カグワト
カグワト
王よ、この寂しい場所へようこそおいで下さった。この老骨から得られることがあるのならばなんでもきいて欲しい。私には語る義務があるだろう。私は最後の生き残り、前王朝の最後の一人なのだから。
もちろん、あなたを恨んでこんなことを言うわけではない。この国はあの日からもうずっと、乱れ争いが絶えず民も土も疲弊していた。それをとにもかくにも収束させたのは若い王よ、貴方なのだから。
さて、なんの話が聞きたいと伺ったのだったか。そう、あの出来事を。前王朝最後にして最大の醜聞――乱を招いた王太子セイエンの失踪の顛末を。
ご所望とあれば始めよう。あの出来事はあそこから、最後のカグワト――私の叔父インヤの最期から始まった。
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あれは確か私が九歳の冬のこと、当時の国王、つまり私の父が、破傷風で高熱を出した折りのことだ。
破傷風ということになってはいるが、あの事件、どうも謀略の噂があった。その頃、父は足下の豪族の越境問題についてのごたごたに巻きこまれていたから、そんな噂もたったわけだ。
父が犬追会の際に落馬して怪我をしたのは事実だが、そもそもあの父が落馬などするというのが不自然だったし、そのあと二日もしてから急に熱を出すというのもおかしかった。父は入浴の際に薬湯を使うのが習慣だったから、それに何か混ぜ込まれていて傷口からしみたんじゃないかなどと言われもしたが、そんなことはみんな噂だ、誰にも本当のところはわからない。
朝、身体がだるいようだと言っていただけの父の発熱は長引いて、二日目の夜にはもう目も見えなくなってね。これは危ないんじゃないかと皆思い始めた。これは「カグワト」の出番じゃないかと。
カグワト? ああ、カグワトをご存知無いのだね、若い王よ。それは古い習慣――古い古い習慣、この地方独自のならわしだ。「カグワト」はつまり家名を継ぐべき嫡男のための「守り」とでも言うのかな。大抵はその家の次男か庶子が、十三かそこらのときにカグワトの儀式を行って長男に仕えるものだ。いや、護りといっても呪術的なもので、カグワトは長男に付いて回るわけでも無い、ずっと家に垂れこめているものだ。
貴方のような方の耳には随分奇妙な話に聞こえるだろうが、この国にとって「カグワト」は少し名の通った旧家にとっては当たり前の慣習だった。王家でなくても大貴族の家では大抵行われていたし、軍人の家では特に、他家から養子を迎えてでも行っていた。今となっては皆、迷信だというだろうが、カグワトの死亡率が異様に高かったのもまた事実だ。長男の長旅の間や、出征の際などにカグワトが死ぬと、皆、カグワトが主の命を守って代わりに死んだのだと納得していたね。また、帰ってきた主に聞いてみると不思議と危ないところを助かったり、病気になって死にかかったりという経験をしているんだよ。昔はそれを疑うものなどいはしなかった。主になんの障りも無く、大往生が成った場合には、それはカグワトの誉れとして称えられた。カグワトの行いが正しく、潔斎が厳粛であったことが、主の健康を助けたものと考えられたからだ。主に先立たれたカグワトは、神殿に預けられて余生を過す慣わしだが、殆どが主の葬儀に際して自らを供物と為したり、或いはそこまでしないでも後を追うようにすぐに亡くなったりしたものだ。
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さて、その頃の朝廷といえば、既に末期症状というのか王権も揺らぎ不安定だった。そのため地方豪族の力が強く、小競り合いと謀略が絶えなかったから、父はたくさんのカグワトを死なせた。インヤ叔父は王の末の弟、王にとってたしか三人目か四人目の「カグワト」だ。乳兄弟を含めてね。カグワトは原則的には実の弟がなることが多いが、別に血が繋がっていなくても構わない。身寄りの無い子供を貰って来たり、仲の良い乳兄弟に頼んだりだ。ただしそういうカグワトはあまり一般的ではないし、やっぱり血のつながりがないとあまり効果も無いと言われているが、まあ、無いわけではなかった。特に実家が貧しい場合なんかには、望んでカグワトになるものもいたようだ。社会的死者になってしまうとは言え、一生の保障をされるわけだし、カグワトは家内では大事にされるしね。
意外かもしれないが、カグワト個人の社会的地位は無に等しいのに、カグワト、という存在自体は非常に貴いものとされていた。カグワトは奴隷や生贄では無い。さげすまれたりおとしめられたりということは有り得なかったし、世俗的な野心を持たないのならば、庶子や養子にとっては悪くない身の振り方と考えられていた。部屋住みで一生冷や飯を食って暮らしたり、役職や家名を買うのにしゃかりきになったりしないでも生きていくことができる。主もカグワトを大切にして、実家の面倒も良く見てやるしね。妻や兄弟を亡くしても喪に服すのは一年で済むし、新しい妻を迎えるのは早いほうがいいなどと言われるが、カグワトを亡くせば三年は喪に服して、慶事はもちろん祭事にも出席は出来ない。もちろん、カグワトの引継ぎの儀は別だが、それを除けばそう、親を亡くしたときと同じだけ長い。カグワトというのはそういうものだった。
でも、まあ、インヤ叔父はもちろん、父の実の弟だった。間に二人兄弟を挟んでいたが一人はカグワトとして死んだし、もう一人は早々と結婚してしまっていたからね。カグワトは必ず、清童でなければならない。そのあたりは神殿に使える巫女と一緒だ。カグワトは神に仕えるように主に仕えるわけだ。
