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最悪な日

作者: 空

山月記を久々に読み、思い切って書いてみました。初めてであり、読み苦しいところも多々あろうと思いますがご容赦ください。

 鐘の音が鳴り響く。僕は呼んでいた本を閉じて机の上に置いた。一人で礼をして購買へ歩き出す。教室の中からは動物の声が聞こえていた。

 いつだっただろう、自分が人と違うと理解したのは。昔から、得手不得手はあれど自分は人よりも少ない労力で人並み以上のことが出来た。幼い頃はただ嬉しかった。親や先生から褒められることが。だが数年後は苦痛だった。苦労してようやく出来たことも、「あなたなら当然。」と言われる。出来ないと「君って思っていたよりも出来ないんだね。」と言われる。どうして自分の努力は認められないのだろう。いつから出来る事が当たり前となってしまったのだろう。悩み苦しんだこともあった。そして更に月日がたち、ある日フッと自分は悟った。“あれら”は自分とは形が似ているだけの別の“モノ”であるのだと。それは世界が180度回転したようだった。「あなたが心配だ。」と勝手に感情を押しつけては自分の行動に酔う偽善者も、クラスを煩くすることしか能がない馬鹿も、自分のことにしか関心のない自己中心的な奴も、“人並み”であることに何の違和感も抱かない愚者も、すべて下等なモノと見なせば何の感情も持たなくなった。下等なモノに何を思っても時間の無駄だ。いつしかそれが自分の中で暗黙の了解となっていた。

 その日は朝から最悪だった。家のドアを開けるとさっきまでは小雨であったはずの雨が途端に強まる。雨は嫌いだ。頭痛が酷くなる。その考えに呼応したようにずきりと頭が痛んだ。僕は舌打ちをすると鍵を閉め、傘をさすと重い足をゆっくりと前に出した。暫く歩いていると小さな声が聞こえた。路地裏からだ。普段だったら間違いなく関わらないだろう。なのに、僕はひょいと覗き込んだ。そこには2匹の猫が居た。いや、大きい方はもはや肉塊であるだろう。全身から血を流している。猫同士の喧嘩では無いことは明白だった。息絶えていることが唯一の救いなのだろうか。子猫はそれに気付いていない。か細い声で鳴きながらぺろぺろと傷を舐めていた。僕は、そっと忍び寄ると子猫を持ち上げた。恐らく、猫を傷つけた奴らはまたここに来るのだろう。それを黙って見過ごす程人間性を失ってはいないはずだ、まだ。引っ掻こうとしている猫を構わず懐の中に入れると僕は学校まで走り出した。

教室のドアを開けると同時に罵声が飛び込んでくる。クラスの男子が取っ組み合いの喧嘩をしていたのだ。随分と前から「それ」は行われていたようで周りの机や椅子は避難させた上でギャラリーが遠巻きに見ている。僕は端にある自分の机に鞄を乗せると子猫をどうするべきか考えた。どこがいいだろう。やはり、用務技師にお願いして授業時間だけ預かってもらおうか・・・。

「騒がしいわよ!」

壊れるほどに勢いよくドアが開かれる。僕は唇を歪めた。学級委員長のお出ましだ。ギャラリーが自然と道をあける。モーゼのようだ。躊躇せずに男子2人の所に行くとまた怒声を浴びせた。

「あんたたち、何やっているの!」

「うっせぇ黙ってろ!」

「そんなこと出来る分けないでしょ!?いいから事情を説明して!」

段々と会話が熱を帯びていく。委員長が金切り声をあげた。それに驚いたのだろうか。さっきまでおとなしかった子猫が急に暴れ出した。

「ちょ、待てって。」

僕の服を出た猫は声の方向へ向かっていく。その時、両方の男子が拳を振り上げるのがスローモーションのように見えた。

「危ない!」

僕は咄嗟に猫を抱き上げる。と、同時に2人からのパンチが綺麗に僕へ入って-景色が暗転した。

鐘の音が聞こえ、意識がゆっくりと浮上する。目をあけると真っ白な天井が見えた。ドクンと心臓が音を立てる。僕は目を閉じるとゆっくりと深呼吸をした。数回してから恐る恐る目を開く。こんどは大丈夫だったようだ。灰色の天井が見える。恐らく保健室だろう。そうだ、僕は確か壁にぶつかって――子猫!僕は勢いよく起き上がると急いでベッドから下りた。なぜか無人だった保健室を抜けて僕は廊下を走る。あの猫は無事だろうか。僕は勢いよく扉を開けた。勢いよくドアを開けた僕に驚いたのか数人が振り返るのが見えた。細い光彩と目が合った。沢山の視線が僕に突き刺さる。ライオン、熊、虎、オオカミ、兎、そして僕の目の前にいる 蛇。悲鳴を上げそうになったのを辛うじて堪える。僕は目を逸らさないようにしてゆっくりと距離を取ると猫のことも忘れ、職員室に向かって走りだした。

