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それじゃあまた、五分後に  作者: ツナ缶
2/4

2 父親


 元より、まともな死に方ができるとも思ってなかった。

 人と手を取り合って協力した回数よりも、その手を叩き落とし足蹴にした回数の方がずっと多い人生だ。その方が効率が良く物事を進められたし、富が得られた。良心が痛むことはあっても、それをねじ伏せられるほどの結果が転がってこれば、自然と治まってしまうものだ。

 たとえ周囲からどれだけ毛嫌いされようと、目に見える数字と結果を見せつければ、本心はどうあれ、誰だって表面上は心を開き、擦り寄ってきた。

 裏切り、手を離し、蹴落とし、見下してきた。そういう人生だった。その過程で得た愛や恋や、そういった浮ついたものも自分から切り捨てて。

 結局残ったのは、自分がしてきたことをお手本にしたかのような、見事な裏切りを受けた自分だけ。


「だからまぁ、死ぬなら、誰かに殺されるんじゃないかって思ってたんだがな」


 冬の白けた公園の中。誰もいない夜の静かな空間に置かれた冷たいベンチに座り、俺は鼻で笑いながら口にした。


「意外と、落ち着いてるのね」


 深夜の遅い時間には似つかわしくない、少女の声が俺の耳にもちゃんと届く。


「それで、なんだったか。五分間だけ願いを叶えてやる、って話だって?」

「ええ。生き返らせろ。なんて言うなら、五分間だけ生き返らせてあげるけど」


 外灯がいくつかあるだけの、薄暗い公園。夜空よりもずっと黒く、長く伸ばされた髪を小さな指先で撫でながら、少女は口にする。

 季節感を感じさせない、コートすら羽織らないでただ真っ白なワンビースを着てるだけの、現実味のない存在だ。抱きかかえている黒い子猫の作り物めいた金色の瞳も、虚構を裏付ける証拠にも見えた。


「……普段なら、そんなうまい話あるわけがねぇ、って一蹴するところなんだけどな」


 鼻で笑って馬鹿にした後、声を荒げて退けるべき話だ。現実味がないし、あったところで胡散臭い。見た目がガキでも、腹の底に年甲斐もない悪意や敵意を漲らせて向かってきた奴なんていくらでも知っている。胡散臭い。出来の良いただの夢だと、吐き捨てるべきだ。

 だが。今も尚、ベンチに座る俺の足元に蹲る存在が、これが紛れもない現実なのだと、訴えてきていた。


「栄養失調で弱った体に、冬の寒さ。胸を押さえて蹲ってるってことは、心臟にも何らかの疾患を抱えていたのかしら」

「さぁな。どちらにせよ、楽な最後じゃなかっただろうよ」


 他人事のように口にしてしまう。そもそも、胸を押さえて倒れ伏す自分の姿を、傍から見れてしまうのが、心境によくない。


「……死んだ、か。まぁ、ありえない話じゃないよな」


 全てを失い、寒さに凍えながら路上で生活するようになって、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。少なくとも、長生きできるような環境でも肉体でもなかったのは確かだ。


「……良い。良いよ。君みたいな話の早い人間は本当にありがたい」


 冬の寒空の下、胡散臭い少女に話しかけられるだけでも相当面倒な事態だというのに、甲高いガキのような声が間こえてくる。


「僕たちはこれまで決して少なくない数の人間を相手にしてきたけど、君みたいに落ち着いて、話が早い人間ってのは少ないんだ。大体は慌てふためいてそもそも話しにすらなりやしない。まぁ、君みたいな人でなしの場合、いつ殺されてもおかしくなかったから、自分なりに命への決着が着いてたりするのかな───」


 少女が抱えていた子猫をぶん投げたその瞬間、耳に届いていた言葉が止まった。


「もう、どうしてそう失礼な物言いしかできないの。せっかく私が穏便に話を進めていたというのに」

「……投げる前に、言葉にして注意してくれないかな。この体にはまだ慣れてないから、本当の猫のようにうまく着地できるかわからないのに」

「できてたじゃない。上手だったわよ」

「体の本能に従ったら意外とうまくできたね。さすが僕。やっぱり高貴なる魂は、器がたかが小動物であろうとも損なわれない輝きを放つのさ」

「はいはい」


 少女の足元に戻ってきた黒猫を再度抱きかかえ、少女が呆れた様子で笑う。

 自分は死に、足元にはその証明とも言わんばかりに、苦悶の表情を浮かべた死体が転がっている。視線を上げれば、黒く、長過ぎる髪をした少女が、同じように真っ黒な毛をした子猫を抱え、こっちを微笑みながら見ている。

