きのう、今日、あした
眠ろうとしていて、ふと思い浮かんだ言葉。
きのう、今日、あした。
その語感が何かに似てると思って頭の中を探してみたら、グリコ、チョコレート、パイナップル、という言葉に行き当たった。
あれは確か、じゃんけんをして勝った決め手に応じて言葉の文字の分だけ進める遊びだったっけ。
グーならグリコ、チョキならチョコレート、パーならパイナップル。
どこをどう進んで、その後はどうするんだったか全然思い出せない。
私は自分の高校以前の記憶が、恐ろしいほど思い出せない。
小学校の記憶になると、廊下で走っていて名前を忘れた先生に怒られた一瞬の記憶しか残っていない。同級生の名前も数人しか思い出せない。
きのうはその数人のうちの一人、拓也と会ってセックスをしていた。バイトが終わった帰りに待ち合わせて、ホテルで飲んで適当に喋ってセックスをして、朝方に帰って来た。付き合っている訳じゃなくて、なんとなく心地良いからその関係は成人式以降もう四年も続いている。
今日は遠くに住んでいる和樹と電話でずっと話していた。青山で見つけたという白いニット帽が送られて来て、全然嬉しくなかったけど嬉しい声を出してお礼を言うと彼はとても喜んでいた。
来月ホテルを取って泊まる約束をして電話を切った。向こうは付き合っていると思っているみたいだけど、私からそんな事を言った覚えは一つもない。
あしたは月に一回くらい会う弘高とデート。
私より五つ年上で、物怖じしない性格の彼といる時間がとても楽。車で港まで夜景を見に行こうと言っていたから、多分何処かに泊まってゆっくりする感じなのだろう。
弘高は他の人みたいにあまりガチャガチャした場所にはいない、とても静かな場所にいる人。
会いたい、と時々思う。
そんなきのう、今日、あしたを過ごす私にはこれといって目指しているものも、やりたいことも何もない。
朝起きてアパレルのバイトへ行って、帰って来て化粧を落とし、お風呂に入って、上がったら腹筋と背筋をそれとなく鍛えてパックしながらお酒を飲んで軽くつまんで眠るだけ。
お酒を飲みながら色んな映画やアニメを観ているはずなのに、どうにも内容を覚えられない。でも、観ている瞬間は楽しい。
それなのに、両手で水を掬ったときみたいに指の間から記憶が次々と零れ落ちてしまう。
ここに止まりたくないのか、それとも、初めから要らなかったのだろうか。
それは私には分からない。
きっと、永遠に分かりっこない。
何度かのきのう、今日、あしたが終わって秋がすっかり冬に変わろうとしている。
夕暮が過ぎて公園へ続く遊歩道を歩いていると、小学生の男の子達が私の横を走り抜けて行った。
何が楽しくて笑っているのか分からないけれど、子供達は一生懸命に笑っていた。とても真剣に笑っているな、と思った。
そんな風に最後に真剣に笑ったのはいつだったっけ。
拓也と居た時のような気もするし、お父さんが大切にしていた湯飲みを自分で割ってしまった時だった気もする。気がするだけで、やっぱり全然思い出すことは出来なかった。
風が吹いてカサカサと音を立てながら私の横を赤や黄色の葉っぱ達が吹き抜けて行った。
ちょっと寒いな、と感じてコートのポッケに手を入れた。夕暮が終わって遊歩道が夕闇に包まれると、やたらと派手なシルエットを子供達が取り囲んでいるのが見えて来た。
夕闇の中で子供達の輪の中心に立っていたのは、サーカスで良く見掛ける「ピエロ」だった。
黄色いポワポワの頭に小さな帽子を被っていて、泣いているメイクに大きな赤い付け鼻をしていた。
口元も大きな唇のペイントが施されていて、子供達に無言で手を振りながら、ぷかぷか浮かぶ風船を配っていた。
その光景はなんだか夢の中の世界を見ているみたいで、とても幻想的だなぁと感じた。
これもいつもの映画や漫画みたいに、私は忘れてしまうんだろうか。
そんなことをぼんやり考えながら眺めていると、子供達は蜘蛛の子を散らすようにどこかへ走り去って行ってしまった。
遊歩道の真ん中にぽつりと残されたピエロは、こっちを振り返って手を振った。
私は思わず無邪気になりそうなテンションになって、手を振り返した。
そしたら、ピエロは両手を広げて胸元に手を置き、ショーの前にやるようなお辞儀をしてみせた。
もうすっかり暗くなってしまっていて、辺りには誰の姿も無かった。
ピエロと私。二人きりのショーのはじまり。
そんなことを考えながらゆっくり近付いて行くと、ピエロは後ろに手を回し、大きな花束を目の前で咲かせてみせた。
自分でも、心が一瞬にして躍るのがわかった。
子供の頃って、きっとこんな気持ちで毎日が楽しかったから何も覚えていないのかもしれない。
楽しいことに夢中で、思い出に残そうなんて余裕が無かった。
だから覚えてなかったんだ。なんだ、良かった。
そんな風にほっとしながら差し出された花束を受け取ろうとすると、お腹の辺りが一気に熱くなった。
おなかの辺りを見ると、花束の中から長いナイフが飛び出していて、私のおなかに深々と刺さっていた。
顔を上げると、泣いている顔のピエロのメイクの下が、真顔だとすぐに気が付いた。何の感情もないような目をしていて、私の顔をじっと覗き込んでいる。
「裏切り者」
ピエロは一言だけ呟いて、私のおなかに刺さったままのナイフを置き去りに何処かへ行ってしまった。
とても聞き覚えのある声のはずなのに、思い出せない。あれ、誰だったっけな。いつも電話しているような気もするし、懐かしい声のような気もする。でも、声を聞いたらとても落ち着いた感じもしたのに、全然思い出せない。
あれ、これって、もしかして、私、死ぬのかな。
助けを呼ぼうと思っても、倒れたまま身体は動かせないし、少しの声も上げられなかった。
寒いな。凄く寒い。
身体が震え出して、止まらなくなる。まだそんなに寒い時間じゃないはずなのに。
意識が足下の方から無くなって行く感じがして、私は凄く怖くなる。助けて、誰か。お願いだから、まだ生きていたい。
凄く痛くて怖いのに、ふと思い出したのはグリコ、チョコレート、パイナップルのこと。
じゃんけんで勝ったら、言葉の数だけ階段を上がって行く。そう、階段の途中で誰かとじゃんけんをしたのを覚えている。
覚えているってことは、あんまり楽しくなかったのかもしれない。
それで、階段の上へ辿り着いたら勝ち。
私の意識がどんどん白くなっていって、少しずつ痛みも恐怖も消えて行く。
じゃんけん、ぽん。
グリコ。
じゃんけん、ぽん。
チヨコレート。
じゃんけん、ぽん。
パイナツプル。
上がりー。
私は、階段を昇り切った。
それからすぐに、意識が白く染まり始めた。