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それじゃあまた、五分後に  作者: ツナ缶
3/4

3 老人


 恐れ多くも個室を宛がってくれた、娘夫婦へのお礼を済ませる。寝たままでは失礼だなと思っても、どうやらもう体を起こすことも叶いそうにない。

 そう、思ったことをそのままロにすると、娘は唇を嗤み締めて、泣きそうになるのを我慢するかのように微笑んでみせた。


「もう、そんなこと気にしなくていいのに」

「そうですよ、義父さん」


 娘を選んでくれた青年も、同じように笑ってくれた。二人とも、血の繋がりなんてないのに、笑った顔の雰囲気がとても良く似ている。もしかしたら、家内とも似ているのかもしれない。だからお互いに選び、巡り会ったのだろうか。だとしたら嬉しいと思って、私も同じように笑顔を浮かべる。


「おじいちゃん、大丈夫?」


 似た顔が三人目、孫娘が僕を思いやるように問いかけてくる。彼女はべッドの脇に寄りかかり、僕の顔を覗き込んでいた。その頭を撫でてあげようと思って、手に力を込め、やめた。

 ……できなかった。もう、できなくなっていた。


「ああ、大丈夫だよ。だから、外で遊んできなさい」

「うんっ!」


 僕の言葉に気持ち良く頷いて、彼女は病室を飛び出した。その自分の娘を慌てて追いかける彼の背中は、立派な父親の姿そのものだ。彼には、安心感しかない。気は強くはないが、優しく、思いやりのある男だ。妻に似て所々抜けている娘も、安心して任せられる。


「……本当に、大丈夫なの?」

「この人は本当に大丈夫な時しか、大丈夫なんて自信を持って言わないわよ」


 入れ替わるように、妻が綺麗な花を生けた花瓶を手に病室へと入る。娘は座っていた丸椅子から立ち上がり、自分の母親に座るよう勧めていた。

 いいのに。お母さんも腰が悪いんだから座ってよ。年寄り扱いして。立派に年寄りじゃない。

 軽口の応酬。何気ない会話。一生聞いていたって、もしかしたら飽きないかもしれない。


「それじゃあ、帰る前にまた寄るからね」


 そう言って、娘は病室を出て行った。病室を出る間際の顔はこの弱った視力ではうまく映ってはくれなかったが、たぶん、笑ってはいなかっただろう。


「……本当に、大丈夫?」


 遠くなっていく娘の足音を間いて、今度は妻が問いかけてきた。

 濃く、若い頃はどこにも見当たらなかった皺が彫られた顔。寄る年波に抗おうともせず、お互いに年々老けていくな、などと笑い合っていた。

 同じ時間を生きていたつもりでも、終着点は、ちょっとズレていたみたいだ。


「大丈夫だよ。もう……大丈夫なんだ」


 僕の言葉を、真意を、長年連れ添った妻は相違なく受け取ってくれたようだ。一瞬、本当に短い時間だけ、ロを開け、何かを言おうと喉を振るわせようとして、何も言わずに閉じる。俯いたせいでよく見える髪の毛は、若い頃の綺麗な黒髪に比べ、白く濁っている。


「そう、ですか」


 少しだけ、上擦っていた声。それでも、顔を上げて見えたその瞳には、一切の涙が見当たらない。

 強い人だ。涙は女の武器。その言葉が嫌いだと、昔からよく言っていた。情けないと吐き捨ててしまえる芯の強さを、美しいと思っていた。せっかくの武器なんだから利用すればいいのに、なんて軽口に不満を露わにする気高さが好きだった。その美しさは、今も損なわれていない。

 自分にとって、彼女の一番美しい姿が、最後の最後になって更新されてしまう。プロボ一ズした時に浮かべてくれた彼女の泣き顔が、一番美しいと思っていたのに。

 皺だらけの顔も、白く濁った髪も、泣かないように力を入れた、下手くそな笑顔も。

 美的感覚が狂ったのかな。なんて思うぐらい、美しく見えてしまうんだ。


「あなたと……あなたと一緒に生きて私は、幸せでしたよ」


 ああ、そんな言葉まで、君は涙を流さずに口にできてしまうのか。同じことを言おうとしたら僕は泣いてしまうから、口にすらできていなかったのに。


「嬉しい、な」


 それだけしか返せず、僕は目を閉じる。それ以上言ってしまうと、元より涙もろい僕は彼女の前でまたみっともなく泣いてしまうだろう。最後に見られる顔が泣き顔では、恰好つかない。

