第二十章:空のサーバー
復讐の餌となるはずだった『βグリッド』。だが、裏切り者は崇史の一手先を行っていた。残されていたのは、空っぽのサーバーだけ。
2032年8月2日、月曜日。午前10時ごろ。
香と別れた後、崇史は一人、思考を巡らせていた。
(川越…。あいつが、S国と繋がっていた裏切り者…)
怒りが、静かな炎となって心を焼く。だが、同時に彼は活路を見出していた。
(川越は、犯人たちと繋がっていたはずだ。電話で連絡を取り合っていたのなら、その痕跡を追えば、黒幕にたどり着けるかもしれない)
そして、もし川越がすでに消されていたとしても、まだ手はある。
(俺が作った『βグリッド』。あのシステムのデータは、まだ会社の専用サーバーに残っているはずだ。敵が喉から手が出るほど欲しがる、完璧なシステム…。そうだ、これを『餌』にすればいい。データをわざと流出させ、食いついてきた奴らを、一人ずつ…)
崇史の目に、冷たい光が宿る。彼は、復讐のための具体的な計画を胸に、数週間ぶりに会社のオフィスへと向かった。
オフィスに足を踏み入れた瞬間、『クロノスタシス』が微弱に発動し、崇史の世界がほんのわずかにズレた。懐かしいはずの場所。キーボードの打鍵音、サーバーの駆動音、社員たちの話し声。その全てが、まるで分厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように、やけに遠く感じられた。
(もう、俺はここの人間じゃないんだな…)
そんなことを考えていると、彼の姿に気づいた上司が、心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「崇史!大丈夫なのか、君!退院したとは聞いていたが…」
「ご心配をおかけしました」
崇史は、感情を押し殺して頭を下げる。
「いや、いいんだ。それより、本当に残念だったな。君のあのシステムなら、間違いなく採用されていただろうに…」
上司は、心から悔しそうに言った。その善意からの言葉が、今の崇史にはナイフのように突き刺さる。
「ところで、川越はどうしていますか?」
崇史が単刀直入に尋ねると、上司は意外そうな顔をした。
「ん? 川越か? あいつ、急に体調不良だとか言って、もう2週間くらい休んでるんだよ。プロジェクトが終わった途端にこれだ。全く、人を使う立場にもなってほしいもんだよ」
二週間前――。それは、事件が起きた、まさに直後だ。
崇史の中で、疑惑が確信に変わる。
「βグリッドのデータはどうなりましたか?」
「ああ、それなら専用サーバーごと、プロジェクトルームに保管してあるはずだ。お前の指示だって、川越が言ってたぞ。『崇史さんが戻ってきた時のために、いつでも起動できるよう完璧に管理しておきます』ってな」
その言葉が、最後の引き金だった。崇史は上司に一礼すると、かつて自分たちのチームが使っていたプロジェクトルームへと早足で向かった。カードキーでロックを解除し、中へ入る。
部屋の中央には、見慣れた専用サーバーラックが鎮座していた。だが、その光景に、崇史の心臓は嫌な音を立てた。彼はサーバーラックに駆け寄った。そして、透明なサイドパネル越しに、中を覗き込む。
本来そこにあるべき、『βグリッド』の心臓部。彼自身が設計した、データが量子的に圧縮・暗号化されているはずの、黒いストレージユニットが。
ごっそりと、物理的に抜き取られていた。
残されているのは、無数のケーブルが虚しく垂れ下がる、空っぽの空間だけだった。
念のため、自分のデスクに戻り、PCを起動する。だが、やはりローカルには何のデータも残っていない。
全てが、手遅れだった。
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