叔父は十三で父とカグワトの儀式を交わした。父が何人ものカグワトを死なせてしまった一連の争いもちょうど一段落ついたところだったのも幸いし、それから二十年以上何事も無かった。前任のカグワトの喪が明けるとすぐに父は最初の結婚をし、まもなく嫡子のセイエン――わたしの兄、にも恵まれた。
それは叔父が身を保つこと潔癖で、祈りが真摯だったからだ。主の危機に際せば身命を賭しても防ぐのは当然ながら、そも、そんな危険な場面を最初から寄せつけないよう主の代わりに精進潔斎するのがカグワトの本来の役目だ。
叔父は十三で父のカグワトに迎えられてからずっと、宮殿の北の離れの塔に住んでいた。
そう、今私たちがいるここのことだ。あの頃は庭もこんなに荒れ果ててはおらず、塔も綺麗に手入れされて人の出入りもあった。国王のカグワトが住居としていたのだから。
カグワトは社会的には死んだようなものだ。結婚も許されず、公けの場に出ることも無い。ただ主の無事と成功を祈って日々を過ごす人柱のようなものだ。若い男が毎日を建物の一室に閉じ込められて、ただ写経やら読書やらして過ごすわけだから、考えても拷問のようなものだが、当時はカグワトに選ばれればそれが当然のことだった。
当然叔父もこの塔から一歩も出ずに日々を静かに暮らしていたが、偶に庭に出ることもあった。それは大抵、父が勧めて一緒に散歩するんだが、そういう日はそれこそ大騒ぎだった。宮廷中の庭から綺麗に人払いをして、叔父上は薄絹を被って顔を隠す。それでも足りなくて父は自ら扇をかかげてね。国中広しといえども王を扇持ちに使うのはインヤ叔父ただ一人よ。
叔父はそれは優しい、穏やかな方だった。不自由なこともあったろうが一切面には表さなかった。声を荒げるのを聞いたことも無い。
兄に連れられて初めて北の塔を訪れたのは私が五つのときだ。無断で父のカグワトに会うことには酷く緊張したし、後ろめたかった。カグワトは普通、当主以外のものにはたとえ家族に不幸があったとしても会ったりはしないものだ。巫女は神殿から一歩も外に出ないし、ましてや下々のものと直接言葉を交わしたりはしない。カグワトも似たようなものだ。自分は主の肩のようなものだから、主と会うならまだいいが、それ以外の他人と話をするなんて穢れだというわけさ。
しかし、まあ、兄は王太子の高位にある方だったし、私はまだごく幼かったので、周りのものもまた父王も、大仰にその訪問を咎めたてたりはせず、見逃してくれているようだった。
叔父は、十三の歳からずっと王のほかには殆ど人と言葉を交わすこともなしに過ごしたためか、子供のように純真無垢な方だった。兄は鋭く、厳しい方だったけれど、私と叔父にだけは優しかった。叔父と話をすると心が休まると、度々北の塔を訪れているようだった。
インヤ叔父と父とはふたまわりは歳が離れていたから、兄は私とより叔父とのほうが歳が近いくらいだった。父は兄の側に年近いものを置かなかったし、兄も頑ななところがあったので端のものに心を許すようなことはなかった。そのため、兄の友人と呼べるものは、もしそういう不遜な言い方が許されるならばインヤ叔父ただ一人だった。
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父の容態が悪化したその晩、王太子である兄のセイエンは二十六で、私は九つだった。
正妃である母や姉達、父の妾姫たちが病床の枕もとに詰めていた。王太子である兄だけは一歩離れてその様子を見守っていた。兄は大柄な身体にごく簡素な部屋着、王太子を象徴する紋様を刺繍した飾り帯を腰に締めていた。今ではもうその名は禁忌となって、その人柄も知られていないが、彼は素晴らしい為政者の素質を持って知られていた。学問もできたし、剣を取らせれば負け知らずで、何より美丈夫だった。国中の娘たちの憧れの的で、私の誇りだったし、たった一人の主となる人でもあった。
私の上には姉が三人いたけれど、王太子の初めての弟は私だったんだ。兄はまだカグワトを持っていなかったが、私が十三になるのを待ってその契りを交わすことがもう決まっていた。王族の長子が二十歳を超えてもカグワトを持たないなど異例のことだったけれど、兄が私の生まれたときに、その成長を待ってカグワトに迎えると宣言したのでそういうことになった。兄は父の最初の妃の腹だから、私とは母が違うが、幼い頃から私を側においてとても可愛がってくれていた。私は父母より兄のほうに懐いていたくらいだ。
室内には典医にごく近しい王族、それぞれの使用人だけが集まっていたが、部屋の外には主だった文官武官が控えいて、低く抑えた声で父の死期が近いらしいことを囁きあっていた。その言葉の端々にはカグワトである叔父の名前が婉曲な表現で聞かれ、乳母に抱かれた私は、その陰鬱な雰囲気にただおびえていた。
「サジャ」
兄が低い声で私を呼んだ。私は乳母やの胸から降り、皆の嘆きを邪魔しないようにそっと兄に寄り添った。上背のある兄がかがんでそっと私の耳元に口を寄せ囁いた。
「サジャ。これから、北の塔へ行って――お前、一人で北の塔へ忍んで行けるか」
「行けます」
兄の囁きに、幾分緊張して答えた。夜分に一人で離れの北の塔を訪れるのは、幼い私には恐ろしいことだったが、敬愛する兄の役に立ちたい一心で逸っていた。
「よし、良い子だ――これを、な。叔父上に――インヤどのに渡してきてくれ。人伝てではならぬ、かならず直接に」
「わかりました」
兄は帯の間から、小さく折り畳んだ普段使いの紙を取り出し、私の手に握らせた。
「人に見せてはならぬし、お前が見てもならぬ。できるな」
