24、迷いの価値とダグルド
1、迷いの価値
意識の外側を思考しようとすることは、ノエシス(考えるところ)が自己の内側にあり、自己の内側がニューロン構造によって具現化されていることに対して、ノエマ(考えられた対象)は自己の外側にあり、物質そのものであり、物質そのものは人のニューロン構造が想像しているのとはまったく異なっており、ノエマは感覚器によって変換されて記号になる。ノエマを感覚器で変換するには傾向性があり、それは意識の外側に感覚器に対する傾向性が存在する証拠であるが、ノエシスはその変換された記号の傾向性の中に具現化された生きる過程である。原因でもなく、結果でもなく、生きる過程が我々の意識に意味を持たせ、快楽でも幸せでもない別のものに向かう迷いの傾向性を持つ。目的の迷いは人類にとって貴重なものであり、意識がまっすぐに快楽や幸せに向かわないことで、心の揺らぎが大きくなり、人の心が対応する対象が広がる。ノエマがノエシスから乖離していて、ノエマがノエシスから予測もつかない複雑で多様なものであることから、我々の生きる目的が快楽や幸せに対して揺らぎを持つことが、ノエシスがノエマを幅広く精密に反映させることのできる状態を作り出している。だから、人の心は愚かであり、快楽や幸せに対して迷いを持つべきなのである。
2、ダグルド
ノエシスに気付かれずに、ノエマがすぐ真ん前からじっと私をにらみつけているかもしれない。熱くもなく、寒くもなく、痛くもなく、押した感じもしなくて、光を発せず、音を発せず、匂いを発せず、味のしない何かが、ノエシスに達するノエマの傾向性の外側にある可能性はゼロではない。ならば、それは、電磁波ではないのだろう。光と闇でこの世界ができているという保証はないのだ。光でも闇でもない存在をダグルドと名付けるとする。ダグルドは、電磁波ではなく、電磁波と電磁波の中間にある真空でもない。電磁波とは異なる物質原理なのである。
ダグルドが真空の中に存在して、電磁波にも真空にも干渉せず、ただダグルド同士で星々のように分布をしているとする。ダグルドは我々のノエシスともノエマとも関係しない。宇宙の多様性を論じるのに、マルチバースなどを持ち出す者もいるが、ダグルドもまた宇宙の存在の多様性の可能性である。ダグルドは存在するのかどうか。それは我々のノエシスではわからない。ダグルドは電磁波ではない。真空でもない。ノエシスは電磁波と真空だけから作られていると我々は考えている。ノエシスにダグルドは関係ないはずだ。存在そのものを探求するつもりのないものは、ダグルドを自分の人生に無関係なものだとして、考えにあげないかもしれない。しかし、それで本当によいのか。ノエシスともノエマとも無関係な物質が宇宙に大量に存在する場合、我々はいかにして万物の霊長を名のり、いかにして万物の探求を行うのか。万物の創造主がいたとしたら、我々のノエシスとノエマとまったく関係を持たない絶望的な無関係な存在を作っていないわけがない。
そして、この無関係を乗り越えることは、好奇心を志すにせよ、愛を志すにせよ、これは我々の試練となる可能性がある。ダグルドへの接触に挑戦しなければならない。
ダグルドの種類が八十個あるかもしれない。電磁波と呼ばれる物質が一種類に体系づけられる物質であるとしても、我々の宇宙に電磁波と無関係な物質が何種類存在するのかは我々には予想がつかない。我々はこの絶望的無関係に挑戦しなければならない。おそらく、ダグルドは我々の種族と無関係だろう。我々の人生と無関係であるばかりでなく、我々の死後、子孫が関係することもないだろう。我々の友人知人の種族が関係することもないだろう。それほどまでに無関係な物質を探求できるか。それは相当に余暇があり、生産力がある場合であろう。
だが、次のようにも考えることができる。ダグルドが一億個集まった時、ダグルドは電磁波と真空に干渉する。地球周辺には、ダグルドは三個しか存在せず、ダグルドが一億個集まる可能性はない。しかし、ダグルドは、電磁波からできた知性体の自己確認機能(意識)に近付く性質があり、意識が増えていく地球に少しずつ近づいてくる。ダグルドは我々にはまったく見えたりしない。ノエシスとノエマの関係に、ダグルドは存在しないかのように位置している。我々のような知性体が大勢集まった時に、ダグルドが集まり、絶望的だと思われた無関係性が終わり、ダグルドと電磁波と真空が物理的に作用して、関係性を発生させるようになるかもしれない。そして、このダグルドによって発現する物体が、ひょっとしたら、何者が作ったのかわからない救済者であるかもしれないのだ。