 でも、これだけは、口にしてしまう。


「幸せ、だったなぁ」


 楽しい人生だった。たくさん笑えた人生だった。頭の中にいくつも思い浮かぶ光景は、僕の人生そのものだ。辛いことも悲しいこともあったけど、振り返れば、幸せが覆い尽くしてくれている。

 たった()()()だけの人生だったけど、もう、大丈夫だ。

 ずっと傍で見てくれていた少女に向けて、僕はロを開く。


「五分、ですよ。これで、お終いです」


 べッドの傍に、胸を押さえ膝をつき、苦しそうに息を吐く少女がいる。黒い髪は病室の床に広がり、肩は激しく上下している。

 あまりにも、辛そうな姿だ。


「あやめ。彼も、こう言ってくれている」


 私の傍に妻が寄り添ってくれていたように、彼女の傍には小さな、金色の瞳を持つ愛らしい子猫がいた。黒い毛に覆われた小さな体の子猫は、私の衰えた指先よりも細い前足で、彼女に触れていた。

 彼女は首を横に振る。長い黒髪を振り乱し、小さな体を精一杯に震わせて拒絶する。


「駄目、駄目よ。まだ、五分経ってないわ」

「もう、充分なんですよ。僕はもう、満足です」


 彼女が苦しそうに息を吐くたびに、病室の風景が霞み、ぼやけていく。私の視力だけの問題ではないのだろう。像は歪み、妻が持ってきてくれた花瓶の花も今では輪郭すらもおぼろげになってきた。描き上げたばかりの水彩画に水をかけたかのように、全ての像が揺らいで、滲んで、消えていく。

 愛していた妻の姿も見えなくなって、病室の窓にすら何も映らなくなって。自分にかかっていた布団の感触すら消えていく。

 残ったのは、横たわったまま身動き一つ取れない僕と。苦しそうに息を吐く少女。彼女に寄り添う黒猫だけだ。

 白いワンピースにひどい皺が残るほど、少女は自身の胸を両手で押さえている。とても、とても長い距離を駆け抜けてきた後かのようだ。苦しそうに喘ぐ姿は、どうしたって私の心に罪悪感を覚えさせた。


「すみません、僕のために」

「君のせいではないよ。彼女がいじっぱりなだけさ」


 ため息混じりに黒猫がそう言って、彼は少女の膝へと飛び乗る。


「まだ力の使い方に慣れていないのに、無茶をし過ぎだ。五分という制約は、君が決めたことだろうに」

「でも、だって、彼は……」


 少女は震えて、今にも泣き出しそうな声を上げる。


「彼は、五分なんかじゃ全然足りないよ。もっと、もっとたくさん、生きたかったはずなのに」

「それを言ったらキリがないだろう? 今度は、僕が強制的に止めるからね」


 涙をいっぱいに溜めた真っ黒な瞳で、少女は黒猫を睨みつける。無言の抵抗を受けて黒猫はこれみよがしに深くため息を吐いた。


「……満足、できたかい?」


 もうベッドの輪郭すら目には映らない。何か、近づいてきた声からして、きっとあの黒い子猫だろう。小さな柔らかい感触が、私の頬の傍までやってくる。


「君は、産まれ落ちることすらできなかった魂だ。意志を持つことすら許されなかった存在だ。それでも、彼女は気づいてしまった」


 だから、ここに来たんだと。黒猫は言う。


「彼女は頑固で我儘だからね。君のような存在はこの世には溢れているのだから、それを一つ一つ拾っていったらキリがないとは言ったのだけど……まぁ、今後は、やめてもらうつもりだ」

「やだ、やだよ……」


 胸の苦しみは治まったのだろうか。でも、彼女の涙は止まらないし、苦しそうな表情は変わらない。まるで見た目通りの、年相応の子どものように、ただひたすらに両目から涙を零していた。


