きく耳につく。リビングのドアは、わずかに開いていた。隙間から漏れる光の向こうから、何かを引きずるような、微かな物音が聞こえた。
「美咲…? ミク…?」
声を潜めて呼びかけてみるが、やはり返事はない。
息を殺し、汗ばむ手で、彼はゆっくりとわずかに開いたドアを押し開けた。
鉄の錆びたような、甘ったるい匂いが鼻をついた。
目に入ったのは――
散乱した家具、ひっくり返ったおもちゃ。そして、何かの液体でべっとりと濡れた、じゅうたんの禍々しい黒い染み。
彼の思考が、白いノイズに塗り潰された。全身から急速に血の気が引いていくのがわかる。その光景が意味するものを、脳が理解するよりも早く、魂が悟ってしまった。
その瞬間、背後のドアが閉まる音。振り向く暇もなかった。後頭部に、硬い何かが叩きつけられる鈍い衝撃。
視界が赤と黒に明滅し、全身の力が抜けていく。前のめりに倒れ込みながら、意識が遠のくのを感じた。
「…これでよし。後は政治家様が何とかしてくれるだろう」
そんな冷酷な会話を最後に、崇史の意識は完全に闇へと沈んでいった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
今回の話はいかがでしたでしょうか?
もし「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、
ぜひページ下の☆☆☆での評価や、ブックマーク登録をしていただけると、
めちゃくちゃ執筆の励みになります!