書店主の私と、恋多き友人の春原
耐えられないほどの缶コーヒー――というものは存在すると思う。
たとえば、口に含んだ時に珈琲の香りを装った、科学薬品の匂いが混じったようなものだったり、まるで水道水に、珈琲の汁を足したような代物だったりするのかもしれない。
「そういうわけだな、友人よ?」
「どういうわけだよ」
「だから、缶コーヒーの話だろう」
私が缶コーヒーを持ち上げて見せると、友人の春原が、露骨に眉を寄せて「ちげぇよ」と言った。
全くユーモアのない面だ。時々見るにたえない顔になるが、私はそれを、かれこれ十一年も見続けていた。
というのも、高校時代はバスケ部に、大学時代は返品不可でラグビー部に押し付けてやりたいと思っていた春原は、今や社会人になっても付き合いが続いている、私の数少ない友人の一人である。
春原は、絵に描いたような『熱い男』だ。高校時代から変わらず整体師を目指し、はじめは安い時給制のうえ肉体労働だった研修時代にも勤勉を怠らなかった。
とはいえ、なんに対しても猪突猛進する『熱い』姿勢はやめて欲しいものである。各行事にしろ、何気ない出来事――たとえば友人が狭いアパートの不便さを訴えた際、私たちをかき集めて大掃除と部屋の大改装をさせた――にも情熱を注ぐ。
彼の武士のような面持ちと、馬鹿一直線という具合のキリリとした眉毛にも私は暑苦しさを覚える。けれど何故か、奴は女性には大変人気があった。
男と女の見る目が違うのか、と日々頭を悩ませているところである。
とはいえ私は女なので、性別がどうというのは全く根拠もない話だ。
つまり何が言いたいのかと言うと、もはや適当なことを抜かして思考を天の川辺りにでも放り投げ、一年に一回以上は考えたくないのだがというレベルで、『春原が女に人気』という事実については、我々友人一同共通の永遠の謎なのである。
私にとって、同性たちが奴に惚れるのは怪奇現象くらい信じられないでいるし、男友達も「……多分、顔?」「ちょっとスポーツ出来るところとか……?」と同意見でいた。
ちなみにこの不思議さは、客観的観察を続けている今も、解明されていない。
しかしまあ、愚痴を言えばきりがないこの男、春原は、確かに良い奴ではある。友達想いで、いつでも真面目で何事にも真剣そのものだ。けれど女性関係において、妙な具合にその熱意がねじ曲がってしまっているのが問題だった。
二十七歳になってもそれは変わらず、父の経営する書店を引き継いだ私は、暇が空けばこうして呼び出される始末だった。春原が勤務している整体と、今や私の店である『ひのまる書店』が数分の距離にある、というのも一つの理由であろう。
ちなみに、呼び出されたのは昔ながらの小さな公園で、私たちは窮屈なベンチに並んで腰かけていた。
「全く、いい迷惑だ」
私はそう言って、珈琲モドキを喉に押し込んだ。その隣で、春原が可愛くもない男性然とした顔に神妙な表情を浮かべて、いかにも悩ましいですと主張するような ――実にバカげた原因だと知っている私から見ると、むちゃくちゃ腹が立つような吐息をこぼした。
何せ、昔から春原に絶えない問題は女性関係である。
ようするに、恋多き男なのだ。
一目惚れから胸キュンで始まる恋など、お前は全ての少女漫画のシチュエーションをコンプリートする気が、と我々友人一同が戦慄を覚えほど種類は多岐に及ぶ。
ピンク的な世界には心底どうでもいいくらい興味がない私や、毎度のことながら我々と世界観の違う春原の恋愛論に、底の見えない謎と「またかよ」「勘弁してくれ」としている友人たちにとって、学生時代と変わらず、こうして呼び出されて恋の相談や愚痴を聞かされるのは、耳に鉛が詰まるようなものだ。
そう、『タコ』なんて生易しいモノじゃない。煮ても焼いても食えないどころか、理解するべく噛み砕こうとしたら、こちらの歯が割れるという悪質極まりないものである。
奴はオカシイのだ。
毎度話を聞かされるたび、頼むから誰かこいつを論破してくれ、と思う。