「もちろんです。ひとの手紙を覗くなどと、行儀の悪いことは致しません」
憤然と抗議する私に、兄は少し、笑った。
「よい子だ。さあ、行っておいで。私はもうしばらくこの場を離れられぬ」
手紙を受け取り、自分の帯の間に押し込んだ。乳母にもう眠いと訴えると、彼女は少し渋ったが、むずがられるよりはましだと考えたのだろう、溜息をついてそっと私を連れ出た。
もちろんまだ眠くは無かった。寝室を整え、湯殿の支度をしようとする乳母の介添えを断ると、彼女はいそいそと父の病室へ戻っていった。臨終の遺言を聞き逃して自分の権利を他の女たちに誤魔化されるなどとんでもないというわけだった。彼女にも父の手がついていたことを知ったのは後になってからだ。
上の空の彼女が、私が寝つくまで側にいたがらなかったのは幸いだった。私は素早く野歩き用の短い着物に着替え、サンダルを履いて灯りを消すと、バルコニーから庭へ降りた。
深更、一人塔を訪れた私を、叔父は驚いた様子も無く迎えた。彼はいつも真っ白な死装束を身に着けていたが、それはいつでも主のために命を捨てるという覚悟を表すカグワトの正装だった。首まで覆った白絹には一点の汚点も無くて、銀糸で刺繍された水と土の紋章が月光を微かに反射していた。
「叔父上」
叔父は寝室の寝椅子に横たわって書物を手にしていた。幼い甥の訪問に身を起こし、自分の隣に座るようにと私を促した。
「陛下の御容態は」
開口一番そう尋ねる。父の危篤は既に叔父の耳に入っているようだった。
「あまり、よくはありません…」
叔父の顔色が、いつにも増して悪いようで気になった。もともとあまり陽の下にも出ないので、肌は抜けるように白い。それは年を経ても変わらなかった。人が歳を取るごとに澱のように凝って肌や眸子を濁らせる、その何かが叔父には欠けていたのだろう。
「そう……では、明日、かな」
表情を翳らせてそう呟いた。
「明日? 」
「なんでもない。こんなに晩くに良く来てくれたね」
「はい、あの――これを兄上から言付かって来たので」
預かった紙片を懐から取り出し寝椅子の端に置く。
「セイエン様から……」
叔父素早く手紙を手に取り封を剥した。一読して、目に見えるほど顔色が失せる。
「叔父上? 」
「な……何でもない、サジャ……」
そうは言われても明らかに動揺している。紙片を胸に当て、もう片方の手で唇を押さえて何かめまぐるしく考えを巡らせている。
やがて、思いを定めたように息をつき、窓際の文机に歩み寄った。まだ細い灯りの点いたままだったランプを引き寄せ、手にある手紙に火を点ける。またたくまに燃え上がり、灰となったそれを、窓から吹いて散らした。そうしてから、私を招き寄せ、こう囁いた。
「サジャ、忠実な子。私の遣いを果たしてくれるね」
「はい、叔父上」
手紙に対する返事を口頭で伝えるのだと思い、私は疑問も持たず答えた。
「今夜のうちに殿下の――セイエン様の寝所に訪れて、夜のうちに支度をなさり、城を抜け出すようにと伝えなさい」
「叔父上! 」
私は非難の声を上げた。父の大変なこの時期に、そのようなことが許されるわけが無い。
「黙ってお聞き。これはどうしても必要なことなのです。明日の朝、兄上がいらっしゃらないのに人が気付いたら、兄はシュクラの神殿に、大切な用を果たしにいらっしゃったのだと答えなさい。これは王太子にしかできない遣いだし、陛下の御病状を左右する重大な用件なのだと。そのために私が遣いに出したのだと答えなさい」
「えっ……はい」
私は渋々納得した。そういうことなら仕方が無い。それは確かに重要な用のようだし、確かに急がなければならないだろう。それにシュクラの神殿ならばすぐ近くだ。
「サジャ、誤解してはいけない、これは人に聞かれたらそう答えなさい、ということだ。セイエンにはこう伝えなさい――ヒルルクの森の東の道の入り口に、昔私に仕えていた乳母の息子が森番として住んでいる。男の名前はビュコックで、インヤの遣いだと伝えれば二、三日ならば潜ませてくれる」
ヒルルクまではぶっ通しで馬を駆ってもまる一日はかかる。私は混乱した。あんな辺鄙なところにどんな理由があって叔父は兄を遣いに出すのだろう。もしや自分の知らない何か重大な意味があるのだろうか。
「それから先は私が遣いを出す。とにかくそれを待って潜んでいるようにと言っておくれ。決して事を焦ったり、荒げたりしようなどと考えないようにと、これは特に私の言葉として強く伝えておいておくれ」
「――はい」
納得は出来なかった。納得は出来なかったが、そう答えるしかなかった。それほどに叔父の声は真剣で、私の手を握る指は氷のように冷たく、強張っていた。
「さあ、いい子だ、サジャ、お前はセイエンのカグワトになる子供、そういう運命だ。お前はそれを喜んでいる、そうだろう? 」
「ええ、はい、もちろん」
戸惑いつつもこれにははっきりとそう答えた。
「私もそうだ。私も。ああ、これはセイエンには内緒だよ……」
「叔父上」
叔父の奇妙な声音に抗えず、なすがままに額に接吻を受けた。今まで別れ際にそんなことをされたことはなかった。まるで今生の別れのようで、ますます不安になる。
「さあ、もうお行き。暗いから気をつけて」
そっとうながされて部屋を出る。
兄は既に私室に引き取っていた。私の訪れに驚いたところを見ると叔父からの返信は期待していなかったらしい。まだ寝台には入っておらず、簡素な狩衣に皮製のズボンを重ねているところだった。宮廷人とも思えぬ粗野な支度だ。
「どうした、サジャ」
真夜中だというのにそのような装いでいるのを見られて、兄は一瞬、ばつの悪そうな表情を見せたが、穏やかに私を促した。私は叔父の伝言を繰り返す。
