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自室を出た柊史郎が向ったのは、階下の一室だった。
桃井庄蔵の研究室である。柊史郎の部屋と比べて床面積はやや広いくらいだが、わけのわからない装置が幾つも散乱していて、雑然としている。しかも、ブラインドは下りたままで、部屋は薄暗い。
柊史郎はものも言わずにドアを開け、部屋の中を突っ切ると、壁にあるもう一つのドアの前で立ち止まった。
「おいジジイ、もう寿命か?」
乱暴にノックしながら、声を掛ける。すると中から、入りなさいと応える声がした。
「なんだ、もうくたばったのかと思ったぞ」
ずかずかと入って無愛想に言う柊史郎に、庄蔵は笑顔で椅子を勧める。
ここはもともと仮眠室として作られた部屋だが、ベッドにテレビ、冷蔵庫、電子レンジや炊飯器まで揃っている。桃井庄蔵は、だからほとんどここに住んでいると言っていい。当人は朝夕のジョギングを欠かさないパワフル爺さんだが、四畳半と狭くて窓も小さい不健康なこの部屋を、いたく気に入っているのだ。
「なに、まだくたばりゃせんよ」
好々爺よろしくのんびりと、庄蔵は笑う。しかし、低いベッドの上に胡座をかいて煎餅をかじっている姿は、着ているものが白衣でなかったら、老け込んだ隠居爺のようだ。昔は人相の悪さを強調していた頬の傷も、今では皺に紛れて痛々しいばかりである。
差し出された煎餅の袋からひとつ取り出し、それを頬張りながら柊史郎は言った。
「鬼島寅之助が、なんかヤバイことでもやらかしたのか?」
唐突に切り出されて、庄蔵はしょぼしょぼと目を瞬かせる
「椿から聞いた。あんな掃除ロボット、欲しいなら気が向いたときに作ってやってもいいんだぞ」
なんでも無いように言いながら、柊史郎は丸椅子の上で器用に胡座をかいた。
「大体、俺が造ったそのままの機能ってことは、それを排除する仕組みを理解できてないってことだ。つまり、鬼島は馬鹿だってことだな。つーより、無能だな。もしかしたら和臣以下だ」
「そりゃそうじゃろ。あの男は、真似事と裏工作には秀でておるが、他はからっきし駄目じゃ」
「わかってんじゃねぇか。だったら、他に何かあるってことだろう? いくらジジイがこの狭苦しい部屋を好きだといっても、引きこもって生い先短い生涯を悲観するには早いんじゃないのか? ま、このままあの世に行って、ババアに再会するのもジジイの勝手だが」
ここに椿がいたら、おじいちゃんになんてこと言うの、と怒りそうだが、生まれついたときからの言葉遣いを直そうとする柊史郎でもない。
なにより言われた本人が、柊史郎には敵わんの、と笑みを浮かべるのだ。そして、その笑みを溜息と一緒に消し去ると、庄蔵は視線を空中に停止させたまま話し始めた。
「――あれは、椿がまだ二歳の頃じゃ。当時わしの助手をしておった鬼島は、わしに無断で人体クローンの研究をしておった。それを最初に発見したのは、当時鬼島と同じ研究チームにいた椿の父親だったんじゃが、鬼島がここを辞めてしばらくした頃、事故に遭ってな。息子夫婦と生まれたばかりの赤ん坊は、あっけなく逝ってしまった」
庄蔵の頬に残る傷は、その時のものだと柊史郎は聞いている。椿達家族四人と祖父の庄蔵、五人での家族旅行中だった、と。あたしはおじいちゃんが抱いて庇ってくれたから、と珍しく神妙に椿が話したのは、もう何年も前の命日とかいう日のことだ。
「んなことは知ってる。その、赤ん坊だった『柊史郎』が、俺のオリジナルだってこともな」
柊史郎は、唇の端を持ち上げて笑って見せる。卑屈の裏返しではなく、強いて言うなら、そんなことに気を遣っているような所がある庄蔵の気の弱さを、嘲っているという方が近いだろうか。
「わしは……欲望に負けたんじゃ。死んだ者は還らない。それを、椿に正しく教えてやることができなかった。家族はどこか遠くに行ってしまっただけで帰って来ると信じている椿に、せめて小さな弟だけでも……と」
そこまで言って、庄蔵は視線を落とした。それから、自責の念を込めた溜息を吐く。