「俺は、どの子にも真剣に恋をしてるんだ。どの子も俺にとっては好きな子なんだよ。運命さえ感じる。他には何も考えられないくらい彼女のことを考えちまうんだ。そうすると、ああ、俺はあの子に恋をしたんだって気付くから、結局のところ比べようがないだろう?」
どうしよう。やはり奴が理解出来ない。
春原に歴代の彼女が何人いたのか、学生時代に我々はとうに数えるのをやめていた。ベンチの背に片手を乗せて姿勢を崩した私は、奴にもらった好み真逆の缶コーヒーを手に「おい、友人よ」と真顔で言った。
「いちよう私からも聞いてやるが、そうすると、たとえば『その時に付き合っている子』はどうなるわけだ?」
「その子のことも好きだけど、『あの子のことしか考えられない』ともなる」
「…………」
こうして春原と別れた女は数知れない。それでも、相手の女たちから恨まれないというところは、彼の一種の才能か、もしくは奇跡の乱用である。
どうやら一度手に入れてしまうと、情熱やら熱意やらがよそを向くとでもいうのだろうか。最短で数日だけの『彼女』もいたし、一夜だけを共にして「なんだか違うよね」と別れるパターンもある。ちなみに、そうあっさり未練も怨みもなく別れ話を切り出すのは、相手の女性である場合も珍しくない。
友人関係だったり勤勉態度は素晴らしいというのに、なぜ恋愛に限っては、最悪な感じの道を突き進んでいるのか理解に苦しむところである。
私は缶コーヒーを足元に置くと、ベンチに腰かけたまま夕刻色に染まり始めている公園を眺めた。砂場で遊んでいた子供たちはとうにいなくなっており、子犬を連れていた三人のご婦人も先程、公園を出て行ってしまっていた。
ろくに春原の話は聞いていなかったが、私はしかと聞いたと言わんばかりに神妙な顔で頷くと、友人として空気を読んだ相槌を一度打っておくことにした。
「それで、そのユウコちゃんはどうしたんだ」
「アヤノちゃんだ」
春原が冷静に訂正してきた。開いた膝の上で手を組んだまま、相変わらず相談事モードで真面目な表情をしている。けれど真剣ぶっているが、毎度『お付き合いする』か『別れる』かの話であるので、実に阿呆にしか見えない。
ちなみに、相手の女の名前を間違えてしまった件については、仕方がない。
何せ私は、興味もないから奴の話を半分以上聞いていないのだ。
今、私の頭を占めているのは、これから父の知り合いが持ってくるという文芸誌についてである。うちにはないその文芸誌を某氏が揃えて持っており、書斎を整頓するため処分するのだという話を聞いて、私がもらい受けることにしたのだ。
店に置く予定ではあるが、本音を言えば、私が読みたいだけだった。
「ひとまず私は帰りたいのだが、つまり春原。結局のところ、今年の夏に沖縄の海を見に行ってラブラブしてくると我々にクソ語り聞かせていた、そのミナミちゃんについてだが」
「アヤノちゃんだ。――お互い話し合って決めたんだ、だから旅行もキャンセルして別れた。俺たちはこれからも、ずっと良き友人でいられると思う」
「また修羅場はなしなのか?」
「なぜ『愛』に修羅場がある?」
奴が不思議そうに尋ね返してきたので、私は「いや……」と言葉を濁し、腕時計で時刻を確認する振りをした。
隣にいた春原が憂うような、気持ちの悪い乙女チックな息を吐き出した。
友人としては、今のタイミングで普段のようにハッキリ指摘してやるのも遠慮した方がいいだろうと考え、私は心配そうな表情を奴に向けた。
「なんだ、気持ち悪い」
「お前、表情と口調が見事に合ってねえよ。むしろそれは本音だろ」
「そしてお前は病気だ」
「いきなりなんの話だよ?」
「次はどの子だって聞いてんだ」
恋多き春原の悪いところは、次の子が現れたら別れることだ。
私はベンチの背にもたれて、「やれやれ」と爺さん譲りの口癖を言って姿勢を崩した。ああ、秋に入る前の黄昏は涼しくて心地良い。
すると、春原が深刻そうに私を見た。
「素敵な出会いをした『どの子』と言うのなら、いっぱいいすぎてしぼりこめねぇんだが」