 現実味のない光景は、鈍い頭痛すら携えて俺を苦しめる。


「……なんなんだ、おまえら。くだらねぇ寸劇をやるならどっか行けよ」


 睨みつけてそう口にしても、少女は見た目に不相応な澄ました表情を浮かべて受け止める。落ちぶれたとはいえ、幾人もの人間を震え上がらせてきた俺の目を、何事もないように。


「そう睨みつけたって、怖くもなんともないわ。前までは指先一つ、言葉一つで何百何千もの人間を路頭に迷わすことすら可能な大御所だったのかもしれないけど。私からしたら、これから消え逝くただの小さな魂よ。そんな凄んだって無駄なんだから」

「腕力で勝てるとも思わないでね。少しでも彼女に手を出せば、君如きの魂なんて簡単に消し飛ばしてあげるよ」

「……本当に、なんなんだ、おまえら」


 頭を抱え、何もかも放り投げたくなる。元より、全てを投げ捨てていたかのような人生だったのだから、今更思い留まる理由もない。


「最初から言ってるけれど。私は、あなたを迎えに来ただけ。元より死ぬ予定ではなかった、 神様もミスにより死んでしまったあなたに対して、たった五分間だけだけど、どんな願いも叶えてあげようとやってきた、ただの小娘よ」

「そして僕はそのお付きのしがない黒猫さ。とはいえ、もちろん、君よりもずっと高位の存在なのだから、見た目に惑わされず敬って―――」


 再度、宙を舞い華麗に着地をする黒猫を横目に、俺はまた深々とため息を吐く。


「……願いを叶えに、か。ああ、真偽の程はもういいや。どうせ、実際に叶えてもらうまで、信用できそうにない」

「いや、本当に話が早いね」


 少女の元には戻らず、黒猫はゆっくりと俺の傍に寄ってくる。その様はどこからどう見ても、何の変哲もない黒猫にしか見えない。


「さっきも言ったとおり、願いを叶えられるのは五分間だけだ。君が手ひどい裏切りを受け、全てを失ったあの取引の時間に戻してくれ、と言ったところで、五分経ったらそこでお終いだ。それはひどく無意味だってことはわかるだろ? よぉく考えて、願いを口にした方がいい。五分というのは、君が思うよりもずっと短く、儚いものだよ」


 だが、ロを開けば、流暢な言葉を操り、少年のような声色で俺へと問いかける。

 忠告、のようなものを俺に告げる黒猫の瞳が見ているのは、俺の表面上の姿だけではない ような気がした。


「はっ、それじゃ、叶えて欲しいものなんて」

「何かはあるはずよ。だからこそ、私はあなたの前にいるのだから」


 そう迷いなく、確信を込めるかのように少女が言う。真っ黒な瞳で、いったい俺の何を見れば、そんな自信を持っていられるのか。


「何か、なんて言われてもな……」


 失ってばかりの人生だ。奪ってきてばかりの人生だ。後悔、と名づけることができても、そうするだけの資格が俺にあるとも思えない。

 奪ってきたのも、蹴落としてきたのも、全て俺の意思だ。俺の願望によるものだ。そうすることができたし、そうしたかったからそうしてきた。それを、後悔と名づけるのはあまりにも勝手が過ぎる。

 奪って、手を払って、蹴落としてきた人生を、せめて俺だけは肯定しなければ……たとえどれだけ身勝手だと罵られても、報われないだろう。


「……ああ、そうだな。強いて挙げるとするならJ


 一度は、幸福な家庭なんてものが俺にも作れるんじゃないかって思って、憧れて、手を伸ばした。でも、自分で見切りをつけて、捨ててきた、唯一の後悔とも言えるべき存在が残っていたのを思い出す。