「ビュコック…。そんな男がいたのか。では、叔父上は前々からちゃんと考えておられたのだな……」
態度には表さないようにしているのが判ったが、兄の目には明らかに喜色が浮かんだ。
「私を信じていてくれたのだ」
「兄上、どういうことなのですか」
果たしている役割の得体の知れなさに、兄に不安をぶつけた。
「こんな時期に兄上が王宮を空けるなどと騒乱のもとになりましょう。ましてや父上の御病気は謀略がもとだなどと囁かれているのに。叔父上はどういうつもりであんなことを仰ったのでしょう。兄上は、どうなさるおつもりなのです。本当にあんな辺鄙なところへいらっしゃるおつもりなのですか」
「これは叔父上の為なのだ、サジャ」
父のため、ではなかったのか。そんな疑問を感じる間もなく、私は兄にすがった。
「では、私もお連れ下さい」
九つの私が付いて行ったところで足手まといにしかならないのはよく判っていた。それでも言わずにいられなかったのだ。兄の様子や別れ際の叔父の行動が、私を酷く不安にしていた。
「私を兄上のいない宮廷に置いて行くなどなさらないで。心細いのです。私を一人にはなさらないで。父上が亡くなるかもしれないというこの時期に」
「大丈夫だ、心配するな。私は戻る。必ず戻る。お前はここに残ってくれなければならない。私の役に立ってくれるだろう」
「ええ……」
「では、行かせてくれ。私だけならともかく、お前まで消えてしまったら大騒ぎになるし、王妃も心を傷めよう。私にはしなければならないことがあるが、必ずお前のもとに戻る。だから、叔父上に言われたとおり、人に尋ねられたら私はシュクラの神殿に行ったと答えるのだ」
「供も無しに? 」
「そうだ。沈黙の誓約をして発ったと言ってくれても良い。帰りが遅くなるかもしれないが、斎戒沐浴しているのだろうとでも誤魔化してくれ」
「私にそんなことが出来るでしょうか」
「できる。お前は私のカグワトだろう? 」
「はい」
「まだ、儀式は交わしてはいないが。私の無事を祈って待っていてくれ」
「待ちます」
私は答えたが、念の為もう一度、必ず戻ってくるという誓約を立てさせた。それでようやく満足し、窓から出ていく兄を見送った。それは簡単な印を切って誓いの呪文を述べるだけのものだが、シュクラの民がこの誓約をしてその言葉を裏切る事など有り得ない。ましてや兄は王太子だ。
兄を見送った後しばらくそこに居て、彼が衛兵か何かに見咎められて戻って来はしないかと耳をすませていたが、そのようなこともないようで、さすがに眠気がのぼってきたのもあり、明りを吹き消して部屋を出た。
翌朝は乳母に早くから起こされて目が覚めた。兄の失踪は知られていたがどちらかというと、父の危急の際であるのに城を空けるなんてと非難されるに留まっており、まだ公にはなっていないようだった。すぐ戻るだろうと思われていたのだ。
もともと兄は城を空けることが多く、度々父に叱責されていた。城下に恋人がいるのではなどとも囁かれていたが黙認されていたのだ。兄に可愛がられている私が行き先を知っているのではと一応問われたので、叔父に言いつけられたとおりの事を答えた。乳母は得心し、そのように大臣たちには伝えましょうと答えた。叔父はと問うと、この早朝から一切の食事と水、人を断って精進潔斎に入っているとの答えだった。
「父上の御無事を祈願なさっているのでしょう」
「そうです。いよいよカグワトの本領、誓約の儀をなさるそうです」
「うけいのぎとは、どんな」
「カグワトの血と心臓を神様に捧げて、王の代わりに自分の魂を取って下さいとお祈りするのですよ」
乳母は優しく答えたが、私はそのような儀式は初耳だった。カグワトが主の身代わりに死ぬ事があっても、そのような儀式を介してではないし、亡くなる時も突然に、眠るように逝くものだと聞いていたからだ。私は幼く、生まれたときから兄のカグワトに定められていた。周囲はカグワトという慣習に関して、まだ口当たりの良い知識しか与えてくれていなかった。13になって儀式を経て、神殿に式次第など学びにやられたときに、詳しい事を知れば十分だと考えられていたのだろう。
「叔父上は死ぬの……? 」
「その代わりに、父上が助かります。うまく行けば。でも、きっと成功するでしょう、叔父上さまはご立派なカグワトですもの」
「私を北の塔へ連れていってくれ! 」
思わず叫んだ。乳母は眉を顰め、宥めるように囁く。
「それはなりません。血腥い儀式ですもの、サジャ様にはまだ早すぎます」
「兄上がそんなことを許すはずがない! 」
血腥いなどと言われて動揺のあまり、声がひっくり返ったが、乳母は動じなかった。
「まあ、馬鹿なことを。王太子殿下もきちんと心得ておられるからこそ、叔父上様の儀式を陰から支えるためにシュクラの神殿へ出向かれたのですわ。サジャ様、取り乱してはなりません。それがカグワトというものです。お手伝い致しますからこれから沐浴なさって今日は一切食事を断って潔斎なさいませ。儀式は明日の早朝行われます。皆様も今日の朝食後からそのようになさいます。朝食も本日は果物と水のみになりますが、今日と明日だけのことですから辛抱なさって下さいね」
「――判った」
私は強いて自分を落ち着かせた。これで判った。兄はこの儀式が近く行われる事を知っていた、ひょっとしたら父が倒れたときから予想していたのかもしれない。だから叔父を――逃がすつもりなのだ、兄は神殿などではなく、あのヒルルクの森のビュコックとか言う男のもとで、叔父を逃がすために待っている。
