東北へ
三月十二日、早朝。母、弥生の部屋。
外から微かな光が差し込む薄暗闇の部屋の中で、俺は呆れていた。
閉めきられたカーテンを両手でザァーと開けると朝日の温かさを正面から受けた。
朝日を窓越しに浴びてなお、ふかふかベッドで母は布団を首から下に被せ密やかな寝息をたてている。
自らが予定した時間に起きないとはどういうつもりですか?
こちらは予定通りの 六時に起床したというのに、寝坊とはいい度胸だな。
寝ている母に近づき布団をかばっと捲りとった。
「漬物天国だぁ~ふにゃふにゃ……」
何が漬物天国だぁ~だ!
喜悦に浸った顔で寝言を口にした母は寝返りをうつ。寝返りで落ちるギリギリの端に移動してなお、喜悦そうな顔は変わらない。
もう一度同じ方向に寝返りをうった。無論ベッドからドンと痛そうな音を響かせて若葉色のカーペットに墜落した。
当然、目覚めたと思ったが、どんな睡眠をしているのか、はたまた体が鋼なのか、笑顔で寝息をたてている。
「あわ~ぬか漬けにされる~むにゃむにゃ」
何がぬか漬けにされる~だ!
いろいろ突っ込みたい所はあるが、起こすことを優先し体を揺らした。
「起きろー!」
「何……? うるさい!」
体を揺らすために掴んでいた左肩に乗っている俺の手をはらった。
そして不満げに言った。
「楽しい夢見てたのに、邪魔しないで欲しかった!」
「ごっごめん」
咄嗟に謝ったが俺が謝る理由って?
そんな疑問の答えが出る前に母は立ち上がり、俺を見下ろした。
「な、なに?」
「着替えるから退室願います」
ああ、そういうことか。
「わかったすぐ出るよ」
そして立ち上がってドアのドアノブに手をかけた時言い忘れてた、と唐突に口にされた。
「ありがとう暁」
その一言だけを俺に言った。
俺は何も返すことなくドアノブをひねって部屋を出た。
朝食を済まし、身なりを整えた俺達は今から出発するところだ。
運転席に座る母は白のスウェットに細めのデニムという春らしい服装だ。スタイルが良いからかやたら似合っている。
対して俺は今日も今日とて、上下ジャージのオシャレセンスがない格好だ。我ながら情けない限りだ。
物憂げな横顔を一瞬見せた母は、運転席の背もたれに体を預けた。
どうした、と尋ねるとお礼を言わせてと振り向いた。
「暁が起こしてくれなかったら、予定より遅れて出発することになってたわ。毎朝起こしてくれてありがとね」
母は後部座席の左に座る俺の顔を見てそう言った。
そして、少し口元を緩めた笑いを見せた。
「いい加減自分で起きれるようになってくれよ」
呆れたように俺が言うと、はいはいと気だるげそうに返ってきた。
「あと母さん、一つ言っていい?」
「何?」
母は車のキーをもう穴に差し込んでいて、捻った直後の低いエンジン音が唸り車中に軽めの振動ともに響く。
後部座席で俺の横に魚釣りをする人が持っているような水色のクーラーボックスが知らぬ間に置いてあり、俺はそれを指差し呆れ気味に尋ねた。
「このクーラーボックスの中身は?」
案の定、返答は__
「決まってるじゃないか漬物だよ」
決まってねぇよ!
被災地に漬物を好んで持っていく人など目の前で不思議そうな顔をしてこちらを凝視している漬物マニアの俺の母くらいだろう。
うんざりしているのが顔に出ていたのか訝しそうに尋ねてきた。
「そんなに漬物が嫌いか?」
「嫌いってわけじゃねーけど」
普通に赤・黄・緑の三色を摂取できる料理にするべきだと思うが、常日頃から食事は漬物しか食べない母に言っても気分を悪くさせるだけだろう。
料理の腕がもったいない。
「入ってる漬物は自家製ぬか漬けとキュウリの旧くんとたくあんの三点」
自信ありげに喋った。
「喋ってないでそろそろ行かないと時間無くなるぜ」
俺が促すとそうだね、と軽く頷きハンドルを両手で握った。
母がペダルを踏み込むと砂利が敷き詰められた庭へ前輪が入り、クゴゴゴと聞き慣れた砂利がかすれあう音とともに前進した。
車体が庭を抜けると先程の音はなくなり、エンジン音だけになった。
母は左右に目を配り用心しながら向かってくる車がいないことを確認した。
そして、ハンドルを切りながらペダルを踏み細い道出た。
早朝だからか道は人も車も少なくやけに空いていた。
たまに見かけるといえば、ジョギングしているジャージ姿の中年ぐらいだ。
しかし大通りに出ると車の台数が著しく増え、八時近くなったからかスーツ姿の人達があちらこちらにピンとした背筋で歩いている。
土曜日だというのにお勤めご苦労様です。
そんな行き交う人達に、至るところに屹立しているオフィスビルが日射を当てさせまいとしているように細長い影をつくっている。
ビル群の真ん中を貫くように大通りは真っ直ぐ続き、いつの間にか名古屋インターまで来ていた。
そこから高速道路で東北に向かった。
車窓から望む街は非常にちっぽけだった。
大通り周辺で屹立していたビルが、ただの細長い直方体に見えるからだ。
一直線に進み、見下ろす街は田園地帯や住宅街に名古屋までとはいかないがそこそこ高いビルが点在している小都市まで、流れていくように変わっていった。
そして時折、短い休憩を挟みながら約十一時間かけて岩手県盛岡市に到着した。