「俺が捨てた家族……別れた女房と息子が、どうしてるか知りたい」


 目標のためには邪魔だったし、ついて来てくれるとも思わなかった。だから切り捨てた。そんな存在が、今頃どうしてるか。

 縁を切ったとはいえ、毎月少なくはない額の慰謝料や養育費を振り込んでいた。落ちぶれて、その繫がりが止まれば、何かしらの連絡がいくのだろう。

 無様に一人、冬の公園で息絶えた、俺のことも知るだろう。


「……たった五分よ。それでも、いいのね」

「他に知りたいものもないからな。楽しそうな姿を見れれば、せめてもの慰みにもなるだろ」


 母子二人、難なく暮らせるだけの金なら渡してきてるはずだ。何なら再婚して、子どもも増えてるかもしれない。それならそれで構わないし、冥土の土産としては十分だ。

 奪ってばかりの人生だった。そのことに、悔いはない。けれど、唯一与えてきた存在が、今も元気でやってる姿を見ることができるなら。

 少しは、報われるような気がした。


「……わかったわ。それがあなたの願いなら、私は全力でそれを叶えましょう」


 少女の手が上げられる。小さな手のひらを向け、俺へと振られる。

 その動作は、公園という場所も相まって、ひどく似合っていた。


「それじゃあまた、五分後に」


 言葉が届き、次に目を開いたその瞬間には。


「……なん、で」


 夜の公園よりも尚薄喑い、小さな部屋の中に立っていた。

 少ない、必要最小限の家具が置かれた、六畳にも満たない広さの部屋。色あせた箪笥と小さな丸い卓袱台を囲むように、薄い座布団がニつ置かれている。唯一の明かりである天井 に吊るされた丸い蛍光灯に電気は通わず、窓の外に光る街灯だけが、薄っすらと部屋の中を照らしていた。

 そのわずかな光に照らされた、小さく丸まった背中が、どうしたって目に入る。


「何を、してるんだ」


 妻と別れたのは、十年以上前だ。その当時、纏め上げていた会社の転換期であり、俺も慌ただしく動き回っていた。家に帰ることも少なくなり、多少なりとも危ない橋を渡ろうとしていた自覚もあったから、丁度良いと考え、家族を遠ざけた。幼稚園に上がる前の息子も、妻も、自分のこれから目指すビジョンには邪魔だから、置いていった。

 後悔はなかった。その方が、お互いに良かったはずだからだ。家庭を顧みずに危ない橋ばかり渡る夫などいない方が良い。不要なトラブルにも巻き込まれることもない。生活費として余りある金さえ振り込まれていれば、きっと幸せに暮らしているだろう。

 そう、思っていたのに。なんだ、この光景は。

 俺が望んだのは別れた家族の今の姿のはずだ。こんな、古ぼけたアハートの一室で暮らすような生活はしなくていいは。俺が見初めた器量の良い女なのだから、再婚先だってあっただろう。俺のことは庭に埋めた金になる木とでも思って、好き勝手暮らしているはずだと、思っていたのに。

 どうして、こんな寂れたアパートの一室で。

 俺の写真が置かれた仏壇の前で、そんな背中を丸めて、俯いているんだ。


「声は、届かないわよ。あなたの願いは、自分がいなくなった後の家族の姿を見たいという、ただそれだけだから」


 どこかで、うろたえる俺の姿を見ているのだろうか。姿は見えなくても、あの黒髪の少女が傍に立っているかのように、声だけが響く。


「……これが、俺が死んだ後の、家族の姿だって言うのか」


 否定して欲しいと、懇願に似た呟きには答えてくれない。俺の声はどこにも届かず、部屋の中は停滞したまま何一つとして動かなかった。

 幸せに暮らしていると思っていた。笑って過ごしていると思っていた。もう新しい家族を迎え、俺のことなど忘れて生きていると思っていたのに。

 背中を丸め、俺の写真の前でうな垂れる女の姿は、夫に先立たれた妻の姿にしかこの目には映ってくれない。幸せな風景など欠片も見当たらない。

 ここは端だ。空虚の最果てだ。

 俺が振り込んでいたあの金は、こんな虚しさを容易に吹き飛ばせるはずなのに。

 どうして、この部屋にはこんなにも、暗く、重いのか。


「ただいま」


 玄関のドアノブが回される音と共に、少年の高く、それでいて不満を滲ましたかのように重い声が聞こえる。

 振返れば、そこには、予想していたよりもニ周りは大きく成長した、息子の姿があった。


「……まだ、落ち込んでるのかよ」


 舌打ちでも残しそうなほど、不機嫌を露わにして口にする。最後に姿を見たのは、十年以上も前だ。短かったはずの髪は伸び、前髪も目にかかり陰気な気配を色濃く生み出している。そこから薄っすらと見える顔立ちは、皮肉なことに、俺によく似ていて。


「いい加減にしろよ。もう、そいつのことなんてどうでもいいじゃないか」


 靴を乱雑に脱ぎ、足音を強く立てながら母親の傍まで行く。仏壇に供えていた俺の澄ました顔で映った写真立てを持ち上げた。

 安っぽい写真立てだ。家族で映った写真を一枚だけ撮ったのを憶えている。その写真を入れていたフォトフレームを、憶えている。

 もっと良い物を買えばいいと言った俺に、写真が良いのだから、額なんてどうでもいいのと。笑った顔を憶えている。

 