「いや……違うな。わしは、科学者の端くれとして興味があっただけなのかもしれん。人道に反した行いの結果……どういうことになろうとも」
「まあ、ジジイの気の迷いのおかげで俺が生まれたってことだよな。オリジナルよりも数倍バージョンアップして」
「それは……その、不慮の事故でな。途中で何度か失敗しそうになっての。無理やり蘇生させた結果、お前みたいな突然変異が生まれたというわけじゃの」
「あっそう」
柊史郎は気にするでも開き直るわけでも、もちろん傷つくでもなく、煎餅をもう一枚口に放り込んだ。
「鬼島は、わしを恨んでおる。わしは、お前を誕生させるために、鬼島の協力を仰いだ。しかし、鬼島が再三要求した学会発表だけは、わしは断固拒否し続けたのだ。確かに当初は鬼島の理論が土台にあったが、それに手を加え、完成させたのはわしじゃからの。奴は、すべてを掌握するには至っておらんのだ。結局、業を煮やした鬼島は……」
「――自分の力だけで、もう一度、完成させようとしたということか」
「その通りじゃ。じゃが、そう簡単にはいくものではない。失敗を重ねておるようでな、だから、数々の突飛な発明を発表して、研究資金集めをしようと必死なわけじゃ。あわよくば、名声を得て、わしに負けを認めさせたいわけじゃの」
「それで他人の知恵を盗んだ掃除ロボット、というわけか」
だっせーな、と柊史郎は鼻で笑う。
「わしはな、柊史郎。お前を誕生させたことを悔いたことはない。……だが、鬼島寅之助を増長させる研究は、すべきではなかった」
随分と矛盾した意見じゃが、と弱く笑った庄蔵は、しかし背筋をぴんと伸ばし、確固たる口調で続ける。
「鬼島が実験を成功させるようなことがあれば、世も末じゃ。金儲けに走り、我欲に溺れるのは必須。……それは、奴がこれまでの研究で、いかに生命というものを軽視しているかを見れば明らかじゃ。わしは、どうにかして鬼島の研究を阻止する方法を、考え出さねばならん!」
「それでこんな所にこもっていたわけか」
くだらねえ、と言い捨てて、柊史郎は丸椅子から腰を上げた。両手をチノパンのポケットに突っ込んだまま、庄蔵を見下ろす。
「俺、週末はちょっと出かけるからな」
「どこへ行く?」
素に戻って問い掛ける庄蔵に、柊史郎はにやりと笑って見せた。
「鬼退治」
一瞬、ぽかんと口を開けた庄蔵は、おもむろに引き出しから布袋を取り出した。持って行け、と柊史郎に放り投げ、同じくにやりと笑う。
「胡椒爆弾じゃ。通常の五倍はくしゃみを誘発する」
「……何もしてないかと思ったら、密かにこんなもん作ってやがったのか。ジジイも大概、性格曲がってんぞ」
じゃあな、と一応挨拶をして、柊史郎は部屋を出る。
胡椒爆弾の入った袋を振りまわしながら、彼は上機嫌そのもので廊下を歩く。
すれ違った数人が、恐ろしいものを見たと肩を寄せ合ったという話は、後日、明らかになった事実である。
「あ、お帰りなさい。柊史郎くん」
研究室に戻った柊史郎に、頼政が真っ先に声を掛けた。
「おかえりー、柊ちゃん」
「遅かったなあ、柊史郎」
これ以上ないくらいくつろいだ様子で、椿と和臣が同時にドアの方を向く。
ソファに腰掛けて仲良く茶を飲んでいる二人の目の前、ローテーブルの上には、菓子箱と包装紙が無造作に散らかっている。何を隠そう――いや、隠すまでもなく今日の柊史郎のおやつだったはずの、きびだんごの残骸だ。
「……てめぇら、誰の許可を得てくつろいでやがる」
「だってー、おやつの時間にはちょうどよかったんだもの。頼政クン、お茶淹れるの上手だし」
「そうそう、このだんごも、結構うまかったしな」
「――頼政」
柊史郎にじろりと睨まれ、呼ばれた好青年は、額に薄っすら汗を浮かべて背筋を伸ばした。
「お前も食ったのか?」
「えっ? ……あのっ……それは……」
「食べたわよ。ひとつだけ、だけど」
「いや、それは椿さんと遠野くんが無理やり……っ」
「やあだ頼政クン、往生際が悪い男は嫌われるわよ?」
椿が口を尖らせて言うと、和臣が全く悪びれた様子もなく言い放った。
