第九章:新宿の混沌
仮説を証明するため、人混みの中へ。初めて振るう暴力が、崇史に異質な全能感をもたらす。
2032年7月14日、水曜日。19時ごろ。
自宅で仮説を立てた崇史は、その検証のため、再び外へ出ることを決意した。向かうは新宿。
東京の中でも有数の、混沌とした人波が渦巻く街だ。
練馬高野台から練馬駅へ。そこで都営大江戸線に乗り換え、都庁前を目指す。
電車に乗り込んだ瞬間から、能力の兆候ははっきりと現れた。
自宅にいる時よりも、周囲の時間が明らかにゆっくりと流れている。
車内の乗客たちが、まるで巻き戻し中のビデオテープのように、ぎこちない動きで揺れている。
彼らの話し声も、低く、くぐもって聞こえる。
(やはり、人が多いと顕著に現れるのか……) 崇史は、脳内でその仮説を再確認した。
そして、もう一つ、ふと彼の頭をよぎる疑問があった。
(そういえば……空腹を、まったく感じない) 家族が襲われてから、まともに食事を摂っていない。
あれだけの時間何も食べていないのに、身体は重いものの、飢えを感じないのは明らかな異常だった。
これも、この「能力」と関係があるのだろうか?
(空腹を感じない。異常なほどの疲労のなさ。それに怪我の回復の早さ……。これは、単なる幻覚ではない。自分の体が、人間としてあってはならない状態に変化しているのではないか?)
都庁前駅で降り、地上に出る。
目に飛び込んできたのは、高くそびえる都庁ビルと、その下に広がる巨大な街並み。
崇史は、歌舞伎町へと足を進めた。
夕暮れ時、ネオンが灯り始めた歌舞伎町は、すでに多くの人でごった返していた。
雑踏の中、彼の体感時間はさらに遅くなる。
人々の動きは一層スローモーションになり、それぞれの顔の表情や、小さな仕草までが克明に見て取れた。会話の断片も、間延びしたように耳に届く。
崇史は、この異常な感覚に身を委ねながら、周囲の情報をいつも以上に詳細に、そして冷静に認識していた。 その時だった。
歌舞伎町の雑踏の片隅、一本裏手に入った薄暗い路地で、崇史の視線がある一点に釘付けになった。
若い女性が、数人の男に囲まれている。男たちは威圧的な態度で女性に詰め寄っており、女性は必死にうつむき、体を縮めていた。崇史の目には、その緊迫した状況が、いつもよりわずかに遅く、しかし鮮明に映る。
(あれは……揉め事か?関わらない方がいい……)
崇史は、これまでの人生で暴力的な争いとは無縁だった。運動も苦手で体力もなく、反社会的な輩と絡んだことなど一度もない。
目の前の状況は明らかに危険だ。彼は、一度は見て見ぬふりを決め込み、その場を通り過ぎようと足を踏み出した。 しかし、その瞬間、男の一人が崇史の存在に気づいた。
「おい、てめぇ、見てんじゃねーよ、あぁ!?」 男の荒々しい声が、崇史の耳に届く。
その声が、ほんのわずかに、しかし確実に低く、引き伸ばされたように聞こえた。
男が、こちらへ向かって一歩踏み出し、その顔が怒りで歪むのが、コマ送りのようにゆっくりと迫ってくる。 その瞬間、崇史の脳裏に、かつて妻と娘を守れなかった悔恨がフラッシュバックする。
そして、彼の身に明確な「危険」が迫ったことで、能力のレベルが一段階引き上げられた。
時間が、まるで粘土のように引き伸ばされ、世界が明確なスローモーションになった。
男の怒りに満ちた顔の筋肉の動き、拳を握りしめる指の関節の軋み、そして彼の口から発される次の罵声。
そのすべてが、崇史には詳細に、そして引き伸ばされた時間の中で認識できた。
周囲の雑踏の喧騒も、まるで深海の底にいるかのように、遠く、鈍い音として響く。
男が崇史の胸ぐらを掴んだ。
崇史は反射的にその手を払いのけようとするが、彼の腕はまるで水中で動くかのように重く、思うように払いきれない。
(そうか、時間が遅く流れたとしても質量は変わらないのか。となるとこちらが受ける衝撃も変わらないという事になるな)
物理学を専攻した崇史の頭脳は、瞬時にその原因を弾き出す。
無理に力でねじ伏せようとしても、彼の貧弱な身体能力では通用しない。
(であれば、どうする?)
男の顔が、ゆっくりと崇史に迫る。その口元が、さらに罵声を吐き出そうとしているのが見えた。
崇史の視線は、その男の顎に固定された。ここなら、質量に関わらずダメージを与えられる。
崇史は、全身の力を顎に集中させ、躊躇なく男の顎を打ち抜いた。
鈍い音が、スローモーションの中で響く。男の目は大きく見開かれ、意識が遠のくのがはっきりと分かった。男の体がゆっくりと崩れ落ちる。
残りの男たちが、崇史の異常な動きに気づき、一斉に彼の方へ向き直る。彼らの動きもまた、スローモーションだ。崇史は、倒れた男たちを一瞥すると、女性の手を掴んだ。
「大丈夫ですか? 早くここを離れてください!」 崇史は早口で女性に告げ、彼女の手を引っ張った。
しかし、女性の身体もまた、彼には途方もなく重く感じられた。
スローモーションの中で、女性はよろめきながらも、なかなか崇史の動きについてこられない。
(これでは逃げ切れない……!)
そう判断した崇史は、再び立ち止まった。彼は、残りの男たち全員の顎を狙う。
スローモーションの中で、男たちのわずかな隙間、体の重心、そして動きのパターンを瞬時に見抜き、正確に顎を打ち抜いていった。
鈍い打撃音が、次々と路地に響き渡り、男たちは糸の切れた人形のように、ゆっくりと地面に倒れ伏していく。
全ての男が倒れたことで、崇史の中で『危険』のレベルが下がる。
引き伸ばされていた時間が、徐々に元の速度を取り戻していった。
女性は、何が起こったのか理解できないまま、呆然と崇史を見上げていた。
その恐怖と困惑が入り混じった表情も、今では普段と変わらない速さで彼の目に映っていた。
崇史は、倒れた男たちを一瞥すると、女性の手をしっかりと引き、薄暗い路地から人通りのある場所まで出た。
一息ついたところで、女性は崇史の手を振り払った。
女性は何か言いたげに崇史の顔を見つめたが、やがて恐怖が勝ったのか、何も言わずに人混みの中へと走り去っていった。
崇史は、静かに路地に立ち尽くした。
心臓の鼓動は速い。肉体の疲労は感じるが、それ以上に、今まで感じたことのない全能感にも似た、しかし、どこか異質で不気味な『力』が、確かに彼の中にあることを実感していた。
これは、一体何なんだ。そして、この力は、誰が何のために与えたのか。
まだ答えは見つからない。
だが、彼はこの力が、あの惨劇の真相を解き明かすための鍵となることを、直感的に悟り始めていた。
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