「母さんにはどうだったか知らないけど、こいつは、俺からしたら父親でもなんでもないよ。こいつのせいで、俺たちがどれだけ苦労を」

「写真を、置いて」


 弱々しい声だ。震えて、今にも泣き出しそうな声だ。俺が最後に、別れを済ませ、手続も全部済ませて、元気でやれよと言った後の応答の時よりも。

 ずっと弱々しく、震えている。


「お父さんのこと、悪く言わないであげて。お父さんがいなかったら、私も、あなただって、生活できなかったんだから」

「金だけ振り込んで俺らのことを捨てて、勝手に野たれ死んだ奴のことなんか知らねぇよ!」


 強い言葉だ、汚い声だ。恨みに満ちて、聞く人間に不快感を覚えさせる、不快感から生まれた声だ。


「あいつが俺たちに何をしてくれたって言うんだよ! 振り込んできた金だって、結局は俺たちが手をつける前に全部持って行かれたじゃないか!」

「お金を使わないって決めたのは、私たちでしょ」

「だからっ、尚更あいつは俺たちに何もしてないだろ!?」

「……馬鹿な人だったのよ。お金さえあれば、絶対に幸せになれるって思ってて。だから、私たちを置いて、頑張って、頑張って、結局……」

「―――うるさいっ!」


 言葉と共に振り下ろされた写真立ては、耳障りな音を立てて床へと叩きつけられた。木で作られた枠は歪み、写真を押さえていたアクリル板が吹き飛んでいく。


「あいつなんか父親でもなんでもない! 金だけ置いて俺たちを捨ててった糞野郎だ! 悲しむ必要なんかない! こんな、こんな写真だって残しておかなくたっていいんだよ!」


 床に晒された俺の写真を掴み、破り捨てる。耳障りな短い音がして、澄ました顔が真っ二つになる。


「こんな、こんな奴はっ、もう、どうだって!」


 投げ捨てた写真を、何度も踏みつける音が響く。振動が、部屋に響く。怨嗟に満ちた声色が、部屋中に響いている。


「俺たちを、捨ててっ……勝手に、死んだこいつなんか、もう、どうだっていいんだ……!」


 別れた妻が啜り泣く音が、息子が俺を恨み、吼える声が。

 汚い言葉で俺を罵倒して―――それでも、嗚咽を混じらせ、目から涙を流す、息子の姿が。






「五分よ。これで、お終い」


 恐わず伸ばした手は、何に触れようとしていたのか。

 あと少しで触れるはずだった息子の肩はどこにもない。そんなわけないがないと辺りを見渡しても、さっきまで見ていた光景は欠片も残っていない。

 この目に映るのは……寂しげな公園の遊具と、黒猫を抱えた少女と。

 足元に横たわる、無様に転がる男の死体だけだ。


「……あれが、そうなのか?」


 呆然と呟いた質問に、少女は頷く。


「あなたが見たいと望んだ、残してきた家族の姿よ」

「……どうして、あんな生活をしてるんだよ。俺が渡した金はどこ行ったんだ。失脚しても、足はつかないようにしてた、はず、なのに」

「……さぁ。そこまではわからないわ。私はあくまで、あなたが望んだものを叶えるだけだもの。あなたが死んだ後、いったい誰が裏切ってあの家族へ繫がったのか。そういったものを知る術はないの」


 膝の力が抜け、地面へとつく。頭を抱えようと動かした手が震える。視界が揺らいで、見ているものの像がうまく結びつかない。


「……駄目、だ」


 心から直接漏れたように、言葉が出る。


「駄目だ。駄目だ、こんなの。あんまり、だ。あんまり過ぎる」


 自分一人が無様に死んでいく。それはもういい。仕方ない。当然の報いだ。この身は、百遍死んだところで雪ぎきれないほどの恨みを買っている。こんな寒空の寂れた公園で、一人で無様に死ぬことなど終わりとしては上出来過ぎるぐらいだ。

 でも、あいつらは関係ない。関係ないように、していたはずなんだ。

 膝をつき、低くなった視界。映るのは無様に死んでいる俺の死体と、黒い髪を足首まで伸ばした非現実的な少女とその傍らに立つ黒い子猫。

 ―――これで、終わりなのか?


