14 誰がための賭け
足を進めるほどに空は曇り、周囲はますます薄暗くなる。
どんよりと曇った空に加えて、倒壊しかけのビルの影で視界が悪い。
傾いたビルは外観が溶けかかっている。
扉は壊れ、無事なはずの窓ガラスも粉々、壁には無数の弾痕が刻まれている。
表からは決して見えない、この町の影がここだった。
先ほどから背中に視線を感じる。
俺が一歩歩むごとに、視界の端を、何かが横切る。
影にしては小さく、鼠にしてはデカ過ぎだ。
十中八九、アナキズムの連中だろう。
視界は悪く、周りは世間をお騒がせ中のギャング。
こんな場所を訪れるのは、自殺志願者か、とんでもない阿呆だけだ。
......自分が前者でも後者でもないことを祈りながら、背の軍刀にそっと手を伸ばす。
マント越しのため、気づかれてはいないはずだ。
気を張って、その時を待った――。
だが、妙なことにその時は訪れなかった。
連中が襲い掛かってくる気配がない。
連中にとって俺は都合の良すぎる獲物のはず、ここで仕留めない道理はない。
それどころか先ほどまで自身を囲んでいた気配は一つ、また一つと消え、ついぞ俺の感知できる気配はゼロとなった。
そしてまた、不気味なほどの静寂が俺を包んだ。
監視されるよりも、よっぽど気味が悪い。
その不気味な静寂は、新たな気づきをもたらした。
「誰か、泣いてる......」
空虚で廃れたビル街に、微かな泣き声が響く。
その声は子供の声のようで、どこか大人びていた。
泣き声のはずなのに、優美ささえ感じさせる、不思議な声だった。
俺はその声を頼りに、スラムの深淵へと足を進めた。
◇
明らかに怪しすぎる。
俺の目の前には、周りと比べても一段と大きいビルがそびえ立っている。
表面のガラスはすべて砕け散り、割れたコンクリートからは鉄筋が露出している。
ここまで近づくと、中からはっきりとすすり泣く声が聞こえるのがわかる。
そしてここまで来て、ようやく気づいた。
自分がどれほど迂闊なことをしているのかに。
ここは少年、少女のギャングの活動地であり、この声の持ち主が構成員である可能性は十二分にある。
そもそも、そんな危険な場所に少女がいること自体、怪しい。
......それでも、その声には本物の哀しみが滲んでいた。
かすれた息遣い、途切れそうな嗚咽、助けを求めるか細い声――。
気が付けば、俺はその声に導かれるように、廃ビルの前に立っていた。
ガラスの扉は、当然のように破壊され、容易に中へ入れそうだった。
それらも俺を誘っているようだった。
罠だ、明らかに。
自分に言い聞かせるように、思考を巡らせる。
それでも頭の中では一つの考えが離れない。
もし、本当に助けが必要な子だったら?
俺の足が、一歩、ビルの中へ進んだ。
「......何やってんだろうな」
その行動はあまりにも危険な賭けであり、捜査官として失格の行動であった。
自分の愚かさに自嘲する。
それでも、もう止まらなかった。
◇
ほの暗いビル内部を歩く。
外よりも生暖かい空気が、この場所の陰気さを加速させていた。
足元には割れたガラスが散らばっており、ブーツで来ていたことを幸運に思う。
周囲の警戒しながら進むが、やはり人の気配は感じない。
ガラスをブーツが踏みつける音、そして少女のすすり泣く声だけが、がらんどうのビルに響いていた。
声を頼りに歩き続けると、ビルのホールと思わしき場所にたどり着いた。
吹き抜けの構造になっており、視界が急に開ける。
吹き抜けの天井は崩れ去り、光がホールの中央に差し込んでいる。
その光の中央に、彼女はいた。
まず目に飛び込んできたのは、身体に見合わぬ長い髪だった。
崩れた天井から差し込む光が、それを照らしている。
乱れているはずの髪は、不自然なほど滑らかに輝き、まるで光そのものが彼女を選んだかのように思えた。
少女は静かに床に伏し、細い指先が微かに震えている。
腕には血が滲み、透き通る肌に赤い傷が線を描いていた。
それなのに、その姿はどこか儚く、幻想的な印象さえ与える。
まるで、夢の中の幻影のようだった。
一瞬、時間が止まる。
俺は息を飲み、何をしに来たのかさえ忘れかけた。
そして、腕に滲む血を見て、ようやく意識を取り戻した。
怪我をしている――。
ハッと息を吐き、現実に引き戻される。
俺は地面を蹴り、少女に向かって駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
サッと手帳を確認させ、自分は怪我の具合を確認する。
腕に浅い切り傷。値は固まりかけている。致命傷ではない。
「......なら、良かった......」
怪我が浅いことを確認して、そのまま視線を上げた。
少女の頬を伝う涙が、光に反射して煌めく。
翡翠の瞳からは涙こそ流れていたが、揺らいではいなかった。
そして、その表情をみた瞬間――賭けに負けたことを確信した。
静寂が破られる。
周囲の暗闇から、物音。ガラスを踏む音、囁き声、気配が一気に膨れ上がる。
反射的に振り向くと、暗闇の中でポツ、ポツと小さな灯りがともる。
携帯できるガス灯。数は先ほどの二倍以上。灯りは俺を囲むように並んでいた。
完全に詰んだ状態で、俺は再び少女の方を振り返る。
変わっていない。どうやら見間違いではなかったらしい。
少女の目には、悲しみではなく......僅かな嘲りが浮かんでいた。
「――ハズレ」
クソガキめ。
カブトムシかよ