気が焦った。そんなことが許されるわけがない。叔父は父の――王のカグワトだ。国王のカグワトを攫うなどと、いくら王太子とはいえ謀叛に匹敵する大罪として罰せられるだろう。例え王族であろうと、いや、そうであるからこそ毒薬を与えられるだろう大罪だ。
それなのに、私は兄に戻ってくるようにと誓約を立てさせてしまったのだ。私がああ言うまで、兄はひょっとした叔父と逃げるつもりでいたのかもしれない、それを一人で置いていくななどと無理に約束させたのだ。兄は自分の言葉を決して裏切らないだろう。叔父を何処か余所の国へ逃がした後に必ず帰ってくるつもりだ。
ぞっとした。
二度と兄に会えないとしても、兄が戻ってきて処刑されるのを見るより数倍ましだ。どうすればいいのか判らなくなった。
「乳母、乳母、すまなかった。お前の言うとおりだ」
私は弁解した。叔父がどういう方法で兄と落ち合うつもりでいるのかは判らないが、とにかく、叔父が王宮を抜け出す前に会わねばならないと思った。叔父をどこかに逃した後に、兄が戻ってこようとしても決してそれを許さないようにと頼まなければならなかった。誓約の解消は、受けた側である私が、後に供物を捧げて行えば良い。兄がいないのは略式になるが、この際仕方がないだろう。両者の同意があるのだから構わないのだ。
「叔父上に、会いたい。お別れを言いたいんだ。それに、私も同じ王家のカグワトとして、儀式に参加する資格はあるはずだし、お手伝いできることもあるはずだ。伺って来てくれないか」
私の必死の頼みだったが、乳母は首を横に振った。
「それはなりません、叔父上様は精進潔斎の最中ですし、あなたはやはりまだ俗人なのです。これは遊びではありません、サジャ様。まだカグワトの儀式について修行なさっていないのですから仕方ありませんが、それを良く心得なければなりません。普段の生活とは違うのです。命を賭けてのご祈願です、穢れに触れるわけには行きません」
まして、カグワトの潔斎の間に、甥たちが頻繁に訪れた事が障りとなって、この度の災いを招いたのかもしれないとまで噂されているこの時期に、宮廷人の反感を招くような事は決して許されませんと常になく強い調子できっぱりと言った。
どんなに頼んでも、乳母は許してくれそうもなかった。おまけに昨晩とは打って変わってかいがいしく私の世話を焼き、かた時も側を離れない。ひょっとしたら昨晩私が部屋を抜け出たのを誰かに見咎められるかして、乳母は今朝方誰かに叱責を受けたのかもしれなかった。私は乳母に見守られながら沐浴し、軽い食事をとった後に黙祷に入った。
乳母の言葉通り、私は儀式には呼ばれなかった。事は王宮内の廟堂付属の祈祷の間で、寝台に横たわったままの王とカグワト、神殿から派遣された僧侶のみで行われたという話だ。
私はいつ叔父が逃げ出すかと、騒ぎを聞き逃すまいと私室で耳を欹てていたが、ついにそのような気配は聞かれなかった。がっかりもしたが、逆に安心もした。騒ぎにならないということは叔父の計画が上手く行っていることを意味しているのだろうと考えたからだ。
真夜中過ぎ、母がやってきて、ご遺体を清める役はサジャ様にとの叔父上のご遺言ですと伝えた。
「清めるお役といっても、それは神官たちが良いようにして下さっています。あなたはただご遺体を検めて、お祈りをなさればよろしいのよ」
そして母は、父の容態は快方に向かっていると付け足した。
その頃までに、私はその叔父の遺体はきっと別人だろう、と確信していた。いつ、そうしたのかは判らないが誰かとどこかで摩り替わったのだ。だからこそ、叔父は私を遺体をあらためる役に指定したのだ。あとは私がうまくやればいい。誰の遺体を目にしたとしても――よしんば人形だったとしても、騒ぎ立てたりせずに確かに叔父だと確認して済ますのが私の役割だろう。
叔父は兄のもとに馬を駆っている頃だ。或いは使いを出し、どこかに潜んでいて馬を駆っているのは兄のほうかもしれない。叔父が兄をここへは戻らないようにと説得してくれればいいのだが、と、それだけが気がかりだった。
私は白い喪服に着替えた。カグワトの正装のつもりだ。遺体は祈祷の間にそのまま安置されているはずだった。私は儀式の次第を知らなかったが、供物や生贄を捧げる他の行事には出席した事があるので、遺体の様子は想像できた。叔父のものではないと判っていても、相当の心構えが必要だった。神官たちが綺麗に清めたあとなら良いがとそう思った。
王宮内は水のような静寂に沈んでいた。それぞれ祈祷を捧げたり早々に寝ついたりしているのだろう。皆この2日の断食と祈祷と儀式の連続に疲れている。王の快復を喜ぶ宴を開くにしろ、それは明日以降のことになるはずだ。
その中を私だけが動くものとして、供の一人も連れず離れの廟堂まで渡り廊下を辿った。
廟堂には誰もいなかった。神官たちは既に退がって別の間で祈りを捧げているのだろう。見なれた祈祷の間の扉を開けると、正面に生贄を捧げる祭壇がしつらえてあって、香に混じって微かに血の匂いがした。
果物と花に埋められた祭壇の正面に、両手で抱えるほどもある黄金の杯が据えられている。中をのぞくと粘度の増した血液がなみなみと注がれていて、中央に心臓らしき臓物が浮いていた。動物のそれならば見なれたものであるとはいえ、さすがに人のものと判って見ると脂汗が浮かんだ。
気を取りなおして見ると、遺体は杯の向う側、染み一つ無い真っ白な布に覆われて横たわっていた。神官たちは仕事を完璧に済ませたようだ。胸の上あたりには銀と宝石で編まれたメダルが置かれている。