「……死にたく、ない」


 その欲求に気づいた瞬間、俺は立ち上がって少女へと縋り付いていた。


「な、なぁ、頼むよ。こんな、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ」

「……どうして? あなたは、自分が死ぬことを受け入れていたように思えたけど」

「全部なくなったと思っていたんだ!」


 少女の肩を両手で掴み、にじり寄る。膝をついたまま、その小さな体を揺らす。


「全部なくして、自分のことだけだと思ってた! だから死ぬことも仕方ないなって思ってたんだよ! ロクでもないことばっかしてきた人生だから、最後もこんなものなんだって諦めてたんだ!」


 報復のように裏切られ、何もかもを失った。それも仕方ないと割り切っていた。裏切って蹴落としてきた人生が、まともに終われるとは思っていない。


「幸せに生きてると思ってたんだよ! だからもういいって、あいつらが幸せならもういいって思ってたんだ! でもっ……あれじゃあ、あんまりだろ……!」


 生活を迫われ、狭く寂れたアパートで、暗闇の中蹲る。そんな生活をさせたかったんじゃない。

 もっと幸せを掴んで欲しかったから、真っ当な生き方を選んで欲しかったから置いていったんだ。俺よりもずっと立派な男を捕まえて、そいつを父と慕って欲しかった。むしろそうしてくれと願っていた。


「俺なんかを、俺みたいなろくでなしを、まだあんなにも想ってくれてたなんて、知らなかったんだ!」


 俺が死んだことを、あんなにも悲しんでくれるとは思っていなかった。あんなにも怒りを露わにしてくれるとは考えもしなかった。


「―――涙を流してくれるなんて、思ってもみなかったんだ……!」


 情けなくも滲む視界の中、少女の黒い瞳を見て、懇願する。


「なぁ、頼むよ。もう一回チャンスをくれよ。まだ、手はあるんだ。もういいやって諦めてただけで、縋る先はまだ残ってるんだよ。そいつらとなら、また復帰できる。ちっぽけなプライドを捨てれば、まだやり直せるんだ!」


 いくらでも裏切られたって、叩き落されたって、踏みつけられたって構わない。望むところだ。それでまたチャンスを個めるのなら、いくらでも痛い目に合ったって良い。

 あいつらをあんな底辺に置いたまま死に逝くより、ずっと良い。


「……五分、いや……十分なら」

「―――あやめ。それ以上は、許さないよ」


 迷うように口にする少女を見据え、黒猫が鋭く言い放った。


「たとえ君が限界を超えて力を用いても、その先はないよ。これ以上の譲歩を認めるわけにはいかない」

「……でも」

「この子に甘えるなよ、人間」


 少女を掴んでいた手が、何か、見えない何かに叩かれるかのように、弾かれる。その強い衝撃に尻餅をつく俺に、黒猫が金色の瞳を煌々と光らせながら近づいてくる。

 薄暗い空間に妖しく光る瞳。その瞳を見ると、体のどこを動かそうとしても、その神経を踏み潰されているかのように動かせない。


「おまえの今は、おまえの責任だ。おまえの家族の今も、おまえの責任だ。この子にどれだけ嘆願しようと変えられないし、覆らない。おまえが今まで得た富に対する、正当な対価だ。よくもまぁ悪魔をも裏切るかのような真似、()()()にできたものだよ」


 黒猫は淀みなく言葉を吐き、目を閉じる。金色の光が見えなくなると、体は自分の意志で動くようになった。すぐに俺は膝をつき、頭を下げる。

 何度も、何度も見てきた動作だ。何度もさせた。何度も、そのたびに踏みつけきた、無様な姿だ。


「救いたいと思っても、もう遅いんだ」

「それでも、俺はっ……あいつらに!」


 顔を上げ、未だ揺れてくれている少女の黒い瞳を見る。誰もが、こんな祈るような気持ちで、俺に懇願してきたのだろう。そして、それを俺はいくつも跳ね除けてきたんだろう。わかっている。わかっている。

 わかっているんだ、そんなこと。


「もっと! 何かを、残して―――」





 そうして、彼の魂は夜の公園から消えた。

 放たれた懇願の声が震わせた、冬の凛として冷たい空気しか残らない。音は、どこに届くこともなく消えていく。

 彼がさっきまで膝をつき、頭を下げていた場所には、一人の人間が必死になっていた痕跡一つも見当たらない。

 私の視界には、色の剥げた安っぽいベンチと、その足元に横たわり息絶えた男性の姿しか、残っていなかった。

 胸を押さえながら、それでも、表情は、どこか安らかそうに。

 彼の魂がさっきまで私に向けて浮かべていた表情とは、まるで正反対のような。


「……ま一たいらないことを考えてるんじゃないだろうね」


 黒い、まだ小さな体をした子猫が、私の足へと擦り寄ってくる。体ごと押し付けるように、その柔らかい毛並みを感じさせる。


「確かに今回の場合、君が与えた五分間は、彼の最大の無念を引き寄せた。でも、それは彼が知りたいと望んだからであって、君の責任はないよ。むしろ、良い気味だ、と思うべきじゃないかい?」


