プロローグ
コンクリートの壁に、かすかな機械音が響いている。
小さな体育館ほどもある部屋には窓もなく、煌煌とした灯りもない。立ち並ぶように置かれた計器類のランプや端末の画面が、かろうじて足元のケーブル類の影を映す程度だ。
床中を這うケーブルは、無機質な部屋の中央に向って伸びている。そして、ケーブルが集約された先には。
――子供が、いた。
薄緑色に浮かび上がる円柱形の水槽の中に、身体を丸めて浮いている全裸の子供がいる。さながら胎児が母親の羊水の中でそうしているように。
しかし、赤ん坊ではない。
肩に届くほどに伸びた黒髪は、水槽の中でゆらゆらと揺れ、生白い身体は子供らしい膨らみを帯びている。しかし、その姿はどこか異常だ。普通ではない。
そう、普通ではないのだ。母親の腹から生まれぬ子供など。人口羊水のなかで、三年も育ち続けているなど――普通ならばありえない。
「……ついに」
桃井庄蔵は、妖しい光を湛える水槽を見上げながら、低く呟いた。
「ついに、このときが来た」
息子夫婦の命を奪ったあの忌まわしい事故から五年、やっとこの日を迎えることができたのだ。
水槽に歪んで映る桃井の顔には、今もまだ、当時の傷跡が残っている。不精髭に埋もれた頬傷は、とても研究所の所長の肩書きを持つ人物には見えない。
水槽に併置された計器が、『ピ、ピー』という電子音を発した。続いて、計器に接続された端末画面に、人口羊水の水位が下がることを示す図面が、アラームと交互に表示される。
そのとき。
――ゆらり。
水槽の中の子供が、ゆっくりと首を動かした。
閉じていた眼が――開く。
蒸気の抜けるような音が、部屋に響いた。それと同時に、水槽の中の水位が下がり始める。
少しずつ、しかし確実に。
やがて、水槽の中の液体が全て排出される。
子供は――いや彼は、水槽の中に横たわるでもなく、うずくまるでもなく、しっかりと立っていた。
「なんと――」
桃井博士の口から、思わず感嘆の声が漏れる。
ややあって、水槽の正面が左右に開く。感動に震えながら、水槽にもう一歩近づいた博士は、次の瞬間、両目を剥いた。
「……くそジジイ」
ぱっちりとした黒い双眸。愛らしいぷっくりした唇。子供らしい高い声。それはどれも期待以上だ。
――しかし。
「こんなところに三年も閉じ込めやがって。もうちょっと早く出せっつーの」
広い額に貼り付いた髪の毛を煩そうに払う、不機嫌そうな態度と言葉遣いは、とても幼児体型そのままの三歳児ではない。
彼は、濡れた身体のまま、ぺたぺたと水槽から出てくると、床に飛び降りた。
「風呂入りてぇ。これ、なんかヌルヌルして気持ち悪ぃんだよ」
腹も減った、などと呟きながら、そのまま博士の目の前を横切っていく。
齢五十を過ぎ、大抵のことでは驚かない自負のあった桃井庄蔵は、口を開いたまま茫然と立ち尽くすばかりだ。
「あ、そうだ」
異端の三歳児は、ふと思いついたように振り返る。
「この部屋の出口って、どこだっけ? 水槽の中からだと見えなかったんだよな」
わずかに眉根を寄せて、唇を突き出すような顔「だけ」ならば、どこの子供にも負けないくらい、可愛らしい坊やに見えるというのに。
「な、なんと元気な男の子じゃ……」
――長い長い沈黙の後で、桃井博士はやっとひと言、そう呟いた。