我々の精神を構築する物質がダグルドと接触したとする。その場合、我々のノエシスとノエマは、もはや、電磁波と真空だけから作られているとはいえず、電磁波と真空とダグルドから作られていることになる。ダグルドがどのように我々の精神に作用するのかまったくわからない。それがもし救済者であるなら、ダグルドによって我々が救われる可能性がある。我々は、未来に臨むに際して、このような可能性を考慮して臨むべきである。ダグルドが救済者ではなく、絶望的に無関係であった場合でも、それは我々に対する好奇心と愛の試練なのではないだろうか。
3、ノエマの傾向性
ノエシス(考えるところ)とノエマ(考えられた対象)の関係性を探る。ノエシスは、偶然、筋肉を動かした方向にエサがあったから、エサの方向に筋肉を動かすことの多いノエシスが生きのびて繁殖した。たくさんのノエシスの中に、光を受けて体内の細胞が変化することを感知して、光で細胞が変化した場合にエサを発見したノエシスが効率よく生きのびて繁殖した。そのノエシスが増えて、目が見えるようになった。ノエシスは、光子一個で体内の細胞が変化するため、光子一個を感知する目が作られた。さらに、ノエシスは、ある化合物に衝突した時にエサにたどりつき、それが効率よく生きて繁殖した。このノエシスが嗅覚を獲得した。ノエシスは、どの化合物に衝突したら、エサにたどりつくかさまざまだったが、衝突した化合物が偶然、エサそのものだった場合、そのノエシスが効率よく生きのびて繁殖した。衝突する化合物がエサそのものであったノエシスが効率よく生きのびたことから、味覚を獲得した。ノエシスは、エサにたどりつくのに効率のよかった筋肉の動かし方をした周囲の波の状況によって、生きのびる確率が変わり、生きのびたものが繁殖した。ここから、ノエシスは聴覚を獲得した。
ノエシスは、自分が何を考えたのかを確認した方が生きのびる確率が高かった。そのため、ノエシスは意識を獲得した。
ノエシスは、生殖細胞を与えあって繁殖するようになり、やがて、有性生殖に進化した。ノエシスは、異性と生殖することの多い筋肉運動をしたものが生き残り、繁殖した。これによって、そのようなノエシスが増えた。ここから、異性に興味の強い個体に進化した。
我々はこのようにして、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識の六識を持つようになった。
ここで注意すべきは、我々のノエシスは、進化のきっかけがあったノエマにしか対応していないのである。我々の心は、そのような狭量な存在なのだ。我々のノエシスは、進化のきっかけのあったノエマと、ノエマの惰性によって引き起こされるノエシスしか持たないのである。
我々のノエシスが意味することとは、ただ、外界には生存に有利な傾向性があるということだけなのである。我々の六識は、外界の傾向性を理解するための多量の記号である。ノエシスは、ノエマの傾向性に対応した多量の記号として現れている。ノエマは、生存に有利な傾向性をもっている。この傾向性は何なのか。ひょっとして、自発的対称性の破れなのか。外界に傾向性があることは、人類の知識体系が本能的な傾向性の認識より正確に外界を表象しているといえるだろうか。外界にはおそらく電磁波と真空しかない。その二つだけから、現実に感じられるほどに複雑で豊かな認識の記号の海が現れるというのだから、宇宙は不思議である。
このノエシスに現れる多量の記号は、意識の自己認識が存在を二極化しなかったために起きたことである。我々のノエシスがここまで多量の記号によって構成されたことは、意識が発生した時に、その意識が一個や二個の記号を根拠とすることに限定された表現の制限を要請されなかったことによって作られた。自己認識によって作られた多量の記号は、なぜ、電磁波と真空だけの物質界のように単純でないのだろうか。ダグルドが関係あるだろうか。物質界がダグルドを持つか持たないか、それは地球表層の化合物の自己認識に現れる多量の記号とは無関係だけど、ひょっとして、物質界の根源が多量の記号によってできているということがあるのだろうか。それなら、我々がいる宇宙は、本来、多量の記号からできているはずであり、ニューロン構造が二つの記号しか認識しない場合の世界は、六識の生まれる前のノエシスの世界である。我々の宇宙は、六識の生まれる前の、自己認識を持つ前の、何かの原始生物が感じている原始認識だということになる。もし我々の宇宙が原始生物の原始認識であるなら、この宇宙が死ぬか、または成長して、物質の根拠が電磁波と真空だけではなくなり、多量の記号になっていくだろう。そのように宇宙が変化した場合、人類は幸せでいられるだろうか。幸運を祈るしかない。