「サイテーだ。ああ、分かったよ。ならば一番最近のでいい」
私が投げやりに、実に適当な感じで促してやると、奴が「なるほど」と掌に拳を落としてこう続けた。
「今朝、擦れ違い様に目が離せなくなった人がいた。かなり年上だとは思う。美しい女性だったんだ。そのまま動けなくなって、胸の鼓動に合わせて心も身体も震えたよ」
「お前には優秀な医者が必要だな」
「恋に医者はいらないだろ」
必要なのは愛だ、と呟いた春原が、「ほぅ」と憧れるような息を吐いた。
うわ、なんて気持ち悪い吐息と表情なんだ。虫唾が走――るまでとはいかないけれど、出来れば同じベンチで座っている現状を、物理的にどうにかしてしまいたいくらいの気持ちがないわけではない。
今日の明朝、私は友人から「オールナイトで恋の相談をされて、俺、頭が変になっちまいそうだ」と電話で泣きながら話を聞かされたばかりだった。
もし呼び出される事があれば、すっぽかさず会ってやってくれ頼むと言われ、雑誌の件に心奪われる中、こうしてクソ忌々しくも一旦店を出て付き合っているわけである。
チクショー、近場だからって全部私に押し付けやがっ――えっほん。
つまり我々としては、春原が『本当の恋』をしていないのではないだろうか、と推測している。
私なんぞ、恋愛などに未だ興味は覚えたことすらないが、一般的な恋愛小説や映画、そして結婚組から話を聞いていると、そう感じてしまうのだ。だから奴は、特定の女性と長く交際が続かないのではないだろうか、と。
「そもそもだが、春原。お前は『本気の片想い』なんてしたことあるのか?」
思わず口にしてみたら、春原がじっとこちらを見てきた。
生真面目で何事にも濃い――いや顔立ちの話じゃなかった、ついうっかり――何事にも『熱い』とばかりの顔と表情で見据えられ、私はたまらなく嫌になった。
この状態で彼の『恋愛論』の演説が始まるのではないか、と想像したら頬が引き攣りそうになって、私は言葉を続けた。
「いや、別にお前の恋心を否定するわけではなくてだな? 実際どの子にも恋しちまってるし、どの恋が一番だとかいうことではないと思うけれど、別れる際にも比較的あっさりとしすぎている気がしないでもないというか」
何をどう言えばいいのか分からなくなってきて、私は口を閉じることにした。
すると、春原が珍しく、静かに視線を落としてぽつりと呟いた。
「…………やっぱり『本気の愛』と、『ピュアな恋』は違うんだろうか」
「え。今なんて言った?」
耳に鉛が詰まったのだろうか、と思って私は尋ね返した。奴はこちらに横顔を向けたまま、思案気に「うむ」と、私みたいな相槌を打ってこう続けた。
「愛することと恋することは、全く別かもなぁと最近は思うところがないわけでもない、というか……」
春原が滅多にない様子で、本気で悩んで地面を見つめている。
私は数十秒ほど、たっぷり瞬きを繰り返し、これが現実であるかどうか頬をつねって確かめた。あの春原の口から、まともな恋愛論が出てくるとは思わなかったからだ。
我々が長年ああだこうだと必死に説明しても、ちっとも全く微塵にも努力は報われなかったというのに、一体何が起こった?
大学時代には、あまりの鬱陶しさに、こうなったら三枚におろしたうえでミンチにしてくれる、と私含む友人たちで奴と殴り合いの喧嘩にも発展したことだってある。悔しいが、奴は無駄に運動が出来てデカいせいで一人勝ちしていた。
ひとまずここは真面目に聞いてやろうと考え、私はベンチにきちんと座り直した。
「春原、つまりどういうことなんだ?」
「うーん、なんというか、やっぱり『好き』と『愛』は別もんだよなぁと思わされる感じのきっかけがいくつかあってな。ミホちゃんとヨシエちゃんと、ミナコちゃんとトモミちゃんに話を聞いてもらって、その後でアヤノちゃんにも相談に乗ってもらって『ああ、そうかも』って考えさせられてさ」
おい、多いな。
そして見事に全部女の名前だな、春原よ。
というかそれ、ここ数ヶ月で付き合っていた女の名前じゃないか?
