第二十一章:データの残響
中吊り広告が映す、救いようのない国の姿。激しい頭痛と共に蘇るのは、自らを『ユニット』と定義した、あの無機質な声だった。
2032年8月2日、月曜日。18時ごろ。
崇史は、がらんどうになったサーバーラックの前で、静かに立ち尽くしていた。背後では、心配そうな上司がまだ何か言っていたが、その声はもう彼の耳には届いていなかった。
「少し、体調が優れないので。今日はこれで失礼します」
感情のこもらない声でそう告げると、崇史は誰とも視線を合わせず、オフィスを後にした。もう、ここに戻ることはないだろう。そんな予感がした。
夕暮れ時の電車は、家路につく人々で混雑していた。
崇史は吊革に掴まり、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。
(βグリッドのデータ基盤は、川越が盗んでいった…。もう、S国の手に渡っているだろうな…)
俺が仕掛けようとしていた「罠」は、仕掛ける前に、敵に利用された後だった。敵の方が、何枚も上手だったということか。
怒りが、胸の奥で、黒い炎のように静かに燃え盛る。だが、その怒りが、一体何に対しての怒りなのか、もう自分でもよくわからなかった。川越への怒りか。家族を殺した犯人への怒りか。それとも、腐りきったこの国そのものへの怒りか。
(日本は、いつからこんな国になってしまったんだ)
崇史は、ふと、車内にいる他の乗客たちに目を向けた。
誰もが、一日の仕事に疲れ切った顔をしている。スマートフォンの小さな画面に視線を落とす者、虚ろな目で宙を見つめる者、吊革に全体重を預けるようにして、浅い眠りを貪る者。みんな、疲れている。必死に働いて、この国を支えているはずの人間が、生気を失っている。
そして、その彼らの疲労は、この国の糧にはなっていない。彼らが稼いだ富も、彼らが作り出した技術も、そのほとんどが、見えないところで、海外の連中に吸い上げられている。
誰も、そのことに気づかない。いや、気づいていても、見て見ぬふりをしている。日々の生活に追われ、声を上げる気力さえない。
その時、崇史の視線が、目の前の中吊り広告に吸い寄せられた。
週刊誌の、扇情的な見出しがいくつも並んでいる。
『絶望の国~JKビジネスの告白『もう、こうしなきゃ生きていけない』』
『人気俳優A、衝撃の薬物逮捕!入手ルートは外国人組織か』
そして、その隣には、行政の広報広告。
『ようこそ日本へ!帰化申請で補助金1200万円!医療費無料と住宅補助で快適な新生活を!』
崇史は、その文字の羅列を、ただ呆然と見つめた。
日本人が必死に働いて稼いだ金で、外国人が裕福に暮らす。その一方で、この国の未来を担うはずの若者は、体を売らなければ生きていけない。そして、世間の関心は、くだらない芸能人のスキャンダル。
何かが、根本から狂っている。
(いったい、何がどうなってるんだ…)
ふつふつと、腹の底から、黒いマグマのような怒りが湧き上がってくる。
その時だった。
今までにない、猛烈な頭痛と目眩が、崇史を襲った。ガン、と後頭部を鈍器で殴られたような衝撃。視界がぐにゃりと歪み、目の前の広告の文字が、意味をなさない記号となって踊る。立っていることさえできず、彼はふらつく足で、次の駅に転がり込むように電車を降りた。
ホームの冷たい床に、たまらずにしゃがみ込む。
「ぐっ…うぅ…!」
頭が割れるように痛い。耳の奥で、キーンという高音が鳴り響いている。
その、意識が途切れそうになるほどの痛みの中で、彼の脳裏に、あの時の光景が、鮮明な映像となって蘇った。
どこまでも広がる、青白い光の海。
そして、直接脳に響いてきた、あの無感情な文字列――。
『ようこそ、サーバー: α1.2-Laniakea-Virgo-08::Unit: Soul.KT-32[Flag:Detonator]』
その無機質な言葉の中で、崇史の意識に突き刺さったのは、彼を定義する、たった一つの単語だった。
『――ユニット』
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