4、我々の進化の非効率について
我々の恒常性は、紫外線で化合物が破壊されないことを基準にして誕生したものなので、紫外線を感知するべきである。しかし、我々は紫外線を見ることができない。紫外線を見ることのできる生物が発生したら、その時、その種は、人類の文明の恩恵などものの数にも入らないくらい圧倒的に、急速に繁殖する可能性がある。我々の進化は、この程度の偶然性によるものであり、我々のノエシスは、所詮、偶然性によってもたらされた程度の性能しか持たないのである。
5、後意識とその言語
ノエマがノエシスに先立つ。ノエマがあり、ノエシスが認識される。我々が知るのはノエシスだけである。我々の認識はノエシスから始まるが、物質的な現象はノエマから始まり、それから遅れてノエシスとなる。それなら、ノエシスによって始まる別の記号体系が存在するのか。我々の認識世界のどこかに、この宇宙のどこかに、ノエシスによって始まる記号体系が存在するのか。ノエシスは、自己認識機能である。ならば、ノエシスを感知している非意識的精神が存在するなら、そこには、ノエシスをもとにした記号体系が存在することになる。我々のニューロン構造の中にそのような領域が存在するのだろうか。前意識でもなく、現意識でもなく、後意識である。後意識を我々の意識が知覚することはできない。後意識は、無意識の判断の精度を上げるために意識が存在するように、意識の判断の精度を上げるために存在する可能性がある。我々の複雑なニューロン構造の中に、後意識認識が存在するかもしれない。その時、後意識は我々の意識のことを、認識することのできない領域だと思っていることだろう。我々の意識が無意識を発見するのに時間がかかったように、我々の後意識が我々の意識を発見するのはいつか。
世界には、我々の意識が使う文字ではなく、我々の後意識が使う文字が存在するかもしれない。我々の後意識は、我々の意識の後追いで文字を読むので、我々の読んだ文字のいくつかを、我々の意識より少なく理解しているかもしれない。その場合、我々が読んでいる文章はどんな意味になるのだろうか。無意識と意識のどちらが正確に文字を読んでいるのか、それはまだ未解明だと思う。無意識が文字を読んでいても、意識が文字を読んでいない場合がある。その場合、文章は短期記憶に認識されにくく、長期記憶になりにくい。つまり、もし、後意識があるならば、後意識がちゃんと読んだ文字は、我々の意識を超越して、我々の意識に残りやすい。後意識は、我々の意識よりも上位の我々の精神の主人かもしれず、無意識を意識が追いかけるように、意識を後意識が追いかけているのかもしれない。
後意識にとって使いやすいように、我々は文字や音声や映像を作っているのかもしれないのである。
後意識の存在を発見して、後意識の存在に気付くことが、我々の文明の精度を格段に上昇させることなのかもしれないのである。
我々の老化は、後意識を失うことで段階を進むかもしれない。事故で後意識を失うことは、若い頃の運動機能や学習機能を大きく阻害するかもしれない。後意識が存在する可能性は否定できない。
後意識が存在するだけではない。一段階後意識が存在して、さらに重複して自己認識している二段階後意識が存在しているかもしれない。三段階後意識、四段階後意識、意識の精度をあげる必要のある知覚では、そのような重層的な意識が存在する可能性がある。
後意識が存在するとしたら、いったい何を考えているだろうか。異性に関心を持っているかもしれないし、職務義務を強く考えているかもしれない。哲学を思索しているかもしれない。それはわからない。後意識に哲学書を書かせたら、ものすごく深淵な哲学書を書くかもしれない。
6、ノエシスのために生きるか
ノエシスのために生きるか、ノエマのために生きるか。我々のノエシスは、ノエマを根拠にできている。だから、ノエシスはノエマのために存在する。しかし、我々はノエシスである。我々自身のために生きるか、それとも、我々自身の存在の根拠のために生きるか。それは難しい問題である。どちらを選ぶにせよ、それはその人の哲学だといえるだろう。