その遺体が誰のものであれ、あまり見たくはなかったし、見る必要もないと思った。何を見るにせよ、人には叔父の遺体だと告げることに決まっている。見ても嘘をつかなければならないことに代りは無かった。
にも関わらず、好奇心に負けたのだ。私の手は遺体を覆う弔布を捲っていた。
見なければ良かったと、すぐに後悔する破目になった。
叔父の死化粧は既に終わっていた。胸に開いた赤い穴には綿が詰めこまれ、金の糸で縫いあわされていた。恐れていたよりもずっと綺麗な遺体だったが、やはりそこに横たわっていたのは叔父だったのだ。
そのことを飲みこむのに長い時間がかかった。
叔父の死顔は蝋のように白く、穏やかだった。有り得たはずの苦痛や悲鳴の痕も無い。置き捨てた人形のように頼りなく、けれど清らかに叔父はそこに在った。
「どうして――」
私の声は震えた。答えるはずも無いと知っていながら問いかけずにはいられなかった。どうして、叔父上、どうして。兄上と、逃げたはずではなかったのか、逃げる隙を見つけられなかったのか。失敗してしまったのか。
けれどそのような落胆を経験したにしては叔父の顔はあまりに安らかで、静かに過ぎた。唇には満足げな微笑すら浮かんで見えた。
どうして、と問いかけその頬に触れて確かめようと手を伸ばした時、廟堂の扉が乱暴に開かれて兄が飛び込んできた。
静寂を生き生きと突き破って、兄はあまりにも場違いに見えた。袖を絞った狩衣に、実用本位の皮鞘の長刀を差し、矢筒と弓を背負っている。最後に出ていったのを見た時とは様子が変わっていたが、どこかに荷物を隠していたのだろう。
私と、その前に横たわる白い布覆いを目にし、その意味を悟ったのだろう、肩から下げていた荷物を放り出して遺体の側に駆け寄った。
床に取り落とされた袋から幾ばくかの金の粒がこぼれ、私は兄が本気で叔父を連れて外国へ逃げるつもりだったことを改めて悟る。国の貨幣ではなく、身元の割れる恐れのある装飾品類でもなく、単に純度の高い金の平板。私財など殆ど持たぬ王太子は、自らの身分証明である額飾りや宝刀を密かに鋳潰してそれらを工面した。その本気を知って青くなったのはまた後のことだ。
「兄上、どうしてここに。叔父上を、どこか遠くへお逃がしになるのだと私は」
「私も――そのつもりだった、もちろんそのつもりだった……」
兄はうめくように呟いた。まるで呪詛をかけるような声だった。
「ビュコックなど! ヒルルクの森にビュコックなどという男は住んでいなかった。どんな男も。私の計画を退けてまで、わざわざ作り話で誤魔化して、叔父上は――叔父上は最初からそのつもりだったのだ。私を欺して――最初から」
兄は泣いてはいなかった。悼んでもいなかった。ただ、怒りに震えていた。裏切られた男の怒りだった。
「私を――捨てたのだ。私を信じなかった。私を選ばず、父上の為に死ぬ事を択んだのだ。私を欺いて――私を! 」
違う、と私には判った。叔父は、父のカグワトとして死ぬことを望んだ。それは確かだ。別れの言葉が耳にかえる。私はカグワトとしての運命を喜んでいる、と。それは私にも判る。例え待つのが苦痛に満ちた死でしかなくとも、私が喜んで兄の為に神の供物となるだろうことと同じように、確かに叔父も父のカグワトであることに殉じたかったのだ。しかし、それ以上に叔父が心配したのは、兄のことだったはずだ。兄を傷付けないよう遠ざけ、さらには廃嫡から――ひょっとすると命そのものの危険から救った。
けれどそんな事は口に出せなかった。それでも兄を慰めたい一心でこう口に出した。
「兄上、お嘆きになることは無い、叔父上は喜んでらした。喜んで、カグワトとしての責務を果たしたのです」
父上は持ちなおしたそうですよ、と付け足す。
「――サジャ、何を言う」
兄ははじめて気付いたかのような顔で私を見た。側にそっと寄り添おうとした私から、兄は恐れるように身を引いた。そんな拒み方をされたのは初めてで、私は動揺した。
「お前は、叔父上に可愛がって貰ったじゃないか、あんなに懐いて、入り浸って。あんな優しい人がこんな――むごたらしい、それを何と」
だって、カグワトはそういうものだ。叔父はカグワトの本命を全うして亡くなった。父は叔父をまつるだろう。墓を建て、喪に服し、世間の誰もが忘れ去っても、父の魂にその名は永劫刻まれる。カグワトにとり、それ以上の至福があるだろうか。
「叔父上は喜んでらしたのです。喜んで儀式を行ったのです。私にそう仰いました、カグワトである運命を喜んでいると。私も気持ちは同じです。それがカグワトの本分、カグワトであるということなのです」
「なにがカグワトだ! 」
兄はいきなり爆発した。剣を吊るし帯から鞘ごと抜き払い、床に叩きつける。
「恨みをかったのも毒をのまされたのも死にかけたのも全て王の業だ。ならば引き受けて死ぬのは王であるべきだ。カグワトだと? 王の片羽だと? 一人の男を閉じ込めて、自分の為に死なせるのが王の行いか。私は王を呪うぞ! 王と王家と神を呪う! 」
「兄上! なんてことを仰るのです、神を呪うなどと」
兄にはわかってもらえない、強い王となる彼にはカグワトであるということがどういうことなのかわからないのだ。カグワトとして死ぬことを受け入れた叔父の気持ち、私の気持ちが理解できないし、理解すべきことでもないのだろう。
「叔父上が死んだのはこの馬鹿げた迷信の為だぞ。馬鹿げた呪い、悪魔の所業だ。神が本当に慈悲深く、公平な存在であるのなら、なんでこのように痛ましい仕業をなさるものか。お前たちも叔父上も――王も悪魔を崇めているんだ、愚かな――」
「兄上、やめて! 」
それ以上、聞いていたくなくて私は声を上げた。叔父を喪った悲しみのあまり、兄が乱心したと思ったのだ。