「先生!」

日頃の挨拶も忘れて勢いよくドアを開けると、叫ぶようにして声を出す。奧からやってきたのは2足歩行をしている、キリンと人間を掛け合わせたような奇妙な動物だった。思考が完全に止まった。刹那、僕は我に返ると後ろを振り向いてある場所へ向かって走り出した。5分くらい全速力で走り、息絶え絶えになりながらいつもサボるときに使っている屋上に通じる踊り場に行くと足を抱えて座る。頭の中では疑問符が飛び交っていた。何だったのだろう、さっきの動物たちは。誰も人間がおらず、相談できる人もいないこの状況下で僕は考えることに疲弊し、気付いたときにはどんどんと意識が遠ざかっていった。

 鐘が鳴り、ふと目を覚ます。僕は寝起きのぼうっとした頭で夢の余韻に浸っていた。夢で僕は、母さんと父さんと笑いあっていた。ただそれだけ。何を話していたわけでもない。でも、幸せな夢だった。もう決して叶わない、泣きたくなるほどに幸せな夢だった。母さんは僕が小学生の頃病気で死んでしまったし、父さんとは母さんが死んでから碌に会話もしない毎日だ。二人と、笑うどころかもう話すことすらなくなってしまった。最後に父さんとまともに話したのが病院の白い部屋だったなんて皮肉すぎる。夢だったらよかったのに。僕はぽつりと呟いた。

 そんな中でも何もしない訳にはいかない。こんな状況でもお腹はすくし、眠たくなるし、トイレに行きたくもなる。僕は、仕方なしに立ち上がると再び教室の方へと歩いて行った。さっき走ったりした中で気付いたことがある。僕は教室に入ると自分の席へと迷わず歩く。僕の席の前にはライオンが座っていた。僕はライオンから30センチくらいの距離で立ち止まり、そのままじっと目を逸らさずに見つめてみる。少しすると、ライオンは虎に何か呼びかけられたのか虎の方へと歩いて行ってしまった。・・・やっぱりだ。この動物たちは僕に危害を加えない。僕は自分の席に座ると次の授業の自習を始めた。鐘が鳴り、昼食の時間になる。僕は一礼して立ち上がると購買の方へと向かった。誰もいない購買で適当に物を取るとその分のお金を置く。こんな非日常で日常的な事をしている自分はちょっとちぐはぐだと思う。でも、こうでもしなければ自我を保っている事すらきっと難しくなる。自分の妙な生真面目さと心の弱さにため息をつくと、僕は踊り場へと向かった。

 今日の全ての授業が終わり、僕は教科書を鞄の中に座ると席を立った。姦しい廊下を抜け、下駄箱へと向かう。靴の踵を踏みながら履くと、校門へ向かった。校門が閉じていることは寧ろ想定内だったので僕は用務室から借りて(くすねて)きた鍵を差し込み校門の鍵を開ける。さて、校門を開けようと僕は力を入れた。が、開かない。どんなに力を入れても校門は開かなくなっていた。他の校門を回っていっても同じ事。必死に力を入れている内に、僕の意識は段々と薄れていった・・・。

 目が覚めると、僕は保健室のベッドに寝ていた。朝日が目に突き刺さる。目を擦りながらも辺りを見回すと、昨日と変わらない動物たちが僕の方を向いているのが分かった。戻ったんだな。根拠のない考えが何の抵抗もなく胸に宿った。

 それから僕がやった行動は、来るはずだった今日の自習の準備。自分でも驚くほどに淡々としていた。この絶望的な状況に一切行動を変えることのない自分に失笑を漏らしながらも僕はそれを止めることなく続けた。始業の鐘が鳴ったら立って一礼をして着席、その授業の自習を始める。就業の鐘が鳴ったら立って一礼をして着席、次の授業の準備をして休み時間は好きなことをする。携帯が圏外で使えないのは残念だったが、教室自体がサファリパークのような物なのだ。動物を眺めているだけで楽しく、次の始業の鐘が鳴るのが名残惜しいほどだった。

 鐘の音が鳴り響く。僕は呼んでいた本を閉じて机の上に置いた。一人で礼をして歩き出す。教室の中からは絶え間なく動物の声が聞こえていた。今日の授業はこれで終わり。そうだ、日付をつけておこう。筆箱の中からカッターを出すと机の端にまた一本、線を引いた。後はまた元に戻るのを待つだけだ。僕はいつもの通り教室の扉を開いて廊下へと足を出し――。

ふうん、そうやって逃げるんだ?