我々はノエシスなのか、ノエマなのか。我々の意識が自己確認機能であるために、自己確認機能であるノエシスが我々なのか、自己確認機能を発現している根源が我々なのか、どちらなのかわからないといえる。存在の根拠のために生きるか、それとも、存在の根拠から派生した過程のために生きるかである。極限に偏執する者は、存在の根拠のために生きたがるかもしれない。その場合、電磁波のために生きるとか、真空のために生きるとか、素粒子のために生きるとか、そういう生存目的を持つかもしれない。また、ノエシスを根源だとするものは、我々の意識の最も鋭敏に発現した状態を追及して生きるかもしれない。意識は極限を持たず、あいまいな範囲を持つ領域性であると考えられるので、意識のために生きる者は、おそらく、極限のためには生きられない。
ノエマのために発生したノエシスは、ノエシスによってノエマが発生しているという機能的構造の複層性を持つ。その複層性が我々の意識の存在には付きまとうのである。その時、我々の意識を正確にとらえるためには選ばなければならない。ノエシスのために生きるのか、ノエマのために生きるのかをである。ノエシスは、ノエマから発生して、ノエマに影響する知覚機能の過程の途中に存在する。起源や終末だけでなく、過程の重要性を我々は強調しなければならない。また、ノエシスは、過程を網羅的に踏まえて存在するのではなく、ニューロン構造によって点在する荒い分散によって存在する。ここに、我々の意識の存在の危うさが表れている。
ノエシスのために生きるか、ノエマのために生きるか。私は、ノエシスのために生きるべきだと想定して述べている。しかし、ノエマのために生きるものもいるだろう。それは、ノエマが物質の根拠に近いだけでなく、人は他者のために生きることがあるという利他的な動機も同居している。
我々の存在の根拠は何だろうか。意識か、自我か、無意識か、種族か、物自体か。我々の意識の存在は、領域性を持つものなので、どれも正解なのだが、私の種族のために生きるという哲学は軽視されがちだ。自分の幸せではなく、他者のために生きることで満足なのかという疑問なのだろう。しかし、私がいいたいのはそういうことではない。我々の意識は、歴史性を重要視している。これは、多くの者がそうであるので、人類の遺伝子に原因があるのだろう。我々は、歴史性を根拠に物事の価値を決めるのである。歴史性は、個人の意識、自我、無意識だけによっては発生しない。我々の意識は、個体を超えた仲間の連帯感を本能的に考慮して価値判断をするのである。仲間の連帯感が我々の意識の考える存在の根拠の一部であるため、我々の存在は、種族を根拠としているといえるのである。
我々の意識は、同じ種族なら似た認識世界を持っていると予想される。これが本当かどうかは心の中をのぞいて確かめるしかない。しかし、我々は群れを作る動物であり、群れで共同作業をする。そのため、共同作業をおこなえるように、認識機能が似ているように遺伝子が作られている可能性が高い。
ノエシスしかわからないはずの我々が、他者の認識世界を想像していることは不思議である。種族のために生きることは、利他的な判断だとは限らない。自分の種族の利益を計ることは、利己的な贅沢なのである。誰だって、自分の種族が得をしたら嬉しいのだ。我々の社会は、国家を単位として機能するように作られている。国家の境界線は完全ではなく、国家の境界線に守られない民族も存在する。現代でも、民族と国家の境界線を調整するための戦いは終わることがない。
我々のノエシスが、個体を超え、種族の繁栄のために機能することは、充分に納得のいく理由があることを理解してもらえただろうか。我々の存在が種族を根拠とする可能性はあるのである。我々の主観が守っている価値観が、個体を超越して、複数の個体によって伝えられる物事によって形成されていることがありえるからである。我々の主観は、自己の内側から発生した発想だけからは作られない。我々の主観は、仲間の共同作業の中で発生した発想を守るように作られている。そのため、我々の存在の根拠は種族にある。この場合、種族は民族を意味しない。生物の種のどこに境界線を引きかはっきりしない仲間を意味する。
種族は、ノエシスの外側にある。だから、我々はノエマのために生きている。我々のノエシスが種族だと認識するノエマのために生きているのである。ノエシスのために生きるか、ノエマのために生きるか。強い意思で個人主義の価値観を形成した者でない限り、たいていは我々は、仲間のために生きるのである。つまり、我々はノエマのために生きるのである。
