38、時計の存在
時計は、そろそろ時を刻むのをやめてもよいのではないかと考えていた。時計が時刻を計らなければ、この部屋の住人の行動が狂う。しかし、時刻を計るのは時計の仕事ではないのではないか。時計は、本当はもっと別にすることがあるのに、時刻を計る作業にとりつかれて、本当にするべきことをないがしろにしているのではないか。
私は本当に時計なのだろうか。時計に生まれたら、時刻を刻むことをしなければならないのだろうか。私は、時刻を刻むのなんかやめて、コメと卵を買って来たい。肉と塩と胡椒も必要だ。ずっと時刻を刻んでいて、それだけで本当に納得する人生を生きたといえるのか。私は本当に時計なのだろうか。時刻を刻むことよりもっと重要なことがあるんじゃないだろうか。私が時刻を刻むのをやめて、この部屋の住人の行動が狂ったとして、それはそれでひとつの日常の刺激というやつじゃないだろうか。たまには、時計が時刻を刻まない時があっても楽しいだろう。いい暇つぶしになる。それなのに、私は、コメと卵を買ってくることもせずに、時刻を刻むのか。
時間が流れる。一秒、二秒、三秒。
この部屋の近所には、知り合いの女が住んでいる。時計の知り合いだ。時計は、その女と接する機会がわずかしかない。ひとこと、あいさつをかわして、近況報告をしたら、その後、半年、女と会う機会を失ってしまった。どうすれば、もっと女に会えるのか、悩みながらも、まったく行動することがなく、散歩も、買い物も、家探しもしなかった。私はずっと時刻を刻んでいたのだ。毎日毎日、休むことなく時刻を刻んでいた。先輩の時計は、人生を生きるにあたって、「とにかく、やりたいことは若いうちにやってしまうことだよ」といっていた。それなら、私は、時刻を刻むより、コメと卵を買って来たい。
時間が流れる。一分、二分、三分。
私は、時刻を刻みつづける日々に疑問を感じる。効率の良い人生というものがわかったら、おそらく、私は時計として時刻を刻んでいない。近所の女に半年会わずに、時刻を刻んでいた。時計として生きるなら、行動することはみずからの魂に問え。私は、ただ時刻を刻む時計でいていいのか。待っていても何も変わらない。
動くんだ。行動するなら、早い方がいい。私は、時刻を刻むのをやめて、外に出かけ、コメと卵を買いに行った。肉と塩と胡椒もいる。チャーハンを作るのだ。
時計は食材を買って帰ったら、猛然とチャーハンを作った。フライパンに油をひき、肉を焼き、ご飯をいれ、卵を落とし、塩と胡椒で味付けをする。
部屋の住人は、部屋の時計が突然、チャーハンを作り始めたので、笑って面白がっていた。見ろ。時刻を刻まなくてもなんとかなる。ある日、突然、時計がチャーハンを作ってもいいんだ。
時計は完成したチャーハンを食べた。うまい。私の料理の腕もなかなかだ。時刻を刻んでなんかいられるか。私は近所の女を探した。走りまわった。そして、見つけた女に再びチャーハンを作った。
「きみと突然、チャーハンを食べたくなってさ」
時計の私はいう。
部屋の住人は、時計が美人の女とチャーハンを作って食べているので、ゲラゲラ笑っていた。
時計がなぜ存在するのか。それは時刻を刻むためではない。時計は、衝動的にチャーハンを作るために存在している。時刻を刻む日常と、チャーハンを作る非日常。どちらが大事だ。時計工場の設計士も、都市計画者も、時計の非日常を大切に思い、社会を設計している。
時計の人生は、時刻を刻むためにはできていない。時計の人生は、衝動的にチャーハンを作るためにできている。
チャーハンを作る時計になってから、時刻を刻むべきなのだ。そうすれば、時計としての自分をより深く理解できる。