「好きになる子は何人もいるけど、なんか違うと思って続かなくて。でも一人だけずっと変わらない子がいるんだ」
「曖昧な言い方だな? よく分からんが、もしかして片想いとかいうやつか?」
今一つ信じられない私は、片眉を上げて春原の横顔を見やった。けれど奴は、やはり悩ましげに足元を見ている。
「実は俺、それに関しては、ずっと頭の片隅にあってずっと悩んでんだ」
「ふうん? 珍しいな。お前ってさ、思ったら即行動っつうか、恋が成就しないと死んじまうってくらい猪突猛進だろう」
私が言うと、春原が訝って「猪突猛進?」とまるで実感ないという顔をこちらに向けてきた。実に腹が立つ表情である。その彫りが深い目頭から続く、高い鼻を粉砕してやりた――えっほん。
私は素直すぎる自身の衝動をこちらえると、確認するようにこう尋ね返した。
「それは、名前も知らない女性に一目惚れして『擦れ違い様に目が離せなくなった』のと、同じではないのか?」
「うーむ、つい最近になって『違うかな』と気付いた。初めてもやもやして、それをアヤノちゃんに『嫉妬』だと言われた。苦しさもまるで違うんだ」
それを聞いて、私は胡散臭そうに目を細めた。
奴の恋愛については信用度ゼロである。ひとまず本当に片想いをしていると想定して、それを薄々実感し始めているという奴の言い分が真実だと、百歩譲ってそう仮定してから、私は訊いた。
「どのくらい片想いなんだ?」
問いかけてみたら、春原がすぐに「五年だ」と答えた。
「五年!? それ、マジな話なのか?」
「ああ、へたしたらもっとだ」
「もっと!? 六年とか、七年かっ?」
私は飛び上がった。
まさか、奴に限ってそれはないのではないだろうか。何せ当時は学生で、数日に一度、交際相手が変わるのも珍しくなかった気がする。
「いつもと違う感じなんだよ。ドキドキしてるわけじゃねぇのに、想像したら『いいよなぁ』っていつの間にか考えていて、妄想してたら冷静なのに興奮してる、みたいな?」
「興奮とか気持ち悪い。その時点で冷静とはいえない」
「いや、いつもそういう感じでふっと想像が込み上げると、即行動せずにはいられねぇんだが、これについては気付いたらじっくり妄想している感じだ。へたすると、一人部屋でいる時にねちねちとずっと想像を発展させている」
「……よく分からんが、どちらにしろ気持ち悪い」
私の意見を聞いていないのか、春原が『いかにも苦悩しています』というような表情で、夕焼けに照らし出された公園を眺めた。
恋に対する彼の悪い癖を知っている私は、大学時代に彼が「駆け落ちするかも」といって我々を大混乱に巻き込み、それが取り越し苦労に終わった経験も持っていたので、やはり彼の話が信じられないでもいた。
早朝に電話で泣きついてきた友人を思い出し、「ううむ」と慎重に考えてみる。しかし、そろそろ父の知人が『ひだまり書店』にやって来る時間が近づいていたので、私は結局、いつものように奴の恋愛沙汰については放り投げることに決めた。
「おい、春原。私は予定があるから、そろそろ帰るぞ。そうだな、まず言わせてもらうと、お前には悪い癖がある」
「いつもながらに直球だな」
「一度食っちまうと、途端に飽きちまうことさ」
「相変わらず爺さん譲りの口調がストレートに刺さるんだが、俺は何も『食ったらポイ』というわけじゃないんだぜ?」
春原は「心外だ」という表情をした。私は「黙らっしゃい」という表情を作って腕を組むと、反論なら聞いてやると言わんばかりに「なんだ、じゃあ言ってみろよ」と喧嘩腰で促してみた。
春原は、しばし考えて「たとえばな?」と、話を切り出した。
「さっき想像する件についてチラリと話したが、俺は女の子と『運命』を感じた時、その子との愛について想像する。恋が実ってキスをしているところだったり、二人でビデオを見ながら身体を重ねたり、ドライブの中で唇だけを触れ合わせて、未来について語ったりするシーンだ」
私ならドン引く。
こいつは、涼しげな表情でいつもそんな阿呆なことを考えているのか?