「サジャ! 私は――お前を死なせはしないぞ。私はカグワトなど持たぬ。この命は私のもの、私一人のものだ。誰にも分け与えなどせぬし誰の命も受け取りはしない。カグワトなど! 」
騒ぎに気付いた神官たちが廟堂に押し入り兄を抑えた。私は泣きながら兄を責め、その言葉を撤回するようにと必死で説得した。けれど兄はきかなかった。神を呪い、王を罵り、カグワトを――私の存在意義を、否定し続けた。
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ああ、そうだ。
あの醜聞は、そのときのものではない。後にも先にも二度と無いだろうといわれた醜聞、王太子の出奔は。ただ、何もかも、あそこから始まったのだと、今にして思うのだ。
あの夜の兄の不在は、叔父が望んだとおり神殿への遣いだったということにされて収まったし、その後の乱行も不問に付された。
父は叔父の後、二度とカグワトを迎えなかった。一命を取りとめたとは言えすっかり弱ってしまっていたし、高熱の後遺症か、頭のほうも幾分ゆっくりになってしまっていた。
兄はそんな王を支えて王太子として四年、務めた。王太子と言っても摂政を兼ねていたようなもので、その強力な求心力のもとに豪族たちを抑え、王権は再び勢力を盛り返したかのように見えた。
あの夜のことは無かったかのような貴公子ぶり、苛烈な気性がかえって人間的魅力として映った。良家の子女を妻に迎え、一男一女をもうけ、王によく仕え私にも相変わらず優しかった。そう、すっかり――安心してしまっていたんだ、私たちは。
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やがて私は13の誕生日を迎えようとしていた。
嬉しかった。13になれば儀式を交わし、兄のカグワトとして迎えられることは、生まれた時から決まっている。ずっとそれを待ちわびていたのだ。兄は私を大切にするだろう、父が叔父にしていたように。それを思うと婚儀を控えた花嫁のように嬉しかった。
兄は叔父の使っていた北の塔に手を入れ、私が入れるように整えてくれていた。儀式の少し前から私はそちらに移っていたが、兄からは頻繁に家具調度が届けられ、女官たちは準備に忙しく立ち働いていた。そんな光景も、もう間近に見ることも無いのだろうと考えると感慨深かった。カグワトとなれば、今まで人の手を借りていたような身の回りの事も最低限自分でしなければならない。それを考えると、兄の助けが無ければとても孤独に耐えられないような気がした。あんなに兄を敬愛し、信頼していなければ、少なくとも酷く憂鬱になっていただろう。
カグワトの儀式はシュクラの神殿で行われる。王とカグワトはそれぞれ正装し、煩雑な作法と定められた所作を守って儀式を執り行い、祈りを捧げて一夜をそこで過ごす。丁寧に磨かれた鏡、高価な香、つややかな果物、盛りの花、厳選された酒、正しい手順で屠られた生贄などを捧げ神の祝福と試練を祈願するのだ。
その後にカグワトは主の邸内の一室に迎えられ、一生を王に捧げてそこで過すことになる。私たちの誓約の儀式はやはり冬、満月の夜を待って行われることになった。
儀式の前夜、真円にほど近い月を眺め一晩中、起きていた。自身の緊張と高揚を静めるために香を焚き、少し前からシュクラの神殿に詰めて神官から学んだ儀式の所作と心得を復習する。殺生を行わない、酒色を断ち、色のあるものは装わない、直接人と物の受け渡しをしない、みだりに人前に顔を表さない等だ。
儀式は兄と二人きりでのものになるとは言え、慌てたりもたついたりはしたくなかった。一点の瑕も曇りも無い完璧なカグワトでいたかった。カグワトについて学ぶにつれ、いかに叔父の所作が完璧なものであったかということをひしひしと感じた。例外は兄と私を部屋へ受け入れたその情愛だけである。けれどその情が結果的に潔斎の障りとなり、父の危篤と叔父自身の血腥い最期を招いたのだとも言えた。
明け方、扉を叩く者があったので、不機嫌に応じた。兄とは儀式まで顔を合わさないことになっていたし、兄自身も今夜ばかりは妻も遠ざけて潔斎しているはずだった。また召使いたちであるはずもない。その朝から、朝の支度も沐浴も一人で行うことを言い渡してあったからだ。母が最後の別れに来たのかもしれないと思い当たる。煩わしかったし、折角の潔斎を無駄にしたくはなかった。しかし私は扉を開けるために立ち上がった。まだカグワトではなく、母の息子であるし、それもこれが最後だった。
扉を開けると意外にも、そこにいたのは女官の一人だった。私は眉を顰めることで意思表示をした。
「申し訳ありません、サジャ様――でも、あの」
「何だ、何の用だ」
酷く焦った様子の女官に不機嫌に答える。
「いえ、あの、殿下が、摂政太子殿下がもしかしてこちらにいらっしゃっているのかと――」
はっとした。
「いいや、来ていない。兄上は、お部屋にいらっしゃらないのか」
「そう…そうなんです。お薬湯をお持ちしたら寝台はもぬけの殻で」
やられた。私は悟った。思わず天を仰ぐ。
「お、王太子妃殿下をお起こししたら、金鎖を繋いだ胸飾りが無いと仰って――それに、普段使ってらした長刀と、それに」
「いい、わかった。もうさがれ」
女官を追い出した。騒ぎが大きくなるまで、一人になって心をしずめたかった。
叔父の死の折に兄がしでかしたことを、嫂は知っている。すぐに使いを出し兄を捜させているだろう。けれど私は、兄が見つかるかもしれないなどと甘い期待は持っていなかった。或いは自ら戻ってくるかもしれないなどどは。摂政太子はやると決めた事は確実に、しかも完璧にやり遂げる。それがどんなことであっても。
