43、神学小説が増えすぎたことについて(自作を振り返る)
「えっ」
おれはびっくりした。何をびっくりしたかって。それは、おれが書いた神学小説の量にである。おれの書いたもののそこら中に「神」ということばがでてくる。めちゃくちゃたくさん、おれは「神」について書いている。異常だ。あまりにも宗教染みている。これは、おれが狂信者であると勘ちがいされても仕方ない。今まで気づかなかった。おれは、読者に神を好む狂信者だと思われているのかもしれない。
おれは、無神論者である。神を信じてはいない。キリスト教に反抗した西洋哲学者に憧れる無神論者である。神より神殺しを好み、神より悪魔を好む。
ずっと、信仰者を風刺するつもりで神学小説を書いていたので、自分が風刺されるべき狂信者に見えてきたことに気づかなかった。これはまずい。
神学小説など、無神論者のおれが書いた方がうまく書けるだろうとたかをくくって、もろもろの宗教の聖典の権威を落とそうとしていた。もろもろの宗教の聖典など、権威によって守られているから需要があるのであり、その気になって書こうとすれば、宗教の聖典のような書物を書くことは容易なことだと、おれは考えていた。それを証明するために、たくさんの神学小説を書いた。
かなり傑作の神学小説をおれは書いたはずである。「アダムの本屋」「キリスト教・三十二行詩」「失天界報告書」「へびの手記」「存在の約束」「改訳聖書」「インターネットの塩対応」「神を近所で探す」「中世イタリアの半球世界」「永遠の目的地」「西洋の神を日本で探す」「全知全能の道具神」「傲慢、冒涜、自涜の罪と洪水」「父についての記述」「終局的目的」「ならばイエスの罪を答えよ」「それでも神を信じる探検隊」「天使の冗談」「最終種族」「神々とは何かについて読書家から」「運命の槍」「アンドロイドバイブル」「弱者の衣装」「被造物の敗北」「無神論という信念について」「幻想性と史実性」「近所の教会へ行く」など二十六作だ。さらに付け加えると「狼が書いた日本史・飛鳥山岳記」にも神が出てくる。そして、「抽象玉座物語・第一篇・第一部・黒曜石の都」に出てくる王は神を名乗っている。過去に書いたSF小説にも、宇宙の創造主や宇宙の支配者として神が出てくることがある。ファンタジー小説にも神が出てくる。
それに加えて、仏教ものが十二作ある。「仏教・三十二行詩」「釈尊の生涯」「シャバ僧経典」「楽欲と求道」「罪の所在」「海蔵経典」「非仏問答」「観音姫とか」「渇愛」「無我の非在」「集賢と怪物」「捨願と天我」の十二作に加えて、ちょっと長めの「悪我識魔王」だ。
儒教ものが六作「刑天退治」「神懸かりの巫女と凡夫」「四神の異種」「魚龍と古剣」「風卦雷卦」「儒教入門」。
日本神道ものが四作「土着神と来訪神」「日本の神についての覚え書き」「神社を思い出す散文」「雨の伝承と渡来人が見つけた太陽の話」。
他に神話ものや幻獣ものなどがさらに数作ある。「ブリハッドの神学的応用」「魚の騎士とウンディーネ」「ワルキューレの序夜」「天秤の伝承」「魂の半身」「消えたウロボロス」「ギリシャの軍人」。東洋幻獣もので「八咫烏」「胡蝶」「土蜘蛛」「天狗」「鵺」「からくり岩石兵」「座敷童」。ものすごいたくさんの宗教ものをおれは書いたのだ。
すべての短編に独特のテーマがある。宗教はおれが書いた数よりも多いテーマ性を持つ。それは、既存の宗教のテーマであったこともあるが、おれが考え出したテーマであることもある。これらの神学小説群は、すでに聖書より面白い水準に到達しているとおれは考えている。
おれの神学小説では、神に祈って事件が解決することは一回もないはずだ。この辺りの価値観はとても大事にしたい。おれがこれを書いているのは、おれがかつての批判的な神学小説の書き方から、神に従うことをよしとするような愚かな神学小説を書くことが表われ始めているからである。そんなつもりで神学小説を書いてはいなかった。神に従うことを批判するつもりで、神学小説を書いていた。おれの頭が衰えて、宗教に妥協するところがでてきた。それはとてもよくない。そんなことをおれは思っていることを伝えたい。