「おい、春原。お前が何を言いたいのか分からんぞ」
「つまりな? 長い片想いについて悩んで考えた時に、ふと気付かされたんだが、俺はこれまで付き合った女性との想像というか、願いに達した以降まで付き合った試しがないということなんだ」
うわ、サイテーだ。春原、それは欲望のままというやつなのではなかろうか。
つまりは、先程口にした妄想はたとえ話ではなく、実際に奴が、出会いを果たした際相手の女の子に想像し考えていたことなのだろう。そしてキスの相手も、ビデオの相手も、ドライブの相手も――奴のことだから、特定の一人ではないだろう――それが起こって別れたという推測が脳裏を過ぎった。
「うむ。なんて野郎だ。きっとお前に、愛など理解出来まい」
「思考が口からただもれだぞ」
「おっと、ついうっかり」
私は一度口を閉じ、それから「しかしだな」と、長い付き合いの友人を見つめて改めてこう言った。
「お前の恋の病は、今に始まったことじゃないからな。本気の恋なんて出来ない体質なのかもしれないぞ」
「恋の病ってのは、夜に伊藤から言われたような内容だな」
「私も今日の明朝に、電話で伊藤に聞かされたからな」
明朝に電話で泣きついてきた友人の名は、伊藤と言い、彼は我々共通の友人である。
私たちと同じ高校を卒業し、大学も同じだった伊藤は精神年齢が低いような、どこか馬鹿を絵に描いたような男であるのに、今や有名な飲食店の副店長というのだから、人生何が起こるのか分からない。
私がその友人から明朝に電話があったと口にしたら、どうしてか春原が、置いて行かれた子供のような面をした。そんなことをしてもちっとも可愛くないので、私は勝手に話を続けた。
「もしかしたら、その最長記録の片想いとやらが本命なのかもしれないし、別に運命の人とやらがいて、お前が落ち着いた頃に出会うかもしれない。でも結局のところ、恋も愛も自分の中で起こることなんだから、誰かに聞いたって確認出来るものでもないだろう。自分で色々と試しながら、考えていくしかないんじゃないか?」
別れ際の話し合いで、交際相手に話を聞いてもらって、少しずつ気付き出したように。
というか、これから別れるという女性に向かって、そういった相談事をするのもおかしいとは思うのだが、私の一般的認識が現代についていけていないのだろうか。
すると春原が、考え込むように顎に手をやった。宙を睨みつけている様は、これから敵陣地に出陣する熊――ではなく戦士を思わせた。やたらと身長が大きくてしっかりしているから、そう見えてしまうのだろう。
空がじょじょに茜色を強くしてきた。私は腕時計をちらりと見やり、背伸びをして立ち上がった。
長らくベンチに座っていると、さすがに身体が凝り固まって重くなる。私は畳みや床に腰かけて、何時間でも読書に没頭できる人間であるのだが、どういうわけかベンチとは相性が悪いらしい。
「とりあえず、話はじゅうぶんだろう。私はもう行くが、いいか?」
振り返ってみると、こちらをじっと見つめている春原がいた。相変わらず考えが読めない武士面である。話し合いを始めた当初から、ほとんど姿勢を変えていないのだが、こいつは腰が痛くなったりしないのだろうか?
答えないままじっくり見てくるものだから、私は話し足りないのだろうと解釈して、疲労感から溜息をこぼした。
「分かった。もうちょっと助言してやるから、このまま伊藤の店に突撃するなんていう迷惑は掛けるなよ? 夜明け前に電話で叩き起こされるのは、勘弁だ」
「あいつ、よく電話してくるのか?」
「店もご近所だしな、当然だろ」
こちらの書店も、爺さんの代からずっと深夜まで営業しているのだ。おかげで、伊藤は休憩がてら、店から歩いて来て少し喋って行くこともあった。奴もまた、友人想いのいい男である。
「まあ心に余裕があれば、伊藤も時間をみはからって電話をしてくれるんだけどな。昨夜はお前、あいつの店にまで押しかけて閉店まで居座ったそうじゃないか。おかげで閉店作業後に、私のところに電話突撃されたんだ」
説明の出だしから、春原は考え込む様子で「う」やら「むぅ」やらと、妙な声を上げて悩ましげにしていた。
伊藤に迷惑をかけた件を反省してくれているのかと思いきや、春原が「ちッ、それだったら朝まで付き合わせれば良かったな」と、とんでもない独り言を口にした。
あまりにも伊藤が可哀想である。特に大学時代は、読書をする私の隣で寝ていたところを、よく引っ張りまわされていた。
とはいえ、今の私にとって重要なのは、これからやってくる某氏の文芸雑誌である。もうそろそろで父の知人である彼が『ひだまり書店』に到着するものと思われる時刻になってしまう。