「だって、もっと生きたかったはずだもの。生まれて、幸せになりたかったはずだもの。こんな、こんなにも素晴らしい人生が送れたはずなのに」


 次から次へと、僕なんかのために溢れてきてくれる涙を真っ白なワンビースの袖で拭う。擦り過ぎた彼女の頰は真っ赤になっていて、泣き続けた喉は嗄れて痛々しく響く。


「たった、五分なんかじゃ、なにも……!」

「……ありがとう、ございます」


 女の子を泣き止ませるような都合の良い言葉は知らないから、せめて、お礼だけでも言わないと。


「近くに、来てくれませんか?」


 さっきまでは動かなかった手が、体が、ゆっくりとだけど動き出す。未だ僕の体は皺だらけの老人の体なのに。どうしてだろう。死に瀕した肉体だったから動かなかったのか、はたまた、別の何かの働きなのか。わからないけど、手を伸ばせることに変わりはない。

 体を起こし、嗚咽すら漏らしながら泣いてくれる少女を見る。彼女は涙を拭いながら、それでも僕の言葉に頷いて、べッドの手すりに体を預けてくれた。

 彼女の頭に、僕は自分の皺だらけの手を置く。


「僕なんかのために、泣いてくれて、ありがとう」


 真っ黒な瞳は潤み、その端からいくつもの涙が筋となって流れていく。透明なそれは彼女の頰の稜線を辿り、雫となって落ちた。

 なんて綺麗なんだろう。なんて、美しいのだろう。

 たった五分間の人生。そんな短い制限時間の中、最後の瞬間を切り取ってもらった。自分がもし産まれてきていたら、どんな最後を迎えるのだろうか、と。

 結果は、あんなにも素晴らしいものだった。妻は僕のために、あんなにも必死に涙を堪えてくれていた。きっと、娘も僕が死んだことを知れば、たくさん涙を流してくれるだろう。娘を選んでくれた彼も、孫も、きっと。

 なんて、素晴らしい人生だったのだろうか。

 薄れていく。記憶が、僕の存在が。誰よりも何も持つことができなかった僕だ。消えていくのが道理だろう。

 掠れた視界に映る、彼女の頭を撫でる手を見る。皺だらけの手だ。よく見れば、手の甲の部分に深い切り傷のような跡が見えた。

 いったい、どうやって怪我したのだろう。それすらもう、思い出せない。いや、思い出すものなど初めからない。痛かったのだろうか。痛かったのだろうな。こんな深い傷、忘れることなんかできなかったはずだ。

 知らなかった。知りたかった。味わいたかった。痛みも苦しみも楽しさも何もかも。きっとたくさんの思い出が僕には待っていたのだろうけど、それはもう、どうしたって知ることはできない。

 今僕が知るのは、彼女が流してくれる涙の美しさだけだ。


「誰かに、涙を流してもらうのって……誰かが自分のために泣いてくれるのって、嬉しいんですね。身勝手ですけど、悲しんでくれるのって、こんなにも嬉しいんですね」


 涙を流してくれるだけの何かが、誰かが涙を流すに足る理由が、僕にもあったってことを知るのが。

 こんなにも嬉しいなんて。


「また、そうやって、誰かにも泣いてあげてください。たぶん、それはきっと、こんなにも嬉しいと思えることだから」

「……約束は、できないよ」


 彼女の頬に触れ、涙を一滴、指で受ける。ただの塩水であるこの液体が誰かの目から溢れるだけで、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。こんなにも、心を打つのだろう。


「でも……うん。頑張ってみる」

「……ありがとう」


 視界がぼやける。滲む。僕にも涙が溢れてきているのだろうか。嬉しくても涙は出るものだから、きっとそうだ。終わりが近づいてきているから薄れていく視界だってわかっていても、ずっと見ていたいって思える光景だとしても、涙を止めることはできない。