バッと音がしそうなほどに勢いよく振り返る。開かれた教室のドアからは見知らぬ少女が僕の机の上に座り、足を揺らしているのが見えた。

「だ、誰?」

久しぶりにだした声は震えていて掠れていてみっともなかった。

「さあね。」

そんな僕に向かって彼女は楽しげに無情な言葉を掛けた。

「それよりさ、君は逃げているの?」

机の縁の傷をなぞりながら彼女は先ほどと同じ質問を投げかけた。

「僕、君に質問しているんだけど。あと、逃げるってなに?僕に逃げた覚えはないけど。」

僕は、正直に彼女に言った。彼女はジッとこっちを見つめている。僕はこの目が苦手だと何となく感じていた。すべて見透かされそうで。

「ねぇ、」

数秒の後、吐息ともとれるような声量で彼女は言葉を落とした。

「もしも戻れるとしたら、君は戻りたい?」

彼女はいたずらっ子のような笑みを浮かべて言った。僕は数秒考えてから口を開く。

「うん、それはね。」

答えが意外だったのだろう。彼女は目を丸くした。

「どうして?君はこの生活が気に入っているように見えたけど。」

僕は返答につまる。

「だって・・・戻らなきゃいけないでしょ、普通。」

彼女がくすりと笑った。

「普通って、それ君が言う?君はとうに普通を諦めたんじゃ無いの?」

どうしてそれを、と言う前に視界が暗転していった。

 次の日、また淡々と時間は過ぎていく。そして放課後になり、カッターで机に一本傷をつける。すると、どこからともなく彼女が現れた。

「やぁ、はじめまして。」

昨日のことなど忘れたように彼女は言う。僕はため息をつくと真っ直ぐに目を見て彼女に言った。

「君は何者?」

彼女の眼が一瞬揺れる。ぎゅっと目を閉じて暫く考え込んだ彼女はこう言った。

「じゃあ、同級生って設定でいこう!」

「いや、設定って何だよ。」

反射的に僕は突っ込んだ。駄目だ、はぐらかされている。そう思った僕は質問を変えた。

「ここはどこなの?」

「ユートピアさ。」

彼女は間髪入れずに答えた。

「ユートピア?」

僕は聞き返す。彼女は劇のように重々しくうなずくと口を開いた。

「君の理想郷だよ。」

僕の理想郷?僕はこんな世界を望んでいたのだろうか。狼狽している僕に彼女は再び言う。

「ちょおっと私の手が加わっているけどね。」

呆れた僕は言う。

「なんでそんなことしたのさ。」

「それに解を出すのは君の仕事。数学は得意でしょ?」

だから何でそれを――暗転。

あれから何回「はじめまして」を聞いただろう。机には数え切れない程の傷が付いている。僕は今呆然としていた。手にはカッターナイフが握られている。僕はいま、確かに傷をつけたはずだった。それなのに、はじめましてが、彼女の声が聞こえないのだ。どうして。僕はもう一度傷をつける。声は聞こえない。もう一度、もう一度・・・

その時、僕の目の前にひらりと紙が落ちた。

――君は何から逃げているの?

頬から涙が落ちるのがスローモーションのようにゆっくりと見える。紙に涙が落ちた瞬間紙は机に溶けるように消えていた。

 途端に、動物たちの喧噪が聞こえてくる。でも、僕の頭の中には彼女の言葉がぐるぐると渦巻いていた。「ひとり」その言葉が僕の中を蝕んでいた。頭はガンガンと痛み、視界がブラックアウトする。僕は何かに向かって手を伸ばしながら気を失った。

目が覚めるとそこは本当に真っ暗だった。いや、闇と言うのが妥当だろうか。自分の体や手すら見えない。体の感覚もなくて、座っているのか立っているのか、そこが堅いのか柔らかいのかさえも分からない。何もすることがないからだろうか。僕は自然と濁流のような思考の波に身を任せていた。

