11 上官殺し
5年の更新でございます。
重厚な扉を開けた瞬間。室内に響いていたざわめきが、ふと止んだ。
ーーまたか。
藤原一手は、軽くため息をつく。
陸軍の本部だった場所を改修し、今の組織の会議室として使っているこの大部屋。
天井は高く、机が整然と並ぶ。普段は報告書や荷物が散乱していて、決して静かな空間ではない。
だが、俺が来るときに限って、こうして沈黙が訪れる。毎度のことだった。
扉を閉めながら、視線だけで周囲の雰囲気を探る。すぐに、くぐもった囁き声が耳に入る。
「こいつだ…」
「あぁ、例の“上官殺し”か」
「六十人死んで、自分だけ生還とか…」
小声のつもりだろうが、俺の耳ははっきりと捉えていた。
こういうときばかりは、この地獄耳が疎ましい。
噂はまだ消えていない。いい加減、聞き飽きた。
眉間に皺が寄る。
曇天作戦の結末――六十人以上の犠牲、行方不明となった上官。
生き残ったのは俺だけ。
その結果として生まれた、「上官を殺して手柄を横取りした」という噂。
どれだけ時が経とうが、この空気には馴染めない。
俺が選んだ道なのだから、仕方のないことではあるが。
早く報告を済ませて、出よう。
足早に会議室を進む。背中に突き刺さる視線が痛い。
◇
会議室の奥に、彼女が立っていた。
加藤毬音。
細身の長身、着こなした制服に無駄な皺はない。
背中まで伸びた艶やかな黒髪、水晶のように澄んだ瞳。
どこか人工物のような、整いすぎた美貌だった。
「報告は?」
その美貌に一瞬見惚れかけたが、彼女の声がすぐに現実へ引き戻した。
表情筋は微動だにせず、声にも起伏がない。
まるでロボットのように淡々としている。
「あ、はい…」
慌てて書類を取り出す。
「…先日依頼された手配犯、奥村礼二の件ですが、こちらの突入タイミングが漏れていたのか、もぬけの殻でした。おそらくダミー情報に…踊らされた形になります…」
言いながら、胸の奥に情けなさが込み上げる。
言い訳がましい報告になった自覚はある。
身構え、厳しい言葉を待つ。
しかし、毬音は「そう」とだけ答えた。
それだけ?
怒りも苛立ちもない。むしろ、何も思っていないかのように、あっさりと流した。
「その件は一旦置いといて、新しい任務があるの」
毬音の声は、相変わらず平坦だった。
「人保町のスラムで、子供たちの犯罪が頻発している。復興区でも被害が出始めたから、まとめて検挙してきて」
まとめて検挙、って…子供の集団?
嫌な予感がした。
「あ、もしかして『アナキズム』って名乗ってる少年ギャングのことじゃ…」
俺の言葉に、周囲の数人が反応する。
悪名高い子供犯罪集団。
ひったくりから始まり、強盗、破壊活動。最近は武器を手にしたことで、手がつけられなくなっているという。
子供とはいえ、武器を持った連中だ。本来なら隊員数名で一斉に検挙するのが常道のはず。
「子供とはいえ、あの子たちは武器を持っていて…凶暴化しています。指名手配犯の追跡とは訳が違いますよ。流石に一人ではーー」
言いかけた瞬間。
毬音の手が、すっと俺の頬に添えられた。
「大丈夫、武器を持ったとはいえ子供は子供。あなたに対処できないはずがない」
その表情筋は一切動かない。
そして、淡々と続ける。
「そうでしょ?“上官殺し”さん?」
会議室の空気が、一瞬にして凍りついた。
心臓が、バクンと跳ね上がる。
…えっ?
毬音の顔は変わらない。
その言葉の真意を測りかねる。
まさか、本当に疑ってるのか…?
いや、毬音に限ってそんなはずはない。
だが…。
ぐるぐると考えが巡る。
何か言おうとしたが、その前に毬音が別の隊員に呼ばれた。
「がんばってね」
そう言い残し、彼女は去っていった。
◇
俺はその場に立ち尽くしていた。
「…なんなんだよ…」
呆然とつぶやく。
すぐそばの隊員たちがチラリと俺を見て、小さく口を噤む。
いたたまれなくなり、足を動かした。
逃げるように会議室を出る。
入った時よりも軽くなったはずの扉が、背後で重い音を立てて閉じる。
まるで「さっさと消えろ」と突き放されたように感じた。
結局、俺は噂に縛られたままか…。
廊下の薄暗いガス灯が、俺の影を長く引き伸ばしていた。