「いいじゃねえか。お前だって、所長から煎餅取り上げて食ってたんだろ」
その直後、沈黙が訪れる。
まさに、時計の秒針の音まで聞こえるくらいに、しーんと。
「……貴様、今何か言ったか?」
沈黙を破ったのは、にこやかな顔の割に凄みをきかせた、柊史郎の声だった。
「さーてっと。あたしはそろそろ帰ろっかな」
まるで何事も無かったかのように、椿が立ち上がる。
「待ちやがれ、椿。どうせてめえが黒幕だろうがっ」
「だってー、柊ちゃん怒るもん」
「今はまだ怒ってないとでも思ってんのか?」
口元に笑みを浮かべつつ、柊史郎は椿の目の前に右手を出した。
「隠してるものを出せ。でないと素っ裸にして池に落としてやる」
「なにいっ、なんてこと言うんだ柊史郎っ。つつつ、椿さんを素っ裸……ぐあっ」
仰け反った和臣の顔面には、来客用の灰皿が命中している。柊史郎が目にも止まらぬ早技で、テーブルの上の灰皿を蹴飛ばしたのだ。
「だって、一回やってみたかったんだもんっ」
上目遣いに柊史郎を見上げつつ、椿は背中に隠した手のひらサイズの物体を差し出した。
それはちょうど、携帯電話に似ている。小さな液晶画面とボタン、それから側面にはイヤホンが取り付けられるようになっている機械だ。
画面の上にはレンズが取り付けられており、電話の要領でダイヤルすることによって受信側の映像と音を、自動的に送信側に映し出すことが出来る。トランシーバ機能付き小型監視カメラと銘打って、かつて柊史郎が遊び半分で作った代物だ。
「これでジジイの部屋を覗いていたってわけか」
一見すると他意のない笑みを浮かべつつ、柊史郎は機械を没収する。
椿は、あら残念と呟いて、それから唐突に――いや、かなり白々しく手を叩いた。
「そうそう、そういえば。あの話をしたら柊ちゃんはおじいちゃんの部屋へ行くだろうって予測していたのー、頼政クンよね?」
「え、ええっ? いや、ぼ、僕はっ、椿さんがこんなことを企んでいたなんて知らなかったんですよっ」
強引に矛先を向けられた頼政は、半ば青褪めて飛び退いた。
しかし、顔面の痛みから復活した和臣は、まるで懲りていない。
「まあ、柊史郎も所長の前ではいいとこあるじゃないか。鬼退治とやら、この俺も付き合ってやっていいぞ」
「あたしも行くわ。あのオヤジ、絶対仕返ししてやるって心に決めていたのよ!」
「駄目ですよっ。危ないことは……っ」
飛び退いたはずの頼政は、ずり落ちそうになった眼鏡を押さえつつ、唯一常識人の意見を口にする。
「だって、柊ちゃんだけ行かせるなんてできないわ」
「椿さん、俺は何があろうとも、あなたの盾になってみせますとも!」
「いけませんってば」
「――つまり、だ」
勝手に盛り上がり始めた三人を目の前に、柊史郎は殊更ゆっくりと口を開く。
「人の言動を肴に、そうやって楽しんでいたってことだな。そして、こともあろうに、俺様のだんごを全部食いやがった、と」
いい根性してるじゃないか、と柊史郎はにっこり笑う。桃井柊史郎という人物をよく知る者が悪魔の微笑みと呼ぶ、それである。
「全員、死刑!」
柊史郎は高らかに宣告した。そして、どこからともなくロープを取り出した瞬間、三人の動きが停止する。
「なにすんだ、てめえっ」
「いやーん柊ちゃん!」
「わああ、僕は無実ですーっ」
三人三様の悲鳴を無視して、柊史郎は三つの身体をまとめて縛り上げた。そして、身動きを封じられた三人を、廊下に放り出す。
「愚か者どもに天罰を!」
嬉しそうな笑顔と共に、柊史郎が廊下に叩き付けたものは――。
「くらえ、胡椒爆弾!」
ボンっと弾ける音がして、中から煙が吹き出す。直後、廊下ではくしゃみの大合唱が始まった。
「……まあ、まずまずの効き目だな」
ときどき、覚えてろとか、助けてとか、酷いですといった言葉も混じっているようだが、そういった批難を気にするような優しい独裁者は世の中に存在しない。
柊史郎は部屋の中、ひとり悠々と茶をすする。
彼は読みかけだった『日本昔話』を手に取ると、執務机の上に足を投げ出して、この日二度めの読書に勤しむのだった。