僕は、きっと逃げていたんだ。あの子に言われたときにムッとしたのはきっと図星をつかれたのが嫌だったのだろう。今なら分かる。受け入れられる。自分の中でモヤモヤしていた何かが急に晴れた気がした。自分の事なのに分からないというのは情けないが、僕はずっと自分の事が不思議だった。どうして職員室に行った後に校門に行かなかったのだろう。踊り場なんて一番逃げ場のないところじゃないか。なぜ校門が閉まっていると知って手のひらを返すようにあっさりと諦めてしまったんだ?校門を乗り越えることだって出来たはずだろ。僕だって一応高校男子だ。何で動物が自分に危害を加えないと知りながら動物に話しかけなかった?多種族の動物でコミュニケーションが取れているなら僕にだって一縷の可能性はあったはずだ。何で休み時間、あの動物たちを眺めていたんだろう?読みたい本だって沢山あったはずなのに。なぜ僕は放課後必ず校門へ向かったんだ?まるで、気絶して元に戻ることを望んでいるように。

「解は出た?」

彼女の声が聞こえる。闇の中の筈なのに、なぜかその姿だけは鮮明に見えた。僕は自分が驚く程穏やかに声を出した。

「・・・わかったよ。君自身だ。」

彼女は微笑んだ。きっと彼女は僕の手助けをしてくれたのだろう。僕は、ひとりに慣れすぎていたから。

「正解。ご褒美に神様の私が一つ願いを叶えてあげよう。なにがいい?」

「元通りにして。あの教室に戻して。」

僕の意図を察したのか彼女は目を見開いた。それを見ながら僕はゆっくりと口を開く。

「本当は自分もみんなも怖かった。自分がみんなと離れていきそうで、みんなが僕の事を置いてどこか行ってしまうんじゃないかって不安だった。でも、もしそうなったとして僕にはどうしようもなかった。どうすればいいのか分からなかった。父さん1人ですら僕にはつなぎ止められないから。だから、切り離されるより先にみんなを切り離した。下等な“モノ”って区切ってしまえば明確に線が引ける。ずっとひとりぼっちでも、切り離されるよりは全然よかった。だって、自分から切った方がきっと傷つかない。馬鹿だって自分でも分かっている。でも、僕にはこれしか出来なかったんだ。・・・それももう限界なんだけどね。

だからお願い。このままでいさせてよ。君と偶に話をする。それだけで僕はもう十分だ。もし帰ってもきっと僕はどうやって生きていけば良いのか分からなくなる。何もかもを信頼するのは怖すぎるし、何もかもから切り離される覚悟を決めて生きていくのはもう限界なんだ。だから、お願い。」

「甘えないで。」

彼女の声が冷たく響く。

「駄目だよ、逃げちゃ。君は、もっと人と向き合うべきだよ。」

思わず下を向いた。震える唇を何とか動かす。

「・・・でも、どうやったら。」

もうどうにもならないんじゃないか。そんな不安が頭をよぎる。

「ニャア。」

その時、あの子猫の声が聞こえた気がした。ハッと顔を上げる。

「君は本当に怖がりだね。」

彼女がくすりと笑ったのが聞こえた。

「ねぇ、そんなに怖がらなくても良いんだよ。世界は君が思っているよりずっと暖かく、お節介に出来ているんだから。少なくとも、君にとって見ず知らずの人が助けてくれるくらいにはね。」

ねぇ猫ちゃん。ニャア。その言葉に軽く目を見開く。闇の中でも薄ら発光しているのか彼女そして子猫の体がハッキリと見えた。彼女はウインクをすると口を開いた。

「さて、魔法使いの私が一つ願いを叶えてあげよう。何がいい?」

どうやら設定はまた変わったようだった。僕はため息をつくと目を閉じた。

・・・答えがすぐそこにあるのは分かっている。何度も口にしようとしては留めていたのだから。どうやらその言葉は僕の今までを崩してしまうような破壊力を持っているようで。だからこそ僕は敢えてその言葉を叫ぶように口にした。今まで自分が口に出来なかった分を全て出す勢いで。

「――助けて。」

一度言葉を出すともう止まらなかった。

「怖い、寂しい、もう嫌だ!ねぇお願い。僕を助けて!」

「よろしい。」

彼女はクスッと笑うと演技がかった重々しくも嬉しそうな声でそう言った。途端に暗闇から急速に引っ張られる感覚がする。僕は思わず彼女に向かって手を伸ばす。すると、その手が絡め取られて彼女の手が僕の頬に当てられる。彼女は愛おしげに目を細めるとそっと言葉を紡いだ。