 返答はせず、私は足を動かす。髪を体の前に流し、ベンチに腰を下ろすと、すかさず黒猫は私の膝の上へと乗ってきた。

 私の髪の上だろうが、さっきまで地面を歩いていた足で容赦なく足をつける。別に、この子は汚れとは無縁の存在だから、気にはしないけれど。


「君も見ただろうけど、こいつは史上稀に見る極悪人だよ。こいつのせいで、人生が狂ったのは十や二十じゃきかない。家庭まで含めたらもっとだ。それなのに、自分の家族だけは大事にしようなんて、虫が良すぎる。僕でもそこまでずば抜けた悪党になれやしないよ」

「……確かに、真っ当な人ではないよね」


 私の返答がお気に召したのか、上機嫌に喉を鳴らす。


「でも、そこに憤りを感じる義理も筋合いも、私たちにはないもの」


 怒りも、恨みも。彼に向けられてきた様々な感情は、私が持つべきものじゃない。被害を受け、悲しみを植えつけられた人たちこそが持つべきものだ。

 足元に横たわるこの人が、どれだけの人を傷つけてきたのか。それを、私は知っている。知っていたとしても。


「私からすれば、ただの哀れな魂だから」


 別に、私は悪人を裁きにきた執行人でも何でもない。ただ、見に来ただけだ。彼の最後を、最後の気持ちを、知ってあげたいなんて。慈愛で固くコーティングした下卑た好奇心を持って。

 こんな寂しい夜の公園で一人、死に逝く彼の最後の気持ちを、置き去りにはしておきたくなかっただけなのだ。


「……そういえば、さっき私のこと名前で呼んだでしよ」

「ごめんごめん、咄嗟だったから慌てて。でも、別にいいでしょ? 嫌いな名前ってわけで もないんだし」

「……勝手に名づけられた名前なんだから、嫌いも何もないんだけどね」


 これから死に逝く魂としか関わらない私に、名前なんて本当は必要ないのだけど。

 便宜上必要でしょ、と押し付けてきた彼女の不遜な態度を思い出し、当時のムッとした気持ちを思い出す。自分が名づけられた方法と同じように、私に似合う花言葉から選んだと言っていた。私と見たもあまり変わらないのに、いつも態度が偉そうなのが鼻につく。

 でも、彼女の力を借りなければ、今の私はない。死に逝く人に寄り添い、身勝手に未練を与える今の私は。


「……意外だね。今回は泣かないんだ」


 金色の瞳が、私を見ている。無機質なガラス球のような作り物めいた瞳だけど、声色には隠しきれていない心配が滲んでいた。その気持ちが嬉しくて、私は彼の頭をそっと撫でてあげる。


「……うん。泣かないよ」


 彼の無念が、未練が、今もなお私の胸の中で渦巻いている。取り零したりしていない。今でも、彼が吐いた言葉も、浮かべた表情も、瞳の中に宿った感情も、何一つだってなくさずここにある。

 それでも、私は涙を流さない。


「彼には、もっと相応しい涙を届けられたと思うから」

「……そっか」


 彼はポツリとそれだけ言って、私の膝の上で丸くなった。髪が痛むと言っても、きっと退いてくれないんだろうと、その丸い背中で語っている。

 冷たい風が吹いて、一人静かに横たわる、事切れた男性の着ている汚れたコートの端を揺らす。その冷たい風は、遠くからゆったりと雨雲を運んできたのだろうか。

 冬の寂れた公園に、雪が降ってくる。結晶にもならない白い粒はゆっくりと私たちに、横たわる彼の体にも降り積もっていく。

 冷たくなった彼の体は、その雪を溶かすことはない。その体はもう、誰の怒りも買うこともできない。

 けれど彼の死は、きっと、誰かの心を揺らすのだろう。

 悪人であろうと、きっと。その命は誰かの心を、揺らすことができるのだろう。

 その見てきた未来を思い浮かべながら、私は冬の冷たい風を浴び続けていた。


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