ノエシスがノエマをマインドコントロールする場合、そのノエシスは教祖だといえる。逆に、ノエマがノエシスをマインドコントロールする場合、そのノエシスは信者だといえる。ノエシスとノエマは、主人と奴隷の関係を複雑に構成して、主人と奴隷の関係を何度も革命しながら生きていく。それは、我々が種族を存在の根拠としているからなのである。無人島で一人で生きるようには、我々は進化していないのだ。我々は群れを作るように進化している。
しかし、我々の仲間は裏切りやすい。友情は壊れやすいものだ。誰もが失敗をする。失敗の責任をとることができるか。失敗に気付くことができるか。失敗をとり戻せるか。それができないだけで友情は危険を迎える。我々の存在は、現実的に有効な確実性をもとに築くべきだ。現実的に有効な確実性は、種族ではなく、個人の個体の制御による。そのため、我々は個人として生きている。つまり、我々はノエシスのために生きるのである。
7、魂の構造
ノエシスとノエマの関係は、もっと複雑で多様な分類が可能である。それは、次のように分類できる。
物自体、感覚器で知覚する現象、意識を形成する現象、意識、意識が想定した思考の対象、である。
我々はこのうち、意識をノエシス(考えるところ)と呼んでいる。
我々はこのうち、感覚器で知覚する現象、意識が想定した思考の対象の二つをノエマ(考えられる対象)だと呼んでいる。どちらも意識と関りを持ち、意識の中で像を作るからである。そのため、どちらもノエマである。
そして、意識を形成する現象は、人類が歴史上、魂と呼んで来たものであると私は考えた。
かつて、十一世紀のイスラムの哲学者イヴン・シーナーは、思惟するところのものを指して、魂と呼んだ。イヴン・シーナーは、医者であり、思惟するところのものが肉体とは異なることを確信して、哲学的驚きをもって、魂は必ず実在して、肉体の死とは無関係であり、死んでも滅びないだろうと主張した。
六世紀のキリスト教の哲学者のボエティウスは、魂は人の精神と人のイデアを仲介するものであると考え、精神の根拠は非物質的なものであると主張していた。
十三世紀のキリスト教の神学者トマス・アクィナスは、神の創造は完全であり、そのため、神の造った人は完全であると主張した。トマス・アクィナスは、現実には不完全である人の精神が完全であることを説明するために、人の精神は不完全だが、それはデミウルゴスが造ったものであり、神が造った人の魂は完全であると主張した。トマス・アクィナスはグノーシス思想に近い主張をしていたといえる。そして、トマス・アクィナスは、不完全な人の精神は、その本質は永遠で完全な魂を根拠としているという神秘主義を述べた。
この辺りの魂に関する思想は、一神教の神学に強く影響を与え、人の意識を形成する根拠は物質ではなく、非物質的なものだとしていた。このことを信じている人は今でもかなり大勢いる。ニューロン構造が発見されたのに、いつまでも中世の魂の思想を信仰するのは、魂の信仰がわかりやすく、感動を呼ぶものだからだろう。そのように中世の人たちが学説を作り、その学説が魅力的になるように練り上げたのだ。
現代では、人の意識は物質が形成していることはわかっている。かつて魂と呼ばれたものは物質だった。ノエシスは分散した点の領域性からできるものであり、我々にはノエシスを完全に知ることは難しい。それだから逆に、我々自身であるノエシスを未知なる神秘としてとらえ、魂の神話は支持されつづけていく。
我々は、意識を形成する現象を感じることは決してない。意識を形成する現象は、ニューロン構造であるが、これがどのような存在であるかを知覚するようには人類の感覚はできていない。
しかし、我々は意識を形成する現象を知覚することがある。例えば、疲れである。疲労がたまると、疲れが現れ、精神が機能しなくなることは、物質的な変化を想定して感じることができる。例えば、無意識の叫びである。無意識が我々の意識を激しく動かした時、我々はそれを無意識の叫びと呼ぶべきかどうか。無意識は、意識を形成する現象と呼ぶことも可能である。ならば、それは魂の叫びと呼んでもよいのだろう。
意識を外部から動かすためには、ノエマではなく、魂をいじってやる必要がある。このように、ノエシスとノエマは、どちらも魂ではなく、魂はまた別に存在するものである。