「大丈夫、自信を持って。だって貴方は私の――」

暗闇から光へと引っ張り出される。僕は眩しくて閉じていた目をそっと開けた。飛び込んできたのは蛍光灯の光と無数の、人の目。そして生暖かい舌。子猫が僕の顔を舐めているようだった。クラスメイトが僕を見ていた。後ろの方の人も心配そうにこっちを覗き込んでいる。

「目が覚めた!」

わっと歓声が上がる。

「大丈夫?今の気分はどう?気持ち悪い?熱は・・・ないかな?」

勝手に感情を押しつけては自分の行動に酔う偽善者が、

「俺、保健室の先生呼んでくる!」

クラスを煩くすることしか能がない馬鹿が、

「おい、騒ぐなよ!頭に響くだろ。」

自分のことにしか関心のない自己中心的な奴が、

「今毛布持ってくるから。」

「何だっけ、衣服を緩めてスポーツ飲料飲ませるんだっけ。」

“人並み”であることに何の違和感も抱かない愚者が、

僕の事を心配してくれている。こんな、僕の事を。

――まくし立てるなよ委員長。

でも、心配してくれて

――保健室の先生?そんな大げさなことしないで。

でも、そうやって色々走り回ってくれて

――騒ぐなって言ってるけどお前が一番煩いって、優等生。

でも、僕の事を一番冷静に考えてくれて

――対処の仕方ばらばらじゃないか。なんで風邪と熱中症に見られているんだよ、僕は。

でも、精一杯考えてくれて

 今、僕の体調は最悪なんだろうな。みんなの顔は歪んで見えるし、鼻が詰まって時々しゃっくりあげてもいるから呼吸が苦しくて仕方ない。だから、これは仕方ない。ただ言うのが怠いだけだ。未だ素直になれない自分に言い訳をすると、僕はみんなに言いたかった言葉をそっと吐き出した。久しぶりに出す声は掠れていて、まるで吐息のような小ささだったけどちゃんと聞き取ってくれたみんなは満面の笑みを浮かべて声を揃えてこう言った。

「「「「「どういたしまして!」」」」」

そんなみんなに囲まれて、僕は自然と笑っていた。

 今日は長い一日だったな。僕は家に帰ると息をついた。後でクラスメイトに聞いたことだが、僕は頭を打って気絶していたらしい。なかなかに格好悪い。今度、喧嘩の仕方教えてやるよ、とのクラスメイトのありがたい言葉に僕は近年稀に見る程の引きつった顔で固辞させて頂いた。・・・まぁ、遊び程度ならやってもいいんだけど。そんな考えが浮かんだことに自然と笑みが浮かんだ。

なんだか今日は随分久しぶりに、昔のアルバムが見たい気分だった。昔は、それこそ母さんのいた頃はアルバムを見ることが好きだったのに。家の中をあちこち探してようやく見つけた埃だらけのアルバムを軽くはたいて僕はアルバムを捲っていく。捲ってからどのくらいの時間が流れたのだろうか。子猫がとある写真に前足を乗せてニャアと鳴いた。それはやや色あせた一枚の少女の写真だった。やっぱり貴女だったんだね、心の中でこっそりと呟いて微笑む。僕は子猫を連れて玄関へと向かった。父さんをお出迎えするなんて小学生以来でちょっと気恥ずかしい。僕は苦笑した。でも、今日は話したいことが沢山あってもう待ちきれない程なんだ。今までずっと話せなかったことも今日ならきっと話せる気がするんだ。

マンションの廊下を足音が響く。父さんだ。心臓が大きく音を立てる。少し息苦しい。目を逸らされたら、無視されたらどうしよう。ネガティブな考えが頭をよぎったその時だった。

 トン、と小さく背中を押された気がした。がんばって、と言われたようで僕は微笑む。僕は大きく深呼吸をした。うん、大丈夫。だって僕は自慢の息子らしいのだから。ねぇ、母さん?どこかで彼女が小さく笑った気がした。鍵の開く音がして扉が開いていく。僕は小さく息を吸い込んだ――。

その日は少年に、いや家族にとって最高の日となるだろう。 少年と壮年の男性が楽しげに話す姿を後ろから見ていた彼女はくすりと笑うとそっと姿を消した。


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