「良い、人生だったなぁ」






 そうして、彼の姿は私の前から消えた。

 水彩の絵の具で描かれた絵が雨に濡れ、滲んで像を失っていくように。じわじわと薄くなって、目の前のベッドに確かに横たわっていた老人は、跡形もなく消えた。

 瞼に残った、その痕跡すら許さないかのように、べッドには別の像が形を結び始める。泣き崩れる女性の姿だ。淡いピンク色の入院着を身に着けた女性が、手のひらを顔に押し付けるように、呻きにも似た声を上げる。


 ごめんなさい、ごめんなさい。産んであげられなくて。ちゃんと産んであげられなくてごめんなさい。


 そう、何度も何度も。声を上げて、嗚咽を漏らして、叫んでいる。病室には幾人もの人がいても、一様に表情は重い。

 女性の謝罪と、医者らしき人の静かで、それでいて沈痛な感情を滲ませた指示が飛ぶ。泣き叫び続ける女性の肩を抱きしめ、同じように涙を流す男の人の姿もあった。

 血があった。赤く滲んだものがあった。目を背けたくなる、産まれ落ちられなかった命があった。

 姿は見えないし、触れられもしない私は、この病室にいても誰の邪魔にはならない。けれど、この場にいつまでもいることは許されないと自分でも思ったから、慌ただしく動き回る人たちの間を縫うように、病室を出る。

 リノリウムの床を靴底が叩く音が、病院の廊下に響いていた。周囲に喧騒が満ちないよう、 努めて落ち着いたフリをして歩く看護士の姿が見える。誰もが、表情を重く、静かに。

 その人たちの顔を見ないように、俯いたまま歩く。視界を下げると、小さな黒猫が、金色の瞳を心配げに揺らしながら、私の後をついて来てくれていた。

 通路に置かれた長椅子に腰かけると、同じように黒猫も長椅子へと飛び乗った。


「……ねぇ」

「なんだい」

「少しだけ……うん、五分。五分だけ、一人にしてもらってもいい?」


 傍にいてくれるのは、嬉しいし、ありがたいし、頼もしい気持ちになる。けれど、今この胸の内に渦巻いている感情は、受け取った想いは、きっと私一人で噛み締めていないといけないから。


「これからも、五分だけ。一人にさせて欲しい」

「……それは、君にとって本当に必要なことなのかい?」

「わからない。だから、続けてみたいの」


 ずっと、私は泣いてしまっていた。誰かの無念を拾い上げて、持っているだけでいいのに。つまらない、下卑た好奇心で知りたいと思っているだけなのに。

 いつも、無様にも涙を流してしまっていた。

 私はそれを悪癖だと思っていたし、治さなきゃって思っていた。勝手に現れて勝手に願いを叶えて、五分だけ希望を与えて奪い取る。そんな、外道にも見えかねない行いをしている癖に、身勝手に泣いていいのか、と。

 でも。彼は、嬉しいと言ってくれた。私が流す身勝手な涙を、嬉しいと。


「全員がそう思ってくれるかはわからない。今だって、私なんかが泣く資格があるとも思えないよ。でも……泣いてあげられるのは、きっと私だけだから」


 消え逝く魂の前でほんの一瞬。涙を流してみよう。その人のために、泣いてみよう。怒られるだろうか。怒る人も、いるだろうな。でも、それでもいい。その怒りも、私は持っていこう。

 その人が最後に抱いた想いを受け取って、忘れないで。そのたびに、私の心も重く、苦しくなったのだとしても。

 知って、持って、生きたい。


「だから、その……これから五分間は放っておいて欲しいのだけれど。また、後で……一緒にいてくれる?」


 身勝手なお願いに、黒猫はため息を吐くかのように顔をしかめる。その顔を、舐めた前足で器用に洗って。


「はいはい、わかったよ。それじゃあまた―――五分後に」

 

 そう言って、彼は長椅子から飛び降りて去って行く。黒い尻尾を振りながら、遠くなっていく姿を、見送る。


「……うん、ああ。うん……五分、五分っ、だけ……」


 心にある悲しみが、未来への展望が、受け入れたかった未来への熱量が。それらが胸の内で爆発しそうになるのを、もう、堪えない。


「五分って、短い、なぁ……!」


 いつも、消え逝こうとする魂たちに自分で言っておきながら。

 今更、そんなことを、思い知った。


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