銀色の青年
太陽らしき塊が、東ではなく西の山の向こうへ傾くにつれ、月らしき塊が、まるでオーロラか薄いヴェールのように波打つ星空を携え東から現れて、瞬きながらじわじわと覆いつくしていく。
濃いオレンジ色の夕暮れが、少しずつ深い闇夜に浸食される。
コッチの世界では日の暮れ方も違う。
白樺の森は、ほの暗い中でもその幹が青白く発光していた。
「ビチビチ」
不穏で粘着質な音と共に、何かが木の根元で蠢いている。
どろりとしたその奇妙な黒い塊は、白樺に吸いつくとその光を取り込むように発光しだす。
代わりに、白樺は闇に溶けるような漆黒に変色し、葉は全て灰となって崩れ落ちていった。
「グシャッ」
鋭い爪を出した巨大な銀色の獣が、怪しげな塊を容赦なく踏み潰した。
塊は発光を止め、ただの黒い液体となり地面へと溶け消える。
「ここにも出たか……」
銀色の獣は透き通る声でそう呟いて、溶けていく様を見ていた。
そのうち、ピクリと片耳だけを別の方向へ向ける。
獣にしか感じ取ることの出来ない、まったく別の生き物の気配を感じ取ったのだ。
この気配を、獣は知っている。
「懐かしいな」
銀色の獣は夜空を見上げ大地を蹴ると、一瞬にして森を見下ろせるほど高く空中へ浮く。
その体を青い炎が包み込み、獣は何よりも早く空を駆け抜けていった。
それはまるで、一筋に光る流星のようだった。
ケヤキの家では、木製のダイニングテーブルにココ、颯太、そしてヤマネが席についていた。
テーブルにはパンやチーズ、果物などが並べられている。
そこへキッチンからイロばあがやってきた。
「はいっどーぞ。イロばあ特製ガーベラのシチューだよ」
深紅の鍋を両手に持ったイロばあは、鍋と同じくらい真ん丸とした白髪の老婆だ。
オレンジ色のドレスを着て、これまたオレンジ色の小ぶりな帽子をかぶっている。何故か帽子には、一枚の葉がついた枝が刺さっている。
(みかんみたいなんだよな……なんか全体的に丸いし)
イロばあの姿を繁々と見つめながら颯太はそんな事を考えていた。
ココの説明によるとケヤキの家の家主はこのイロばあだ。
家中に所狭しと置かれている植物や瓶詰は、全て「イロ」を作る素材らしく、ここには全ての色彩が揃っているのではと思うくらい鮮やかだ。
イロばあはその素材を調合して注文に合わせたイロを作る仕事をしており、ココは住み込みで弟子として働いているらしい。
「イロって言うのは、全ての生き物に必要な物だよ。時間が流れていく時、季節が巡ってくる時、生きていく時死んでいく時……生き物はイロを変えていくでしょう?」
ココはそんな風に教えてくれたが、結局「イロ」とは何なのかよく理解出来なかった。
というかそもそも、コッチの世界に来てしまってから理解できている事の方が少ないが。
「ソータ、たんとお食べなさいね」
イロばあは鍋をテーブルに置くと、器にたっぷりと盛っていく。
隣の席に着くヤマネ(正確には席では無くテーブルの上に乗っているの)が、小さな体で器用にナイフを使ってパンを切っていく。
紫や黄色の鮮やかな切り口のパンを颯太の皿に乗せた。
そしてその上にチーズまで。
(こうやって食べるとウマいんだゾ)
とでも言いたげにソータを見つめている。どうやらヤマネは世話好きらしい。
颯太はシチューの入った器を受け取り、自分の前へ置く。
香ってくる美味しそうな匂いをくんくんと嗅ぐ。
ぱっと見は颯太もよく知る普通のクリームシチューのようだが、そこに小さく色鮮やかな花々が、そのまま入っている。
祖父母の家で昼食に焼きそばを食べてから一体どれだけの時間が経ったのか、颯太には見当もつかない。
全員がテーブルに着くと「いただきます」と声を揃えた。
颯太はシチューを一口、口にしてみる。
優しいクリームの味と華やかな香りに心がほっと緩む。
自分自身に今何が起きているかはまだ何も分からないが、お腹が減っているのは確かだった。
そんな様子の颯太を見て、イロばあとココ、そしてヤマネは安心したように食べ始める。
「あのね、ソータ」
向かいに座るココは、気遣うように颯太を見つめた。
「ソータがどうしてここに来ちゃったのかは分からないけど、ソータが帰れるよう私たちも協力するから安心してね」
ココは目を細めて柔らかく微笑む。
「……うん。正直これが夢なのか現実なのか、まだよく分かってないんだけど、取りあえず帰る方法を探すしかないみたいだな」
颯太はヤマネから貰ったパンをかじる。
「帰る方法ならね、知っているかもしれない人がいるからきっと大丈夫だよ」
「知っているかもしれない人?」
「そう。コッチの世界とアッチの世界を行き来している人がいるの」
「えっ本当に!?」
颯太は驚いて立ち上がった。
「ふふっソータ、ほっぺたに何かついているよ」
いたずらっぽくそう言うと、ココは手を伸ばして颯太の頬に付いたパンくずを取ろうとする。
「だからっこっ子供扱いしないでよっ」
颯太は顔を真っ赤にし、慌てて自分で頬を擦る。
「ごめんごめん。だってソータが本当は私と同じくらい大きい子なんて、まだ信じられなくて」
ココは面白がっているようだ。
「ホントにねえ、こんなに小さいし」
イロばあまで一緒になってころころと笑い、ヤマネも何だか頷いているように見えた。
(やっぱり……何だか懐かしい感じがするんだよな)
それは颯太がココに初めて出会った時から、ずっと感じている事だった。
それについて聞いてみようかと颯太が口を開きかけた時、
「キュウキュッ」
ヤマネが鳴きだしぐるぐるとテーブルの上で回り始めた。
「おや、来たみたいだねえ」
イロばあはそう言いながらのんびりとスープを口にした。
「来たって・・・誰が?」
颯太はきょとんとする。
「帰る方法を知ってるかもしれない人、だよ」
ココは玄関を指さした。
一瞬、外で何かが光ったのが見えた。
窓の隙間からほんの少しの風が入り、ふわりとカーテンが靡いたようだ。
少しの静寂の後、静かにドアが開く。
入ってきたのは、銀色の髪をした青年だった。
切れ長の目を囲うように朱色の模様が入っており、金色の瞳が際立つ。肌は陶器のように色白で生気が無い。
「おかえり」
ココがそう、声をかける。
青年はすぐに颯太の姿を捉える。
端正で、しかし表情の読み取れないその顔に颯太は少したじろいだ。
「……成程、灯台下暗しだ。異変の元凶がここにいるとは」
低く透き通る声でそう言うと、青年は颯太を真っすぐ見つめながら、少し口角を上げる。
笑っているようだ。
その場にいた全員が、青年の意味深な言葉に首を傾げた。