「いいか春原。お前は先程に自分でも口にしていたが、つまりは『想像した恋愛シーン以上に愛が持続しない場合、それは本気の恋愛ではない』ということじゃないのか? だとしたら、そうなれる人間を探せばいいだけだろう」
これまでだって、とっかえひっかえしていたのだ。奴がどこでどう納得するのか、結局のところそれは奴自身の問題なのだろう。恋多き問題についての解決策は、またしても無いという結果に終わった。
つまり正直に言うと、私は、今すぐに店に戻りたいのだ。
すると、春原が私を見据えたまま「そんな簡単に決めつけていいのか」と、珍しく真面目な口調と表情がバッチリとマッチした様子で尋ね返してきた。
「だって春原のことだし、試してみないと分からないとでも言うんだろう? エミちゃんと別れる原因になった『名前も知らない擦れ違った女性』の件もあるわけだし」
「アヤノちゃんだ。――擦れ違ったその女性は、確かに美しい人で、そんな人から愛されたらどんなにいいだろうなと想像した」
春原が、別れたばかりの女性の名前をちゃっかり訂正し、私は「なるほど」と上辺だけで答えた。奴は「でもな」と、まだうじうじした感じで言葉を続けてくる。
マジでそろそろ戻りたい。私の文芸雑誌が心配だ。
「俺は特にこの五年間、誰と付き合っても常にその『片想いかもしれない』人が頭を過ぎるんだ」
「じゃあ、まずは心のままに動いてみてもいいんじゃないか? 春原って、結局のところいつだってそうだったじゃないか。ぐだぐだ悩んでいる方が珍しいぞ。――というわけで私はもう帰る。じゃあな」
私は颯爽と踵を返したのだが、途端に「待て」と春原に呼び止められた。
うんざりして振り返ると、そこには立ち上がった春原がいた。やはり可愛くないうえ、どうしてこいつが女性にモテるのかさっぱり分からないほどだ。
「なんだよ? 私はこれから店主として、店にいなくちゃならない用事があるんだが」
用件があるのなら早めに終わらせてくれ、という口調で尋ね返した。
すると、春原が堂々とした足取りで、こちらとの距離を縮めた。眼前に立ち塞がったかと思ったら、こちらを覗きこんだまま勝手に私の手を取って、男にしては長くキレイな指をした大きな両手で包みこんできた。
ごつごつした厚みのある春原の手は、昔からそうであるがかなり体温が高い。こいつ、体温計を差したら微熱以下の結果が出ないのでは、と、私は特に五年くらい前からそう思っている。
真剣そのものというような、耐えきれない顔が眼前にはあった。
私は数秒遅れて、なぜだか嫌な予感に片頬を引き攣らせた。
「春原、もしかしてお前……」
そう出掛けた言葉が、頼りなく掠れて裏返ってしまった。右手に感じる大きな熱は、気のせいか私の手を愛撫してくるように動かされていて、喉元まで生理的拒絶感が込み上げる。
「俺、五年間お前のことがずっと気になっていたんだ。長いこと考えていたが、やはり俺は、伊藤たちに嫉妬するくらいお前のことが好きみたいだ」
「待て待て待て、まずは一つ確認したいんだが、お前が想像やら妄想したシーンというのは一体な――」
「結婚してくれ!」
おい、嘘だろ。結婚って……どこまでの関係を想像してんだよお前は!
これでは『試せばいいだろ』という、先程のアドバイスを容易に実行させてやるわけにはもいかなくなった。
すると、十一年という長い付き合いから『妄想の内容はなんだ』という質問を察したのか、奴がこちらの唖然とした表情を見据えてこう続けた。
「しばらく妻を独占したいから、三人の子供を作るのは数年先になる」
「三人!? そこまで想像してんのかよッ。つか誰が『妻』だ!」
「かなりイチャイチャしたいから、一人目の子供だったらうっかり結婚前に出来ても構わない。むしろ、お前とのことを想像すると身ごもってもらいたくて興奮する」
「………………」
どうしよう。思考がショートしそうだ、一旦整理する時間が欲しい。
奴が私に対して『想像や妄想』していたらしい内容に、思わず絶句してしまって言葉が出てこなかった。すると、熱血の春原は一体何を考えたのか、真面目な表情でかなり理解し難い行動に出た。
まるでか弱い女性にするように軽々と引き寄せられ、顎に触れられてキス三秒前の状況追い込まれた私は、公園に色気のない悲鳴を響かせた。
咄嗟に手と足を使って抵抗したものの、――実に悔しいが、大学時代同様に、またしても奴はそれをあっさりとなかったことにして、見た目の男々しさを感じさせないくらい優しくこちらの唇を奪ったのだった。