寝室の扉を後ろ手に閉め、寝台に身を投げる。声にならない叫びが喉を押し上げた。
兄は私を捨てたのだ。私は捨てられた。カグワトなど持たぬ、誰の命も受け取りはしないと彼は言った。あのとき、兄は私を拒んだのだ。いや、憎んだのかもしれない。叔父を殺したカグワトという慣わしを、それを疑いも無く受け入れている私を、この国を。
今日この日を選んで失踪し、兄はカグワトという存在と私自身を否定した。一番手ひどいやり方で。兄の指示で整えられた部屋、兄から送られた調度のことを考える。寝台に呆然と横たわり、泣くこともできなかった。
兄はもう戻らないだろう、誓約は成らなかった。その事実を痛いほど噛み締める。
夜までに、嫂の放った追っ手は皆空手で戻ってきた。彼女はその半分を追い返してさらに捜させたが、手遅れだというのは本人も知っていたろう。
前代未聞の醜聞だった。王太子が、それも殆ど寝たきり同然の王の摂政が、王も国も妃も子供も放り出して失踪したのだ。そしてカグワトも。
そう、これがその顛末だ。
後はあなたも良くご存知の通りだ、王よ。王太子失踪の事実はすぐに漏れ広まって、兄が抑えていた豪族たちの確執はたちまち表面化した。まだ赤子だった兄の息子や私の下の弟たち、或いはずっと傍流の王族までが担ぎ出されて争い合い、朝廷はずたずたになった。地方では叛乱が起き、城下の民は飢えに苦しんだ。そこを外国に狙われ、国土は寸刻み、何十年もかけて弱体化した。
ああ、申し訳無い、恨み言のつもりではなかった。いいや、恨んでいるわけじゃない。何故なら私は――そうだ、王太子の失踪後、継承権の優先順位からすれば私が立太子するのが自然のなりゆきだったろう。そうなっていればあれほど事が荒立ちはしなかったはずだ。それを断ったのは私の我が侭だ――国の荒廃は私にも責任がある。
どうして、と問うのか。それはカグワトだからだ。もちろん、誓約の儀を行う事はできなかったから、正式にはカグワトとは言えないかもしれない。しかし私は自分はもうカグワトなのだと強硬に主張して、北の塔に篭もって人前に姿は表さなかった。しばらくは母や姉たち、或いは嫂が私を宮廷に呼び出そうと通ってきていたが、それもやがて絶えた。
兄が付けていてくれた老いた女官と端仕事をする若い男だけが、私の世話をしてくれていた。女官は叔父にも仕えた人で、カグワトの作法をきちんと心得ており、時折宮廷内の噂を独り言の体裁で隣室で呟いた。私はそれを漏れ聞くという形で、家族の様子や国の崩壊していく様を知った。父が死に、母の家族が追放され、嫂が我が子を取り上げられるようなかたちで孤立したのも知っていた。けれど、この部屋から出る気は無かった。
そうだ。あなた方がこの宮殿に攻め入ったときにも、私はここにいた。
民は私を嘲った。包囲されたその夜に、王族はみな一人残らず、一番幼い甥の子までが、生きて恥辱を受けるよりはと覚悟の上で毒を服んだのに、私だけが命汚く生き長らえたことを、民は辱と考えているに相違ない。王の子の、一度は王位継承権の一位でもあった私の引き際の醜さを。
若い王よ、あなたは私を辱めるようなことはなさらなかったし、王宮に残った女官たちや豪族たちの家族にも、寛大な処置を与えてくれた。多くの民族が他国を征服したときによくやるように、神殿を焼き払うような事もなさらなかった。
今日だって、そのように、私の服している喪に敬意を払い、カグワトの戒律に従って布越しの会見を許してくださっている。あなた程の方の前でこのような無礼を許されているのは確かに私だけだろう。それも亡国の敗残の身でありながら。
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泣いてなどいない、泣きはしないよ、優しい方。お心遣いは無用、涙などとうに枯れ果てた。どうしてさっさと死んでしまわなかったのだろう、いつもそう考えて――考え続けて年月ばかりを重ねた。
しかし、私には死ぬことが出来なかった。
恐怖ではない、恐怖のためではない。死ぬことは私にとって恐怖では無いし、忌むべきことでもない。むしろ――救いだ。いいや、慰めは要らない、王よ。
何故自ら命を絶たなかったか、それは私がカグワトだからだ。カグワトは――王の片羽、王の守り――私の王は兄上ただ一人だ、そうだ、今でも。ただ一人の私の王。
私は生きている限りたった一人、最後の王の守りであって、私に障りの無い限り、兄は生きておられるはずだ。そう、勝手には死ねない、兄を一人で死なせる事はできない。だから、待っているんだ、自然に訪れる死を――兄が亡くなったとき、神はカグワトである私も追うようにしてお召しになるだろう。その、はずだ。それを待たなければ。
王、いけない、布を下げてあなたの席に戻りなさい。私にカグワトの作法を破らせてはならない、優しい人。私に触れようとなさってはならない。私は慰めなど必要としてはいない。大丈夫だ。ずっと、一人で耐えて来た。私は死ななかったし、これからも死なない。
ああ、そうだ。私が生きていることが、兄がどこかで生きている証だと、私はまだ信じていたいんだ――。私が生きていることが、兄を助ける守りになっているはずだと、まだ信じている。
可笑しいだろう。兄はあんなにカグワトを憎んでいた、それでも、私にはこれしか残されていない。私に残されたたった一つのもの、これにすがるしかないのだ。
それにしても、ああ、繰言とは判っても言わずにはおれない、どうして――どうして兄は、あのとき、私を連れていってはくれなかったのだろう。